4.嘘っぱち
「おい、芦口ー。」
昼休み、一人で廊下を歩いていると、あの聞き慣れた声が私を呼んだ。
「なんですか。先生。」
なんの気なしに返事をする。彼は、中くらいの段ボール箱を2つ抱えていた。そのせいで、顔が隠れている。先生は段ボールの横から顔を出して、ニッと笑った。
「一つ持ってくれよ。これ。」
「嫌ですよ。忙しいんです。」
「いやいや。嘘だろ。ケチな奴だなー。一人なんだし、暇だろうが。」
「江美利が待ってるんですけどね。」
「まぁ、いいじゃないか。運んでくれよ。」
本気で断るつもりは無かった。だけど私は、渋々という顔して段ボール箱を受け取る。結構な重さで、先生を恨めしく思った。
「重い。どこまで?」
「大丈夫。芦口なら。総合室までだよ。」
失敬な。
目の前の教師を睨み付ける。が、どうやら気付かなかったらしい。
まぁ、いいや。
「あ。そう言えばさ、親御さんの調子はどうだ?」
「えっ…えっと……。」
思わず、口が止まった。
突然黙った私を先生は、訝しがる事も、催促する事もなく、静かに私の口から言葉が出るのを待っている。
「………うん。多分、大分よくなりましたよ。」
あからさまだったかもしれない。私の声のトーンはダウンしていた。
あの母の状況を思い出すと、無理をして明るくしていても、きっと痛々しいだけだ。
「そうか。お母さんによろしく言っといてな。」
「うん………。」
私は、嘘を吐いている。何度も何度も。沢山の人達に、何のメリットもない嘘を。
そして、多分きっと自分自身にも。
「人間、言いたい事言えなくなったら、終わりだよ。自分にさえ言えなくなる。」
心臓が、ドクンと嫌な音をたてた。多分、私の中だけ、時間が止まったのだと思う。
何?なんだ。それ。
先生は、前を歩く。平然と。なんでも無いように。 先生は、気付いているのだろうか。それとも、ただの偶然?
その言葉は、まるで私自身に言っている様で、私を底に突き落とすかのようであった。
斜め前を行く先生を見上げる。横顔が、まるで別人に見えた。
「あの……なんで、そんな事…………………」
先生が口を開いた。
「ってさ、昨日、太宰治の人間失格よんで思ったよ。つくづく。やっぱり太宰は深いね。」
え………?
「あの、何、本の話?」
「ん?ああ。そうだよ。悪いな、話が飛びすぎて。」
声を出して、先生が笑う。
私は拍子抜けした。そして、ホッとする。気が付くと汗が出ていた。
びっくりした。本当に。
「人間失格ですか。読んだことありますよ。」
それでも何故だか、私はさっきの様に話せなかった。頭が、うまく働かない。
私は。
終わってる?
言いたい事言えなくなったら、終わり。
私は、此処にいる。
それは、嘘じゃない。
そうさ。此処にいる。
けれど、そうだとは誰も言ってはくれない。
私は、なにか、黒い海に呑み込まれてしまいそうになった。
必死に抵抗する。
しかし、動けば動く程、海は激しさを増し、私は溺れしまうのだ。
船は来ない。
深く深く、沈んでいく。
先生の手伝いを終えて、教室に戻ると江美利の笑い声が耳に入った。
原田と何人かの友達と一緒に雑談をしているらしい。
江美利とは、昼休みに次の課題を終わらせる約束をしていた。特に時間は決めてはいなかったのだが、遅れてしまったのだと思う。
あまりクラスでは話す事のない人達なので、江美利に声を掛けずらい。
だめだな私は。
江美利は楽しそうだった。あの周りを和ませる笑顔が良く映えて、生き生きとしている。
江美利は誰にだって、態度が同じだった。変に身構えたりもしないし、つまらない仲間意識もない。周りから自然と好かれるタイプだと思う。
私には無いものを彼女は沢山持っていた。私は、江美利を尊敬している。
だけど、時々思うのだ。
私なんかといて、楽しい?と。
自分が、小さく縮小していく気がした。
「あ、笑菜!」
その時、江美利が私に気が付いた。
「どうしたの?」と私に尋ねる。
「課題さ、もう終わっちゃった?」
「えっ、課題?ああ!忘れてた。」
江美利が言うと、周りから笑いが起きた。私も笑う。本気じゃない。場を白けさせないためだった。
「ごめん、笑菜!」
「ううん、平気平気」
「江美利、ひどいぞ。芦口、可哀想に。パフェ奢りだな。俺に。」
原田が楽しそうに江美利を茶化す。
「なんでよ。あんたが奢りなさいよ。」
また爆笑。
あははは。と私の耳に入ってくる笑い声は擦れて歪んでいく。
「気にしないで。あ、じゃ私、職員室に呼ばれてるからさ。」
私はいつから、こんなにも嘘が上手くなったのだろう。
しまいには、鼻が伸び始めるのではないだろうか。
「そうなの?分かった。行ってらっしゃい。頑張ってね!」
うん。と言って、再び廊下に出る。
私の背中を押すように笑い声が響いた。
私は立ち止まって、自分の足元に視線を落とした。
『言いたい事言えなくなったら、終わりだよ。』
先生の、あのやる気のない肩や、柔らかい笑顔が頭に浮かぶ。
先生。
胸が重圧を掛けられているように苦しくなった。
「先生。」
と小さく呟いた。
声は頼りなく、見慣れた廊下に消えていった。




