獣翁
目を覚ました。
頭痛がして、軽い吐き気もある。
何やら薄暗く、どうやら天幕の中のようだ。
地面に直接転がされていてそのせいか肩がズキズキと痛んだ。
「ケーナ……」
起き上がろうとすると手が動かなかった。後ろ手にきつく縛られている。
「くそ……」
うめいて、脱力した。
俺には何もできない。その諦めが、頭の中で強い痺れとなっていた。
俺にはこの束縛を解くことはできないし出て行ってケーナを取り戻すこともできない。仮にできたとして、ケーナを治すことなど到底不可能だ。
「くそ……!」
頭を、弱々しく地面に押し付けた。
どうしようもなく無力だった。
そのまま時間が流れ……
外に気配を感じた。
ぼんやりと顔を上げると、天幕の入り口をめくって男が一人こちらをのぞいていた。
見覚えのない顔だ。俺と目が合うと顔をしかめ、それから後ろを振り返った。こちらからは死角になっているが誰かいるようだ。何か話し合うような声がした。
そして男が入り口からどいて代わりに老人が一人、中に入ってくる。
背は曲がり、長く伸びた白髪とひげに半分埋もれるかのようなありさまだが、足取りは意外にしっかりとしている。そして頭からは大型犬のような垂れ耳。
豊かな白眉毛の下に、人の好さそうな細い目が見えた。
「失礼するよ」
俺の目の前まで来た老人は、腰を下ろしながらそう言った。
俺は唖然とした。老人がひょいと眉を上げる。
「……ん? もしかして通じないかね? ケーナからはこの言葉で会話していたと聞いたが」
「あ……いえ。通じて、ます」
空気が抜けるような心地で答えた。
「あなたは?」
「この一族の長老と言ったところか。名前は気にするな。意味がない」
「はあ……」
「まあ起きたまえ。その姿勢では話もしづらかろう」
「あ……はい……」
なんとか体を起こして座る体勢になる。
と、そこで気づいて身を乗り出した。
「ケーナは……ケーナは目を覚ましたんですか?」
「一応はな。意識は朦朧としているようだがね。一つ訊きたいんだが、あの子に何があった? 毒に蝕まれておるようだが何の毒かがわからないことには手当のしようもない」
「シラハウオです、シラハウオの大群……」
「シラハ? ああなるほど」
長老は振り返って、獣人たちの言葉で何やら声を上げた。足音がして、気配が一つ遠ざかっていった。
「あの群れ魚程度の毒ならば心配あるまい。ケーナは助かるよ」
「本当ですか……!?」
「ああ。もとよりあの跳ねっ返りが死ぬところなど想像がつかんな。違うか?」
長老はそう言ってにやりと笑った。俺は笑う気にはなれなかった。
「ところで……」
長老は笑みをひっこめて俺の目をじっと見つめてきた。
刃物を扱うような慎重さで囁く。
「君は、ヒトかね」
慎重ではあるが、しかし怖がっているわけでもない。
俺は無言でうなずいた。
「……そうか」
わずかな沈黙を挟んで、長老はうつむいた。
「もうヒトは滅び去ってしまったもんだと思っていたが。そうか……」
厳密にはその通りで、俺はこことは別の世界からやってきたのだから話は別だ。でもその説明は少し難しい。
「君は、我々『森に棲む者』の正体をもう知っているのかね?」
「……はい。ヒトと動物の合成体だと聞いてます」
「その通りだ。ヒトが知的生命体として新たな段階に立つための試み、その過程で生まれたのが我々だ」
新たな段階。争いを根絶した人間。
……または争いを失った人間。
「試みは上手くいったのだろうか。わしは知らん。その頃にはもう森に追いやられていたからな」
「え……」
「森に棲む者は、元から森に棲んでいたわけではない。追い払われてここに住むしかなかったんだ。まあ適性はあったようだ。恨んではおらん。森の暮らしの方がわしらには合っとる」
俺はその話にどう反応していいかわからなかった。
「だがそれでも苦い思いがなかったわけではないぞ? 苦労も多かったし失った仲間も一人二人ではないからな。研究は上手く行ったのか?」
俺は少し迷ってから小さくうなずいた。
長老はそれを確認して……かすかにため息をついた。
「安心した」
「……安心、ですか」
「ああ。研究が上手くいったということは、わしらが生まれたことにも意味はあったということだ。満足というわけでもないが、最悪でもない……」
重い疲れにも似た色がその顔を曇らせていた。
その表情のまま長老は立ち上がる。
「さて、今はここまでにしておこうか。君も疲れているだろう。休むといい」
……と言われても縛られたままの地べたでは休まるものも休まらない。
「ああいや、そこは安心してほしい。できる限りゆったりできるよう配慮はするつもりだ。では、また来るよ」
長老はそう言って天幕を出ていった。
その後、別の獣人によって簡単な食事が運ばれ、拘束も解かれた。
俺が逃げるかもとは考えないのか不思議には思ったけれど、まあ対策をしていないわけがないだろう。もしくは俺が逃げても少しも問題ではないとか。
それに思い当たってぞっとした。
そうなのかもしれない。気分が妙に落ち込んでくる。ケーナを治すために俺から聞き出すことは聞き出したのだから、もう用済みってことも十分あり得る。
そのうちきっと、追い出されるか殺される。長老の興味が俺から離れたらそれでおしまいだ。
どうしようもなく怖くなった。
食事を終え、毛布にくるまりながら天幕の空をじいっと見上げた。
殺される恐怖はまだあったけれど、それと同じくらい気になることがある。
ケーナはもう良くなっただろうか。まだ苦しんでいるのだろうか。ちゃんと食事はとれているだろうか。
彼女の底抜けに明るい笑顔を思い出した。
ケーナの笑い声が聞きたかった。今はあの変な歌だっていくらでも聞きたくて仕方がない。
でも……と気づいた。
追い出されたり殺されたりしたら、それも永遠に叶わなくなるんだな。
その途端、奈落の底に突き落とされたかのような絶望感が俺を襲った。
寒くもないのに体が小刻みに震え出す。歯の音が合わない。丸まって体を押さえつけても、奇妙な寂しさが胸の内からあふれ出して止まらない!
分かった。そうだ。俺は。
死ぬのより何よりも、ケーナに会えなくなることの方が何倍も、何十倍も、何百倍も恐ろしくてたまらないのだった。
「ケーナ……」
弱々しい震え声が口から漏れて、掻き消えた。