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「わああああああああああ」
幼女はひと通り見知った顔の似顔絵を書き終えると、今度はぐるぐると青紫で塗りつぶしていった。肌色で輪郭を縁取られた白い顔がブルーベリーに染まっていく。クレヨンは先端が押しつぶされ、紙に圧着されなかった分の顔料が塗られた表面に剥がれる。顔は色で溢れ容量はもう一杯だった。
幼女と呼ぶのはもうやめにしようか。
「箱尾、俺はそろそろ帰るぞ」
荷物をまとめ、ビニールゴミを回収する。
箱尾に張り付いているさゆりを引っぺがして扉へ向かった。
「あの子によろしくねええええええ」
箱尾が塗り潰しながら大声をだす。
「冷房しっかり入れとけよ」
俺の言うことなんか知ったこっちゃないように、大きく開いた目で睨みつけながら次の顔を青紫に塗り始めた。
トイレに寄って、大学をあとにした。
さゆりが男子トイレを動き回らないようにするのが大変だった。
いつものように電車に乗り、とりあえず自宅に帰還する。学習道具をおいてから肩がけポシェットを背負った。
蹴手繰からくれぐれもよろしくとのメッセージをもらう。授業終了後すぐに向かうらしい。
彼女としても、この問題は早急に解決されなければならないだろう。物理的にも、精神的にも。
鍵をかってから、さゆりを後ろに乗せて自転車のペダルを踏み込んだ。
ママチャリという乗り物は意外と速い。交通ルールは遵守しなければならないが、それでも歩きよりよっぽど早く目的地に到達することができる。
7段変速ともなれば多少スピードを出せば車に引けを取らないし、渋滞は容易に抜かすことができる。
特に田舎道での効果は絶大だ。一般道から車が入れないような獣道までかまわず突き進むことができる。気にしなければ多少の泥水や草がぼうぼうの道、蜘蛛の巣も平気である。
サスペンションはないので確かに凹凸道の乗り心地は最悪だし、パンクをしてしまえばそれこそもうお陀仏ではある。ただしそこを考慮しなければ、行けない道は無いんじゃないか。カゴもあって荷物は入るし、有り余るスペックがあると思う。
目的地までそこそこの距離がある。まだまだ太陽の勢力は衰えておらず、筋肉があまり熱を出さないよう軽めに漕ぐ。にじみ出た汗が蒸発して皮膚を冷却し、汗腺からゆっくりと冷やされていく。
「きもちいいねぇ」
荷台に横向きに座るさゆりが話しかける。力を抜いているとはいえ、このスピードで走っていてはあんな風船みたいな軌道をする体なんてすぐ風に流されてすっ飛んでしまいそうな気がするが、ちろりと見ると彼女は平気な顔をして髪をいじりながら、畑越しに遠くの山を眺めていた。
「まぁそうだな」
前方に向きなおし、意識せずに会話を続ける。そこそこ広大な田畑で開けていて視界は全くの良好である。見渡しても車や人など見つからず、これで呼吸さえ楽ならばあくびの出そうな道だった。自転車はなかなか酸素を消費する。
もっと起伏があったり、カーブがあったりの楽しい道はないのだろうか。
地区によって発展の程度が違う。ことに地元は格差が激しい。
多くの建物があり、車が通り、人が山ほどいるのが発展の条件だというのは、何か違う気もするが。
しかし本当に、神社に向かうにつれて建物はまばらになり、田んぼや畑の割合が増えていく。車通りも数えるばかりになり、人などは滅多に見かけない。見かけても高齢の方々ばかりで、若い面々などは見つからない。
これこそが、老いこそが発展していないように見える原因なのだろうかと、ただ延びる道を意識せずに、考えを巡らせ進む。
楽しみがないのでところどころ抜け道や山道を使って目的の神社に到達した。注連縄の付いた大木の下に駐輪し、社務所に向かう。
鬱蒼とした林、という表現は少々おかしいかもしれないが、木はそこまでの本数が立っているわけでもないのに、それでいて外から隔離されている感じがある。まぁ神社である以上、どこも現世から隔離された空間になっているはずなのだが、ここの陰気加減はほかのそれのような荘厳な感じや威厳に満ちた静けさとは違う。
林のくせに蝉がギャーギャー騒ぎ立てるわけでもなく、遠くから遠慮気味に鳴らしている。そもそも、もう蝉が減ってきてると言われてしまえばそれまでなのだが、そういうことまでも意識せざるを得ない雰囲気にここは満ちていた。
引き戸を開け、靴を脱いで上がる。木の甘い香りが鼻を通りぬけた。薄暗い廊下を歩いて部屋に入る。
「ああなんだ、誰が来たかと思ったら」
机で何か書き物をしていたらしい。眼鏡をはずすと、鎮さんは机の引き出しから封筒を取り出してきた。
「はいこれ。これでしょ。もってってあげて。どうも」
ニヤニヤ笑って座ったまま俺に封筒を手渡す。
少し厚みがある。小銭の音がした。
「あとこれ」
白い紙袋が12種入ったビニール袋。一つ一つの重さは軽いだろうが、その量で重量を感じるほどになっている。
「了解です」
「毎度すまんね、たのむよ。これお駄賃」
鎮さんは机のカゴからアメをひと掴みとると俺に差し出す。リンゴとみかんとソーダだった。ほのかに酸味がかおる。
「……いつまでかかりますか」
「うーん……」
彼は遅い動作で席から立つと、首を鳴らして机をあさった。墨と半紙で書かれた紙やこよりでとめられた書類が散乱し、しかし分類別にしっかりまとめて配置されている。
「もう少しかなぁ」
鎮さんは相変わらずニヤニヤした。俺はアメをポケットに突っ込んだ。
「……そろそろ、というか、もうキツイんじゃないかなって」
「そうだね。だから、もう少し」
彼は右肩を揉んでから、鉛筆立ての隣に置かれたライターとタバコを持つ。銘柄はわからなかったが、おそらく重たいやつなんだろうなと想像した。
「今回のももう少しだよ。彼女らも君も、もう少し。だから、よろしくね」
鎮さんは笑いかけると、部屋を出ていった。
俺はため息をついて、ポケットを探る。当てたのはみかんだった。視覚からダイレクトにつながって唾液腺が決壊したところに放り込む。渡されたものをポシェットにしまい、飴玉を舌で転がしながら部屋を出て靴を履いた。
給湯室の方からライターのクリック音が聞こえてくる。木の甘い香りに煙の匂いがまじり始めた。




