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胸の痛み

「酷い顔だな。もしかして眠れてないのか?」


 数日後、俺を見た長老はひょいと眉を持ち上げた。

 俺は彼の言うその酷い顔のまま無言で見つめ返した。何も言うことはない。何も言いたくない。

 長老は気になったようだが、ふむ、と息をついて続けた。


「ケーナの熱は、もう下がった。昨日の時点で全快と言っていい状態になったよ」


 思わず身を乗り出した俺を、長老は面白いものを見る目で眺める。


「そんなに心配だったか」

「それは……もちろん」

「会いたいか?」


 俺はその時、なぜかとっさに答えることができなかった。

 言葉に詰まる俺に、長老はすまなさそうな顔をした。


「いや、期待させて悪いな。実は会わせることはできないんだよ」

「え……?」

「わしの言葉をもってしても皆を説得することはできなかったということさ」


 話を聞くとこういうことだった。

 もともと獣人たちは、ヒトに虐げられたという伝承を聞かされて育っているらしく、人間に対していい印象を持っていない。

 それに加えて今回ケーナがこんな目に遭ったのは、俺のせいだと思っているというのだ。


 獣人たちは皆一致してその意見で、特にケーナの家族が強く面会に反対しているとか。

 そして、長老はその思い込みを解くことができなかった。

 理由はよくわかる。その思い込みは偏りを含んではいても、全くの誤解ではないのだから。


「というわけで、すまないが今は我慢してくれ。だがそのうちきっと――」

「分からないんです」

「ん?」


 言葉を遮ったこちらに、長老は不思議そうな視線を注いだ。

 俺はうつむいたまま言葉を繰り返した。


「分かりません。ケーナにどんな顔して会えばいいのか」


 俺の脳裏に浮かんでいるのは、シラハウオに呑み込まれるあの小さな背中だった。


「いつものケーナだったらあんな不覚を取るはずがないんです。俺をかばったのかも。足手まといがいなくて一人だったら、もしかしてあんなことにはならなかったのかも」

「君のせいだというのかね」

「それも分かりません。そして、だからこそどんな顔をして会えばいいかも分からない……」


 そう、だからさっき、ケーナに会いたいと即答できなかった。


「難しく考えることはない。会いたいか会いたくないか、それだけだろう?」

「……」


 そう言われても、やはり「分からない」だった。

 押し黙った俺を見て、長老はため息をついた。


「変なことを言って悪かったな」


 そして立ち上がる。


「申し訳ないがわしはまた少し離れるよ。この年でもやらねばならないことはなくならないもんでな」


 天幕から足音が遠ざかり、一人の静寂が俺を包んだ。






 敷物に横になってぼうっとしていた。

 やることがない。外にも出られないので時間の感覚もなかった。

 天幕の布の向こうからは足音や人の声が時々聞こえてくるが、それもうつろに聞き流して、ただひたすらに意識を溶かしていた。


 ふと、懐かしい声が聞こえた気がしたのはしばらく経ってからだ。

 俺は無意識に体を起こしていた。


「……」


 天幕にはあちこちほつれや裂け目があって、そこから外を見ることができる。

 穴の一つから覗いた先にはケーナがいた。


「……!」


 思わず息をのむ。

 病み上がりのどこかぼうっとした表情で、彼女は揺り椅子に腰かけていた。小春日和のような柔らかい日差しを受けて、気持ちよさげに目を細めている。


 脇には妹だろうか、小さい女の子が座って、しきりにケーナに話しかけているようだった。

 ぼんやりしながらも彼女はうなずいたり笑い返したりして、穏やかな様子だ。

 俺の見たことのない表情だ、と思った。


 と。

 彼女らの方に近づいていく人影があった。獣人の少年。誰だか分かった瞬間、頬が鈍く痛んだ。俺を殴った彼だ。

 ケーナははっとしたように表情を引き締めた、ように見えた。明らかに緊張して、けれども怖がっているという風でもない。


 何か短く言葉を交わして、少年は去っていった。

 ケーナはうつむいて手の中を見ている。そこには小さな花を開かせた木の枝があった。少年がケーナに渡したのだ。

 どこか哀しそうな、彼女の顔。だがそこには少しの喜びの色もあるように見えた。


 その表情も、俺は見たことがなかった。

 急に胸が苦しくなって、俺はその場を離れた。






「タルガがお前を殴ったそうだな」


 その日の夕方にやってきた長老は、そんな言葉から会話を始めた。

 当然言っている意味が分からなかった俺に、長老は説明を足した。


「タルガはここの若者の一人だ。お前をここに連れてくるときに殴ったと言っていた」


 そしてにやりと続ける。


「ゆくゆくは一族の長になると目されていて……ケーナを嫁にする男だよ」

「……そうですか」


 長老は俺の反応を訝しく思ったようだ。


「気にならないのか?」


 気にならないといえば嘘になる。だが何となく予想はしていた。朝見た光景が、目に焼き付いている。少年へのケーナの対応には、何か特別なものを感じたのだ。

 俺は小さく首を振った。


「ケーナが元気になったのなら俺はそれで……」

「ふうん?」


 なにかしら事情は察したのかもしれない。長老はそれ以上突っ込んでは来なかった。


「ところで……君はこれからどうするね?」


 俺はしばらくその言葉の意味を考えて、理解した。

 ケーナの体が治った今、俺をここにとどめておく理由はないということだろう。


「別に……出ていきますよ。それとも殺します?」

「それはない。意味がないからな。食えるところもなさそうだし」


 軽口をたたいてから長老は眉尻を下げた。


「余計なことかもしれないが、自棄はよくないぞ?」

「はい」


 俺は即答した。

 長老はそれを見て、


「……やれやれ」


 ため息をついて天幕を出ていった。

 俺は膝を抱えてうずくまった。

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