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浄水場で

 ウサギを地上に帰してから数日が経った。

 俺たちは新たな情報を求めての文献漁りに戻ったけれど、ケーナは時々虚空を見上げてはこうつぶやいた。


「ミルちゃん元気かなあ……可愛かったなあ……」


 ミルちゃんとは例のダンガンウサギのことだ。名前は彼女がつけた。ウサギもいたく気に入ったらしく、ケーナが呼ぶとすぐに寄ってきて甘えていた。(ちなみに俺が呼んだら頭突きしてきた)

 天空都市で過ごした数日間で彼女たちはとても仲良くなったようで……それはつまり別れがつらいということだった。


「別に無理に別れなくてもいいんじゃない?」


 俺はそう言って、珍しくミルとも意見が一致したのだが(すごい勢いでうなずいていた)、ケーナは寂しそうに首を振った。


「駄目だよ。ミルちゃんは仲間のところに帰らないと。それにわたしが面倒見れるのはフェル君だけ」


 ちらりと彼女が見る先で、フウセンモグラの彼はごろんと寝返りをうった。ミルはしょんぼりしていた。

 かくしてその二日後、まだ水のある川のそばまで飛んでいってミルを放した。彼女は何度も振り返りながら去っていった。


「はあ……ミルちゃん」


 また文献読みを中断してケーナがため息をつく。俺はそれを眺めて、どうしたもんかなと考えを巡らせた。

 まああまり選択肢は多くないけれど。

 俺は立ち上がってエレベーターのスイッチに手をかけた。


「気分転換しにでも行こうか」




 天空都市は今日も鮮やかな花上の街だった。

 通りを歩いているだけでも優しくも印象に強い色彩の波が目に打ち寄せる。

 よく見ると建物が一軒一軒一つの色なのではなく、いくつもの色が一軒の建物の表面に映し出されているようだ。

 おまけに色は固定されているわけではなく、波のように微妙に揺らめいていた。あるいはそれこそ風に揺れる花びらか。

 気温も暖かく青い空。春を思い出す心地よさなのだけれど、やっぱりケーナは浮かない表情だった。


「やっぱり無理に帰すことはなかったんだよ」


 俺が言うとケーナはなおさら肩を落としてうつむいた。


「ミルだって自分の面倒くらい見れただろうし、今からでも呼び戻さない? っていうか案外もうそこらに来てるかも」


 そう言って見回す。いや、何となく頭突きが来るタイミングだったのだ、今までは。

 ケーナはしばらく黙っていたが、小さく息をついて、首を振った。


「私が世話見れないからっていたのは、あれ、嘘」

「え?」

「本当はそんなこと関係なかったんだ」


 きょとんとして見やると、彼女は空を見上げて続けた。


「わたし言ったでしょ? ダンガンウサギは群れで暮らす生き物なの。どうしたって一匹じゃ寂しい。わたしたちを攻撃してきたときのことを思い出してよ。すごく必死だったよね? それだけ怖かったんだよ」


 俺は何も答えられなかった。そんなこと考えてもみなかった。

 でも、と思う。でもそれなら俺たちが……


「わたしたちが仲間の代わりになるか?」


 ケーナはこちらの考えを先読みした。


「駄目だと思うよ」

「……なんで?」

「あなたとじゃなきゃ絶対いや。あなたとずっと一緒にいたい」


 唐突に告白された。真剣なまなざしが俺の目を射抜く。心も貫く。心臓が大きく音を立てた。

 え。なにこれ。


「……とまあ、そんな感じの、あるじゃない。代わりが利かないことって」

「へ? あ、ああ」


 もののたとえだったらしい。

 こちらがうろたえているのを見て不審な顔をしたケーナは、ふと気づいたように顔を赤くした。


「も、ものたとえだよ?」


 分かってるって。


「と、とにかくね、ミルちゃんはやっぱり仲間のところに帰るべきなの。そういうこと!」


 言い切って、ケーナはふーっと大きな息をついた。

 動揺からようやく立ち直って。俺はふと疑問を覚えた。

 ケーナは寂しくないんだろうか。彼女は夢のためとはいえ、仲間の元を離れて一人で旅をしているのだ。


「あのさ」


 と、そこまで言ったところで、ケーナの視線がこちらから外れていることに気づいた。


「?」


 横を見ると、大きなきな粉餅が浮いている。


「フェル?」


 つぶやくと同時、フェルは空気噴射で飛んでいった。

 まともに顔に圧を受けて、俺はしたたかに尻を打った。

 ケーナの手を借り涙目で起き上がると、ちょうどフェルが街のある地点に降りるのが見えた。


「行こう」


 ケーナが走り出した。





 そこはやはり四角い建物が建っていた。

 しかし明らかに他のものより数倍大きい。他のが民家だとしたら公民館や図書館といった施設ほどのサイズか。


「なんだろ?」


 首をかしげるケーナ。

 ドアはない。フェルはもう中に入ってしまっているようだ。

 入口をくぐると何やら音が聞こえてきた。絶え間なく連続するそれには聞き覚えがある。生き物には大切で、なじみ深いものだ。


 ひんやりとした空気が顔に当たった。


「おおおおおー……!」


 ケーナが圧倒されたように声を漏らす。

 そこにあったのは、プールだった。

 目測で二十五メートルほどの長さがあるので、まさしく水泳用のそれだ。近寄って見ると、深さもそれなりにあるようだった。


「なんだろ。なんだろここ?」


 ケーナが水面を覗き込んでワクワクし始めている。

 見回すと何やらポンプのようなものが動いていて、かすかにごうんごうんいう音が水音に混じって聞こえた。水面の数か所から、まるでジャグジーのように泡が噴き出ているのも見て取れる。


「浄水場……かな」


 ケーナの耳がピクンと動いた。


「泳げる? ねえ、泳げるかな?」

「大丈夫じゃない? 多分」


 すでに水に浮いて漂っているフェルを半眼で眺めながら俺は答えた。あのきな粉餅は唐突に水浴びがしたくなったということらしい。おかげで俺は尻餅をつかされたと。


「ひゃっほーい!」

「わぶっ!」


 水しぶきが飛んできた。荷物を放り出して、ケーナがさっそく飛び込んだのだ。水を手でひと掻き、彼女はするりと泳ぎ出した。

 身をくねらせる見たこともないほど優美な泳ぎ方で、俺は目を点にした。

 あ、泳ぎ得意なんだね。猫耳なのに。


「ケースケも泳ごうよ!」


 水面から顔を出してケーナが言う。濡れた髪が頬に張り付いてそこはかとなく色っぽい。


「いや、俺はいいかな……」


 そう答えると、ケーナが眉を寄せた。


「てい!」

「わ!?」


 顔に水をかけられてひるむ。目を閉じた瞬間、俺は服を引っ張られるのを感じた。

 耳元でドボン! という轟音。

 俺は即座に立ち上がって、何をするんだと怒鳴ろうとした。立ち上がれればそうしていた。


 足がつかない。

 予想外の水深に動転した。肺から空気がこぼれて泡となって逃げていった。

 まずい、溺れる。

 その時手をつかまれて、水中から引っ張り上げられた。


「ご、ごめん、大丈夫!?」


 ケーナの声がする。


「泳げないなんて思わなかったから……」

「いや泳げる。大丈夫。ちょっとびっくりしただけ……」


 本当は泳げないけど、こう答えるのが男の子の宿命だ。多分。


「じゃあ泳ご?」


 手を放されて慌ててプールの縁につかまる。


「いやちょっと俺は……久々だし」

「それならわたしが教えてあげるよ! マッハヌルウナギの泳ぎ方を参考にしたマッハヌルケーナ泳法! 速いよ?」


 えー何その泳法……

 俺は若干引いてしまったけれど、ケーナは構うことなくこちらの手を引いて泳ぎ出した。


「……おー」


 泳ぎ出してしまえばその泳法、そんなに悪いものではなかった。するする泳げて水の抵抗を感じない。ケーナが「マッハヌルーマッハヌルー」と変な歌を口ずさんでいることを別にすれば、とても快適だった。

 二十分ほども泳いでいるうちに、俺は自然とその泳法をマスターしていた。


「どうだった?」

「いや……なんかすごい」

「でしょー?」


 ニシシと笑ってケーナがプールの縁に手をかけた。


「そろそろ上がろうか」


その顔からはさっきまでの憂鬱さは消えていた。





 さてここで問題が発生した。

 濡れてしまった服をどうしよう。

 もっともケーナはそれを問題と思わなかったようだけれど。


「ふんふーん」


 彼女は鼻歌混じりに、服を脱ぎ出した。あまりに自然に脱いだので、俺は一瞬疑問を抱くのを忘れた。


「は!? ちょっ……!」


 声を上げた時にはもう彼女は下着姿で、服を機械のあるところに掛けに行くところだった。


「え、なに?」

「何、じゃなくて!」


 振り返った彼女に俺はわたわたと言葉を続けた。


「服! なんで脱ぐんだ!」

「冷たいじゃん。それに機械に掛けておけばあったかいしすぐ乾くよ?」


 なるほど。一理ある。いや違う。


「目のやり場に困るだろ!」


 実際困っていた。

 滑らかで健康そうにつやつやしている濡れた肌。全体的に引き締まってはいるけれど柔らかな曲線も失っていない体の輪郭。水のきらきらしたしずくが胸元やお腹の表面を流れていた。

 彼女はようやくはっとしたようだった。慌ててお尻に手を回し、顔を赤らめた。


「み、見ないで……!」

「……なんでお尻だけ隠すの」


 不審に思って訊く。


「そ、その、短いしっぽがコンプレックスで……」


 そうなんだ。

 いや俺としては下着姿であることを恥じらってほしかったというか、そんな感じなんだけど。

 今の姿勢だと、必死にお尻を隠そうとしているせいで胸の方に目が行ってしまう。


 いや、駄目だ駄目だ!

 俺はようやく理性を取り戻して目をケーナから引き剥がした。


「とにかく何か着てよ。じゃないと――」


 じゃないと……何を言おうとしたんだっけ。言おうとしたことがなんだったにしろ、その瞬間の俺にはもう関係のないことだった。

 すさまじい衝撃を横手から食らい、俺は宙を舞っていた。次にドボンと着水の衝撃。

 ケーナに泳ぎを習っておいてよかった。じゃないと多分死んでいた。痛む肩を押さえて水面から顔を出すと、ひくひく動く鼻が目の前にあった。


 ……見覚えのある鼻だ。


「ミルちゃん!?」


 そう、それは数日前に地上に帰したはずの、ダンガンウサギのミルだった。

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