表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/8

5.暗闇

 夢を見た。



 暗い霧に包まれて、必死に走っている夢を。

 何かを追っている訳でもなく、何かから追われている訳でもない。

 何の目的のために走っているのか、走っている本人の私が分からないのだ。

 ただ闇雲に息を切らせながら、走り続けている。

 霧は次第に濃度を増していった。辺りは段々と暗くなっていき、視界がぼやけ始める。


 焦燥感。


 言うなれば、それに近い感情が、心の中に沸々と沸き上がる。

 それは風船の様に膨張した。どんどんどんどん膨らんで、破裂する事なく私の中で留まり続ける。

 ひどい圧迫感を覚えた。何となく息苦しい気もする。

 私は、いつの間にか走るのを止めていた。


 果てしない暗闇。

 何もない。

 私自身が誰なのか分からなくなりそうで、私は頭を抱えた。その場でしゃがみ込み、強く目をつぶった。

 「笑菜。」

 誰かが私の名前を呼ぶ。

 母さん。

 顔を開けて、暗闇を凝視すると、私の前に母が立っていた。

 「笑菜、捨ててきなさい。そんなもの。」

 母が冷ややかにそう言い、私を指差す。私の手の中には、弱々しい茶色の子猫の姿があった。

 「母さん、でも…………え………?」

 私が声を出すと、母も子猫も霧に溶けて消えてしまった。


 「母………さん?」


 「芦口。」

 「先生?」

 先生の低い声が耳に響く。しかし姿はなかった。 先生は続ける。

 「人間、言いたい事も言えなくなったら終わりだよ。自分にさえ嘘を吐いたら、もう戻れない、なぁ?芦口。」

 なぁ、芦口。

 彼は、確実に私に話し掛けていた。私に、そう言っているのだ。

 やめてくれ。

 もう話さないで。



 「やめて下さい!!」




 そこで目が覚めた。


 嫌な夢だ。

 二度と見たくない、そんな夢。昔、地震が起きて家の下敷きになる夢を見た事があるが、それより遥かに嫌な夢だと思った。


 はぁ。

 ため息を吐くと、疲労の波が襲ってきた。

 寝てて疲れるなんて。

 私は、どうしたのだろうか。







 その夢を見た朝は、物凄く早起きだった。



 重い体を起こして、一階に降りるとリビングに父がいた。

 「なんだ、笑菜。今日は早起きだな。」

 父は、私に気付くと読んでいた新聞紙をたたみ、そう言って笑った。

 穏やか笑顔は昔と変わらない。だが、やはり老いは確実に父を蝕んでいた。


 「おはよ父さん。今、何時?」

 「まだ六時だよ。」

 「早起き。」

 「ご飯、どうする?」

 「自分で、パン焼くから平気だよ。」

 「そうか。」

 「父さん、今日遅い?」

 「あ、そうだ。今日おそくなるから、母さんの所に替えの服、持っていってくれないか?」


 私は、父を見る。

 どこか寂しそうな、申し訳なさそうな表情をしていた。



 「いいよ。今日、行こうと思ってたの。丁度良かった。」


 その父の表情を消すように、私は笑顔で答える。


 「そうか。悪いな。最近、母さんの所にも行ってやれなくて。」


 父は、母さんと話せているのだろうか。

 もしかしたら、父には話しているのかもしれない。

 「父さん。あのさ」

 「なんだい?」

 「母さん……」


 父の顔を見た途端に言葉が出なくなる。

 「母さんがどうしたんだ?」

 「母さん、早く退院出来るといいね。」

 再び私は笑う。

 今度は私自身の心を塗り潰すように。



 嘘つき。











 私は、授業を真面目に受けている方だと思う。

 何故かというと、大抵の生徒は寝ているか、ぼんやりしているからだ。

 集中して、しっかりとノートを取り、話を聞いている私は、知らない人がみたら、きっと優等生だと思われるに違いない。

 しかし、私は出来る生徒ではなかった。

 『成績が着実に落ちている。』


 私は、人に言われて初めて、その事実を知った。


 「どうしたのかな?何か、悩み事でもある?」


 そう言って、数学教師の西が、私を見た。

 西は、女子生徒の中で抜群の人気を誇る、いわゆる『イケメン教師』だった。

 性格も良く、優しい、尚且つ格好良い訳だから、女子の中で話題が絶えない。

 だけど私は、どうしても、この教師だけ好きになれなかった。 

 誰にも言っていないけれど、話題が出る度、私は居心地の悪さを感じた。

 「どうしたの?」

 西がもう一度尋ねた。

 職員室は、ざわざわと騒がしい。西は、穏やかな表情をしている。

 「いや、特に。」

 「なら、なにがあったのかな?」

 西がにこりと笑った。

 さぁ、何でも話してごらん。そんな様に聞こえる。

 私は、やはりこの教師を好きになれない。

 一言で言えば違和感。

 

 その笑顔の裏側に『偽善』という文字が隠されている様で、とても素直には聞けなかった。他の生徒は、この笑顔に騙される。

 しかし、それは私の偏見だろうか?差別だろうか?勘違いだろうか? 

 否だ。

 私はこの教師の目が笑ってない事を知っている。

 「本当に何もないです。」

 西は笑顔を絶やさない。そのまま、私を見据えていた。

 全部お見通しだよ。と言うように。

 虫が這いずり回っているような居心地の悪さを感じる。

 私は、逃げ出したい気分だった。もういいじゃないか。学力が落ちているのは、勉強時間が減ったせいだ。その自覚はある。

 私は

 私は、西が怖いのだ。


 「本当に?でも芦口さんが急に学力が落ちるとは思えないんだけどね。」


 勘弁してくれ。 


 私はついに口を閉じて黙り込んだ。

 足元に視線を移し、汚れた上履きを見つめる。都合が悪くなると黙り込んでしまう子供の様で、凄く格好悪かった。

 「西先生。主任が呼んでましたよ。」

 その声は、まさに救いの一言だった。

 先生。

 「河神先生。分かりました。ありがとうございます。」

 西が、椅子から立ち上がる。私に向かって、またあとでね、と残して職員室から出ていった。

 すぐに私は平常を取り戻す。

 あの気持ち悪さは、どんどん静まっていき、私は、ほっとした。

 「芦口。」

 先生を見上げる。

 今ほど彼に抱きつきたいと思った事はなかった。

 「なんです?」

 「お前さ、極端すぎなんだよ。」

 「え、何が?」

 私は困惑した。先生が、私の耳元に顔を近付ける。香水とはまた違う、良い匂いがした。

 「芦口さ、西先生の事嫌いだろ?」

 小さな子供に秘密事を囁くような、静かで穏やかな声だった。

 どうして?

 目を見開く。図星を刺されて何も言えなくなる私に、先生は微笑んだ。

 

 「嫌だったら、嫌といえば良い。」

 私は、体の力が抜けていくのを感じた。

 「下らない嘘は吐かなくていいんだ。」

 彼は、私が車にひかれそうになった時と同じ、真剣な顔をしていた。

 驚く程優しい声に、胸が苦しくなる。

 先生………。

 すると、私の声に被さるように予鈴のチャイムがなった。騒がしかった職員室が徐々に静けさを取り戻す。

 職員室の中には、私と先生の二人だけが残っていた。静寂が私達を包む。

 解放された窓から、風が入り込み、私と先生の髪の毛をさらっていく。

 先生は、さっき西が座っていた椅子に座り、私を見上げた。

 先生の瞳には、私がいた。今にも泣きそうな、弱い自分。


 「先生、あのね。」

 「ん?」

 「私さ、夢を見たんだ。」

 「どんな?」

 「暗い霧の中を、走っている夢。なんの目的もなく、ただ走ってるんだ。」

 「それで?」

 「それで………母さんと、先生が出てきた。」

 「うん。」

 「夢の中の二人は、私を責めるようだった。止めてくれって。そしたら、目が覚めた。」

 私は、何を話しているのだろう。

 こんな話、聞いても困るだけだ。先生は、きっと呆れているに違いない。しかし、彼はいつもの表情を崩さず、私を見ていた。

 「先生。」

 「なに?」

 「ごめんね。」

 私の言葉に、彼は静かに首を振った。そして、いつもの柔らかい笑みを讃えて、こう言うのだ。


 「大丈夫さ。」






 その日の午後は、何だか清々しく授業が受けられた気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ