ウサギ穴
体はしっかり拭いて乾かしたはずだったけれど、それでも高空の風は冷たい気がした。ケーナに借りたぶかぶかのつなぎは無駄に空気の通りがいいので余計にそう感じる。
「それにしてもどこに向かってるんだろうねえ……」
フェルの頭に近い側で、こちらはブラウスと作業ズボンのケーナがつぶやいた。その腕の中にはダンガンウサギのミルがいる。
俺たちは彼女の案内で荒野の川を逆にたどっているところだった。
◆◆◆
「ミルちゃん!?」
時を少し巻き戻して浄水場。
唐突に現れたミルに、ケーナが驚きの声を上げた。
呆然と見上げる俺にケッと砂をかけるような仕草をしてから、ミルはケーナの腕の中に飛び込んだ。
「うわーミルちゃん久しぶりー!」
撫でまわすケーナと甘えるミルと。
それを横目にプールからはい出た俺は、疑問をそのまま口にした。
「なんでそいつがここに?」
途端にミルの強烈な視線が俺を射抜く。俺は少し腰が逃げる。
「ここまで上ってこれたのは、多分強靭な脚力のおかげだと思うけど……」
それがマジなら強靭すぎるよ……
「でもわざわざ上ってきた理由はなんだろ?」
その時ミルがぴょんと腕から飛び出した。軽い足取りで出口の方まで進み、立ち止まってこちらを振り返る。
「……ついてこいってことかな」
ケーナの言葉にミルはこくこくとうなずいた。
「だってさ、どうするケースケ?」
「やめといた方が。どこに連れていかれるか分かったもんじゃないし」
言い終わる前に再度ミルの頭突きを食らい、俺はプールに転がり落ちた。
◆◆◆
風が吹いた。くしゃみが出た。
「大丈夫?」
「ん。ちょっとムズムズしただけ」
鼻をこすって前方に目をやる。以前見たのと同じ、広くて寂しい景色がそこにある。
全体的に赤茶けている土地だ。起伏が激しいので、歩いて移動するには多大な労力がいるだろう。車は当然ながら使えそうもない。
車か。俺はふっと胸の内がかげるのを感じた。俺は車が嫌いだった。嫌な思い出があるのだ。
あれはまだ小学校に入ったばかりか、まあそのあたりだったと思う。俺は幼馴染と大喧嘩した。
理由は何だったか。思い出せないので多分大したことじゃないんだろう。でもその時そいつに言われた言葉は今でも覚えている。
「いくじなし! なんであそこで諦めるのよ!」
声の響きまでくっきりと頭に刻まれて離れない。
俺はその言葉で猛烈に怒った。到底受け入れられる言葉じゃなかった。でも、あまりにムキになりすぎたせいでその幼馴染を泣かせてしまった。
幼馴染は涙を流しながら走って行った。
そして、前をしっかり見ていなかったのだろう、俺の目の前で車にはねられた。
ぴかぴかした青い車で、その綺麗な輝きが妙に目に残った。
あれから俺は誰とも張り合わなくなった。
轢かれた幼馴染に大事はなく、退院してからも付き合いは続いているけれど、それでも俺は怖くなった。
争うってことは、それだけ恐ろしいことなのだと身をもって知ってしまったから。
『人間は争いを根絶する方法を得たのです』
ハナンの声が頭に響く。
もしその言葉が本当なら、一体それはどんな方法なのだろう。そしてそれによって何が起こり、どんな世界になったのだろう。……なぜヒトは滅びてしまったのだろう。
わからないことだらけだ。でも確かなこともある。
「俺もその答えを知りたい」
ミルになにやら話しかけているケーナの背中を見やりながら、俺はつぶやいた。
数十分ほど飛んだあとのことだった。
「え? あっち?」
ケーナの声がした。
「どうかした?」
「ミルちゃんがあっち行きたいって」
そう言って彼女が指さす先には小高い丘がある。ちょうど周りの地面が起伏によって谷のように切り込んでいるので、その分余計に高く見えた。
「川のすぐそばだから、流されてきた土が堆積してできた丘かなあ?」
「へえ……?」
俺たちは顔を見合わせて曖昧に首を傾げた。
特に何かあるような場所には見えなかったのだ。わざわざ連れてくることないじゃん、と言うと頭突きされかねないので黙っておいたけど。
ケーナの指示でフェルが高度を落としていく。ケーナの腕からミルが飛び出して着地した。走ってさっさと丘の方へ行ってしまう。
「待ってよミルちゃん!」
俺たちも追いかけて走ったが、途中でなぜか見失ってしまった。
「あれ?」
見回すが影も形もない。
起伏が激しいとはいえそこまで隠れられる場所は多くないはずなのに、一体どこへ?
「あっ」
ケーナの声にそちらを見やると、彼女が丘の斜面にしゃがみ込んでいるところだった。
「ミルちゃん? なんでこんなところに」
枯れ木の陰になって見えにくいところに、とても低い横穴が空いていた。そこからミルが顔を出していたのだ。
「巣穴? もしかしてマイホーム?」
ミルがこくこくとうなずく。
「へえ! すごーい! よかったじゃんおめでとうミルちゃん!」
ケーナの言葉にミルが照れたように耳で頭を掻いた。
「まさか自慢するためだけに呼んだわけじゃないよな……」
顔をしかめると、ミルは俺に邪視を注いだ。多分こう言っている。いいから素直に祝え小童。
いや祝えるわけないだろうに。俺はかぶりを振った。
「嬉しいのは分かるけど、それだけでここまで来させるのはちょっとなあ」
「えー。わたしはいいと思うけどなー」
ケーナはそう言うが、ミル自身は一理あると思ったらしい。むっとした顔をした後頭をひっこめ、耳だけでおいでおいでした。
「……入れってこと? 入っていいの?」
ケーナが顔を輝かせる。
「やったー!」
俺が何か言う暇もなく彼女は穴へと滑りこんでいった。
無駄に上げかけた手を所在なく戻して、ウサギの巣穴を覗き込む。
「そういえばウサギ穴からはじまる童話があったな……」
俺はため息を一つついた後、彼女らを追って穴に潜り込んだ。