6.変化
母の病院に行った。
替えのパジャマと下着を持って。
駅から、そう遠くない総合病院は、夕日に照らされてオレンジ色に輝いていた。
中にはいって、母のいる病室へ。
途中、母の相部屋のおばさんと会い、お辞儀をして病室へ入ると、母は本を読んでいた。
「母さん、着替えを持ってきたよ。」
私の言葉に母が顔を上げた。
「ああ。ありがとう。」
「うん。調子はどう?」
「特に。」
「そっか。」
やはり、口数の少ない母。不安が顔に出ないように心がける。
椅子に腰を掛けて、息を吐いた。
沈黙。
私と母を取り巻く、この沈黙が何よりも憎らしかった。
母は、本をパタンと閉じた。私が母を見ると、なんと母が小さく口を開いたのだ。
「笑菜。」
驚いた。思わず声が大きくなる。
「なに?」
「あなた、ほら昔、猫を拾ってきたじゃない?」
まさか、あの子猫の事が母の口から出るとは思わなかっただけに、私は言葉を失った。そのかわり、こくりと頷いてみせる。
母は、昔話をしている様に、遠くに視線を向けていた。
「私が、動物を嫌いなの知っている筈なのに、拾ってきた、あなたが信じられなかった。」
「ごめん。」
「違うわ。謝らないで。それで、あの後、あの猫はどうなったの?」
母を見た。
でも、母は私を見ない。
「死んでたよ。段ボールの中で。まだ温かくて、眠ってるみたいだった。」
母の唇が微かに動いた。
はぁ。と溜め息を吐いた気がした。
「そう。」
「なんで今更、そんな事聞くの?」
すると母は、片手で目を塞ぎ、俯きながら話しはじめた。
「毎晩、夢に出てくるの。あの時の様に弱り切った様子で。今にも死にそうなのよ。私を恨んでいるように泣くの。悪い事をしたと思ってる。私は、最低な人間だったの。死の淵に立たされて、ようやく分かったのよ。私は、最低だった。その猫だけじゃない。私は、あなたにもひどい事をしてるわ。他人を傷つけたりしてきた。嫌なのよ。自分が。」
何かが爆発した様に母が話している。
私は、何も言えなくなった。
母が、そんな事を思っていたなんて。
あの子猫を『それ』と呼んだ母は、私の遠い記憶の中に消えていく。
私は、母があまり好きでは無かったのだ。
病気にかかる前までは。
だけど、今私の目の前にいる母を私は抱き締めたくなかった。
今までごめん、と。
そして、私自身の思いを伝えたかった。
今なら言える、そんな気がしてならなかった。
でも
いざ口を開くと、何も言葉が出てこない。
私は戸惑った。
「母さん。」
「なに?」
「あの」
母が私を捉える。
初めて目が合った様な気がした。
何故、何も言えないの?
馬鹿な私。
「母さん、早く元気になってね。」
もっと違うの。
母にぶつけたい言葉が沢山あるのに。
「うん。」
母の反応がうれしくて、嬉しくて。
だから、私は言えなかったんだ。
今日、先生に話したように言えば良かったのだ。
何でも。
黒い霧が私を包んだ。
気持ち悪くて吐きそうになる。
苦しくて、息が詰まった。焦れったくて、うじうじの弱虫な私は、いつまでも私の中に巣を張って留まっている。
夢の中の母が出てきて、呟いた。
「弱虫。」
私の中で、何かが破裂した気がした。
それは形となって私を襲った。
次の日から、私の生活の何かが狂いはじめたのだ。
始めは、江美利との関係だった。
いつもの様に学校へ行くと、江美利の様子が可笑しい事に気付いた。
私が、
「おはよう」と言うと、挨拶は返してくれるものの、何だか他人行儀で、いつもの様に話しかけて来ないのだ。
最初は、気のせいだと思った。
だが、どうやら私の考えすぎでも、気のせいでもないらしい。
現に私は、今一人ぼっちだ。いつもなら江美利と過ごしている休み時間も、江美利の姿は教室にはなく、私の側にも無かった。
そして何より、彼女は私を避けていた。
とうとう、嫌われてしまったのかもしれない。
考える事にも、疲れてきた。
私が悪いのだ。
母にも、江美利にも、何も言えない。
私は、おわってしまった。
きっかけを作った母を私は、無視したのだ。
江美利にも同じ。
今まで私と居てくれた事が奇跡のようだった。
しかし、気を抜くと黒い霧が私を包む。
私は悪くない。
分かってくれないあいつらが悪いのだ、と。
でも、それは違うと首を振った。
どれが私の気持ちなのか分からなくなった。
私何かした?
江美利にそう聞きたかった。だけど勇気がない。
江美利は原田と、この間一緒にいた子達と行動を共にしていた。
だから余計に聞き辛い。
江美利が急に遠くへ行った。
私といる時よりも楽しげな江美利がいる。なんだか巨大な石に押しつぶされそうな気がした。
訳が分からなくて、目が眩んだ。
その日の昼休み、私は教室から逃げ出した。
もう、江美利の顔を見るのも辛かった。
攻撃された訳でもないのに、江美利に存在を否定された様で、目眩がした。
完全なる無視だ。
トイレですれ違った時に
「江美利」と呼んでみた。
どこかで、彼女が笑ってくれると期待してたのかもしれない。
しかし、現実は私に優しくない。
江美利は、私を見向きもせずにトイレから出ていった。
弱虫の私は、教室から逃げ出す。
江美利は、どうしたのだろう?
疑問に疑問。そして悲しみと寂しさ。
孤独は嫌いじゃなかった。しかし、江美利の存在は確かに大きかったのだ。
「いつか自分にさえ言えなくなる。」
先生の言った事を思い出す。
やるせなくて目を瞑った。
もう、この学校には私の居場所なんて無いような気がしてならなかった。
教室から出て、突き当たりにある階段を思いっきり駆け上がった。
最上階には、立ち入り禁止の屋上への扉がある。
その扉に手をかけた瞬間、背中を叩かれた。
心臓が飛び出そうになる程驚き、パッと扉から手を離した。それから後ろを振り返る。
「芦口さん、関心しないなぁ。」
私は、声の主に顔を歪めた。
「西先生。」
「こんな所で何をしてたの?」
にこりと笑う。
何でも出来る、そんな雰囲気を醸し出す西を嫌悪した。
「何もしてません。」
「どうかな。最近の君はどうも落ち着きがないみたいで。屋上は立ち入り禁止だよ。」
「分かってます。入ろうだなんて、してません。」
「そう?でも、念のために。入ってはいけないよ、芦口さん。」
私が、言い返せないのを知っていて、嫌味を言っているのだ。
いい先生なんかじゃない。
この教師は、私を馬鹿にしている。
「ねぇ、芦口さん。」
視界が歪む。
彼の声を拒否するように。
「君は、出来る子だよね?他の馬鹿とは違うでしょ。君は優等生なんだ。」
悪魔の様な囁き。
ほら、やっぱり。
この教師は猫を被っているんだ。
なんでこんな奴。
「だめだよ。君は勉強をして学力を取り戻さなくちゃ。」
彼の功績のための道具なのだ、私は。
吐き気がした。
「頼むよ。芦口さん。」
西が私の肩に手を置いた。そこから生暖かい体温が伝わる。
彼の薄汚れた感情に、じわじわと侵食されて行くような気がした。
私がなくなっていく。
彼の圧力に負けて。
手を伸ばして必死に這い上がる。
黒い霧は無情にも私を覆い尽くした。
「君は僕の言う通りにしていればいいんだよ。」
悪魔がニヤリと笑った。
口元が釣り上がっただけの醜い笑みだった。
どうして、うまく行かないのだろう。
昔からそうだったのだ。
見かけでは、うまくいっていたと思った事が何かの弾みで、そうでなくなる。
思えば、いつもそうだった。
学校での生活が充実すると、母と父が喧嘩をして、家庭が円満になると、友達との間に亀裂が入った。
私には両立する事が出来なかったのかもしれない。
もしくは、両立する術がなかった。
私は、そこにいて居ない様な人間だ。
『存在』なんて考えるだけ馬鹿馬鹿しいと思った。
私一人で、存在理由だの意義だのを考えて、出るはずのない答えを必死に探している。
自棄になっていないとは言えないけれど、もう何だか全て面倒くさかった。
私はこんなにも脆くて弱いのだ。
母さんが欲しがっている言葉を飲み込み。
友達が離れると直ぐに、何も出来なくなる。
西の使いごまになり、私はそれに抵抗する余地もなく、ただ言われたように動くのだ。
泣きたいと思った。
何も考えずに、大声で。だけど、涙は枯れてしまったように流れては来ない。
あの時と同じだ。
私が求めた小さな命が亡くなった時と。
悲しみを越えると涙は流れない。
その代わりの、虚無と喪失だけが渦を巻いて浮上する。
午後の授業を初めてサボった。
どこかで、あの西のニヤリと笑った顔を思い出しながら、私は優等生ではないと首を振る。
それでも無断で休む勇気など私にはなくて、結局は仮病を使い、保健室で横になった。
保健室には、誰もいない。
時計の針秒の音だけが、規則正しくリズムを刻んでいる。
微かに湿布の匂いのするベットに仰向けになり、清楚な白い天井を見つめた。
多分、今は誰にも何も言われることはない。
唯一、ここだけが私を受け入れてくれた気がした。
考えなくていい。
何も。
私は、溢れ出る不安の波を遮るように、拳を天井に向かって突き出した。
音もなく私の腕は空気を貫いて、そして何も変わることなく、私の拳は静止する。
虚しい。
私はその腕で目を覆った。
途端に広がる暗闇。
堪らず溜息を吐く。
その声がやけに大きく保健室に響いて、少しだけヒヤリとした。




