5.暗闇
夢を見た。
暗い霧に包まれて、必死に走っている夢を。
何かを追っている訳でもなく、何かから追われている訳でもない。
何の目的のために走っているのか、走っている本人の私が分からないのだ。
ただ闇雲に息を切らせながら、走り続けている。
霧は次第に濃度を増していった。辺りは段々と暗くなっていき、視界がぼやけ始める。
焦燥感。
言うなれば、それに近い感情が、心の中に沸々と沸き上がる。
それは風船の様に膨張した。どんどんどんどん膨らんで、破裂する事なく私の中で留まり続ける。
ひどい圧迫感を覚えた。何となく息苦しい気もする。
私は、いつの間にか走るのを止めていた。
果てしない暗闇。
何もない。
私自身が誰なのか分からなくなりそうで、私は頭を抱えた。その場でしゃがみ込み、強く目をつぶった。
「笑菜。」
誰かが私の名前を呼ぶ。
母さん。
顔を開けて、暗闇を凝視すると、私の前に母が立っていた。
「笑菜、捨ててきなさい。そんなもの。」
母が冷ややかにそう言い、私を指差す。私の手の中には、弱々しい茶色の子猫の姿があった。
「母さん、でも…………え………?」
私が声を出すと、母も子猫も霧に溶けて消えてしまった。
「母………さん?」
「芦口。」
「先生?」
先生の低い声が耳に響く。しかし姿はなかった。 先生は続ける。
「人間、言いたい事も言えなくなったら終わりだよ。自分にさえ嘘を吐いたら、もう戻れない、なぁ?芦口。」
なぁ、芦口。
彼は、確実に私に話し掛けていた。私に、そう言っているのだ。
やめてくれ。
もう話さないで。
「やめて下さい!!」
そこで目が覚めた。
嫌な夢だ。
二度と見たくない、そんな夢。昔、地震が起きて家の下敷きになる夢を見た事があるが、それより遥かに嫌な夢だと思った。
はぁ。
ため息を吐くと、疲労の波が襲ってきた。
寝てて疲れるなんて。
私は、どうしたのだろうか。
その夢を見た朝は、物凄く早起きだった。
重い体を起こして、一階に降りるとリビングに父がいた。
「なんだ、笑菜。今日は早起きだな。」
父は、私に気付くと読んでいた新聞紙をたたみ、そう言って笑った。
穏やか笑顔は昔と変わらない。だが、やはり老いは確実に父を蝕んでいた。
「おはよ父さん。今、何時?」
「まだ六時だよ。」
「早起き。」
「ご飯、どうする?」
「自分で、パン焼くから平気だよ。」
「そうか。」
「父さん、今日遅い?」
「あ、そうだ。今日おそくなるから、母さんの所に替えの服、持っていってくれないか?」
私は、父を見る。
どこか寂しそうな、申し訳なさそうな表情をしていた。
「いいよ。今日、行こうと思ってたの。丁度良かった。」
その父の表情を消すように、私は笑顔で答える。
「そうか。悪いな。最近、母さんの所にも行ってやれなくて。」
父は、母さんと話せているのだろうか。
もしかしたら、父には話しているのかもしれない。
「父さん。あのさ」
「なんだい?」
「母さん……」
父の顔を見た途端に言葉が出なくなる。
「母さんがどうしたんだ?」
「母さん、早く退院出来るといいね。」
再び私は笑う。
今度は私自身の心を塗り潰すように。
嘘つき。
私は、授業を真面目に受けている方だと思う。
何故かというと、大抵の生徒は寝ているか、ぼんやりしているからだ。
集中して、しっかりとノートを取り、話を聞いている私は、知らない人がみたら、きっと優等生だと思われるに違いない。
しかし、私は出来る生徒ではなかった。
『成績が着実に落ちている。』
私は、人に言われて初めて、その事実を知った。
「どうしたのかな?何か、悩み事でもある?」
そう言って、数学教師の西が、私を見た。
西は、女子生徒の中で抜群の人気を誇る、いわゆる『イケメン教師』だった。
性格も良く、優しい、尚且つ格好良い訳だから、女子の中で話題が絶えない。
だけど私は、どうしても、この教師だけ好きになれなかった。
誰にも言っていないけれど、話題が出る度、私は居心地の悪さを感じた。
「どうしたの?」
西がもう一度尋ねた。
職員室は、ざわざわと騒がしい。西は、穏やかな表情をしている。
「いや、特に。」
「なら、なにがあったのかな?」
西がにこりと笑った。
さぁ、何でも話してごらん。そんな様に聞こえる。
私は、やはりこの教師を好きになれない。
一言で言えば違和感。
その笑顔の裏側に『偽善』という文字が隠されている様で、とても素直には聞けなかった。他の生徒は、この笑顔に騙される。
しかし、それは私の偏見だろうか?差別だろうか?勘違いだろうか?
否だ。
私はこの教師の目が笑ってない事を知っている。
「本当に何もないです。」
西は笑顔を絶やさない。そのまま、私を見据えていた。
全部お見通しだよ。と言うように。
虫が這いずり回っているような居心地の悪さを感じる。
私は、逃げ出したい気分だった。もういいじゃないか。学力が落ちているのは、勉強時間が減ったせいだ。その自覚はある。
私は
私は、西が怖いのだ。
「本当に?でも芦口さんが急に学力が落ちるとは思えないんだけどね。」
勘弁してくれ。
私はついに口を閉じて黙り込んだ。
足元に視線を移し、汚れた上履きを見つめる。都合が悪くなると黙り込んでしまう子供の様で、凄く格好悪かった。
「西先生。主任が呼んでましたよ。」
その声は、まさに救いの一言だった。
先生。
「河神先生。分かりました。ありがとうございます。」
西が、椅子から立ち上がる。私に向かって、またあとでね、と残して職員室から出ていった。
すぐに私は平常を取り戻す。
あの気持ち悪さは、どんどん静まっていき、私は、ほっとした。
「芦口。」
先生を見上げる。
今ほど彼に抱きつきたいと思った事はなかった。
「なんです?」
「お前さ、極端すぎなんだよ。」
「え、何が?」
私は困惑した。先生が、私の耳元に顔を近付ける。香水とはまた違う、良い匂いがした。
「芦口さ、西先生の事嫌いだろ?」
小さな子供に秘密事を囁くような、静かで穏やかな声だった。
どうして?
目を見開く。図星を刺されて何も言えなくなる私に、先生は微笑んだ。
「嫌だったら、嫌といえば良い。」
私は、体の力が抜けていくのを感じた。
「下らない嘘は吐かなくていいんだ。」
彼は、私が車にひかれそうになった時と同じ、真剣な顔をしていた。
驚く程優しい声に、胸が苦しくなる。
先生………。
すると、私の声に被さるように予鈴のチャイムがなった。騒がしかった職員室が徐々に静けさを取り戻す。
職員室の中には、私と先生の二人だけが残っていた。静寂が私達を包む。
解放された窓から、風が入り込み、私と先生の髪の毛をさらっていく。
先生は、さっき西が座っていた椅子に座り、私を見上げた。
先生の瞳には、私がいた。今にも泣きそうな、弱い自分。
「先生、あのね。」
「ん?」
「私さ、夢を見たんだ。」
「どんな?」
「暗い霧の中を、走っている夢。なんの目的もなく、ただ走ってるんだ。」
「それで?」
「それで………母さんと、先生が出てきた。」
「うん。」
「夢の中の二人は、私を責めるようだった。止めてくれって。そしたら、目が覚めた。」
私は、何を話しているのだろう。
こんな話、聞いても困るだけだ。先生は、きっと呆れているに違いない。しかし、彼はいつもの表情を崩さず、私を見ていた。
「先生。」
「なに?」
「ごめんね。」
私の言葉に、彼は静かに首を振った。そして、いつもの柔らかい笑みを讃えて、こう言うのだ。
「大丈夫さ。」
その日の午後は、何だか清々しく授業が受けられた気がした。




