ケーナの故郷
夜の空。刃物のように冷たい風。
高空を行くフェルの背中にしがみついて、俺は黒々と横たわる闇をじっとにらんでいた。腕の中にはケーナ。目を覚まさない獣人の少女。
彼女の体に障らないようにあまり速くは飛べない。しかし彼女の容態を思うとゆっくりもしていられない。
ただ、それよりも根本的な問題があった。
「……なあフェル、一体どこに向かってるんだ?」
俺は目的地を知らずに彼の背中にいた。目的地に着いてケーナが助かるかどうかも全く知らなかった。
しかし無口なフウセンモグラは答えない。もし口がきけたとしても何も言わなかったんじゃないかと思うほどの素っ気なさだ。
一時間ほど前、意識を失ったケーナに必死で呼びかける俺に近づいて、彼は背中を向けてきた。
「なんだよ……乗れっていうのか……?」
フェルはもちろん何も言わない。ただ、ぐいっともう一段お尻を近づけてきただけだった。
確証はなかった。フェルを信じたわけでもなかった。だが他にできることもなかった。だから俺は必死でケーナを背負うと、彼の背中に乗り込んだ。
そして夜空を飛んでいる。
腕に抱いたケーナはいよいよ具合が悪いのか、熱っぽく、汗ばんでいるようだ。
暗くて顔は見えない。けれどもぬくもりと言うにはくっきりとした感触が手から腕から伝わってくる。
「ケーナ……駄目だ。絶対に駄目だ……」
震え声が唇から漏れる。
「研究するんだろ。ヒト文明を調べるんだろ。まだまだ全然途中じゃないか」
頼むから。俺は願った。
「頼むから死ぬなよ……絶対だぞ……!」
次第に時が止まっていくような錯覚を覚えた。パキパキと凍り付いた時間。ただ闇だけがゆっくりとその色を濃くしていく。
◆◆◆
いつの間にか眠っていたらしい。ふと気づくと地平線が明るくなっているのが見えた。夜明けだ。
手がかじかんでいる。寒い。
ケーナは、と見ると、薄明の中で彼女は青白い顔をしていた。
体力は限界のところまで来ているだろう。急がなければならないが、何をすればいいのかは相変わらずわからない。
「フェル……どこまで行くんだよ」
力なくうなだれる。このままじゃケーナが死んじゃうよ……
その時かすかにフェルの体が揺れた。はっとして顔を上げると少しずつ高度が下がっているのが分かった。着陸するようだ。
そして気づいた。目下に広大な黒が広がっている。鬱蒼と絡まり合い生い茂る木々。森だ。
俺はぼんやりとそれを眺めていた。現実味がないほど果てしない広がりだった。
フェルが着陸し、俺はケーナを背負って無言のまま地面に降り立った。
「……」
途方に暮れる。
数歩先に森の辺縁がある。そこに入れということか、それとも違うのか。
「……フェル。結局俺はどうすれば――」
彼を振り返ったその瞬間、耳元で何か風切り音がした。
なんだ? と思って俺は何気なくそちらを見た。
見て、戦慄した。
「な……」
鋭いナイフが喉元に突き付けられていたのだ。
硬直したまま目だけを動かしてナイフの持ち主を探る。こちらの死角にほぼ隠れるようにして、同い年くらいの少年が俺をにらんでいた。
この寒いのにたくましい上半身には何も身につけていない。顔にはインディアンのような化粧を施して、碁石のように底光りする眼が印象的だ。
「誰、だ……?」
「アケ。ミナ、フロンケ」
その言葉は、多分俺の質問への返答ではない。聞き覚えはあった。ケーナが最初に使っていた言葉とおそらくは同じ言語だ。
はっとして目を少年の頭へと移す。獣の耳がそこにあった。
つまり、『森に棲む者』だ。
そうか、ともう一つ悟る。ここがその『森』なんだな。
呆然として何も答えない俺にしびれを切らしたのか、少年はナイフをさらに喉に近づけた。もう押し付けんばかりの距離だ。
「カザーニチカ!」
その視線が不意にケーナへと移る。そしてぽかんとつぶやいた。
「……ケーナ?」
「え?」
少年は俺を警戒するのも忘れたかのような様子で目を見開いていた。
しばらくまじまじと観察を続け……彼は確信を得たらしい。
「ケーナ!」
知り合いか? 俺は訝しんだ。そして、まさか、と気づく。ここにケーナの故郷があるのか?
考え込んだせいで、俺は怒りの視線に気づくのが遅れた。
少年の顔は憤怒の色に染まっていた。その怒りで今にも俺の喉をかっさばいてしまいそうに見えた。
その理由は考えなくてもわかる。ケーナが弱っているからだ。彼はきっと俺のせいだと思っている。
そしてそれはきっと、間違いではない。
ナイフをしまい、少年がケーナに手を伸ばした。乱暴さはないが、有無を言わせない雰囲気があった。俺は抵抗せずに彼女を引き渡す。俺には彼女を癒すことはできない。
彼女を背に、少年はもう一度俺に向き直った。
俺は彼の目を真っ直ぐ見ることができなかった。
と、次の瞬間。
衝撃と共に目の前が真っ白になった。口の中に血と土の味が広がり、殴られたことをようやく理解する。
ちかちかする視界を持ち上げると、冷たい嫌悪の目がそこにあった。
痛かった。切った口の傷や地面で擦りむいた手のひらもそうだけど、何よりその視線が俺の心に刺さった。
少年の表情からして、もう一、二発は殴られるか蹴られるかするかと思ったし、そうされるだけの理由があるとも思った。だが、彼はただ片手で俺を引っ張り上げて立たせただけだった。
それから手振りでついてくるよう示して、少年はさっさと歩きだした。こちらが指示通りついてきているかなど全く気にしていない様子だった。
俺は迷った末、仕方なく歩きだした。心が痛んでついていくのが苦しかったけれど、それでもケーナが心配だったのだ。
ふと後ろを振り返ると、フェルが降り立った位置から微動だにせずに、じっとこちらを見ているのが分かった。目がないのに、その視線がこちらをしっかりと見据えていた。
俺は急に心細くなってうつむいた。
森の中を歩くのはつらかった。
木の枝や藪が行く手をしつこく阻むし、地面は木の根ででこぼこしている。
何度もつまづいてよろめきながら、それでも少年について行けたのは、ある種の執念だと思う。
時間の感覚が狂って何時間も経った気がしたが、実際歩いたのはせいぜい二、三十分といったところじゃないだろうか。開けた場所に出た。
酸素不足にあえぎながら膝をつく。顔を上げると、森を切り開いてできた集落があった。
天幕や小さな家屋らしきものがあちこちにあって、少年はその一つに向かっていくところだった。
俺は最後の力を振り絞って立ち上がった。よろよろと追いかける。だが二人のがっしりとした人影が目の前に立ちはだかった。
やはり森に棲む者の男たちだ。俺はかすむ視界にそれを見上げ――
意識を失って地面に崩れ落ちた。