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井戸端に角  作者: 穴沢喇叭
二話
11/15

11

 さすがに朝みたいに腹部を破壊されかけるようなことにはならなかった。おどおどした暗い青年がよくわからないぶっとんだ女の子に腹部を攻撃されている図なんて電車の中で見たくない。

 そういえばまず彼女の姿は見えないから、おどおどした暗い青年がひとりでに腹部を激しくよじらせて呻いているというこの上なく奇妙で変態的な光景を見せつけてしまうことになる。


 まぁ俺もここまで落ちたからには落ちるとこまで落ち続けてもいいかもしれないが、他人様の社会的信用は最後までとっておきたいものだなぁなんて考えた。

 俺が考えるには俺という人間はなかなか無害なように見えるはずだし、周りの人々の反応を見ても俺は単なるおどおどした男子大学生でしかないだろうことは読み取れる。

 だから俺がどこまでこんな卑屈で臆病な人間に落ちていたとしても、さすがに通学中の視線までトゲのあるものにはしたくない。俺はマゾヒストじゃない。いや、毎日腹部に目覚ましを食らうことを拒否しないのだから、そうとは言えないかもしれないが。


 もしかしたら、自分の知らない間に新しい自分が目覚めてしまっているのかもしれない。というのはベタだろうか。

 腹部攻撃はすでに日課のようなものだから、脳味噌が慣れてしまっているだけだと思いたい。そもそもそれが危ないのだろう、慣れてしまったらそれ以上の刺激でないと俺は睡眠から覚醒することができなくなっていく。

 つまり腹部に乗られる以上の刺激と言うわけで、これ以上の刺激を求めるようになったらそれこそマゾヒストへの第一歩な気がしてならない。

 自発的ではなくとも起きられない不快感を克服するために大きな刺激を求めるようになり、起きられたときの快感を刺激による快感とみなすようになるだろう。それはマゾヒストなのではないだろうか。


 別視点から考えよう、普通腹部に乗っかられるまたは乗っかるというのは攻撃ではないとしよう。するとどうだろう、この行動には少なからず、なにかしら性的な意味を持つのではないだろうか。現にアニメや漫画などの作品ではそういったシチュエーションを経てちょっと胸騒ぎな展開に、なんてこともある。ということはこのままいけば......。

 いやいやまてまて、その展開は断じて受け入れられない。さゆりはたしかにかわいい女の子ではある。だから心の弱い俺ははじめは拒否してもなあなあで受け入れてしまうかもしれない。


 これは俺の妄想の産物かもしれないが、現にさゆりはバックルの感度を調節できるにも関わらず、それを下げるようなことはせずにむしろ楽しんでいるきらいがある。仮面にすることを迷ってもいた、自分で公言した積極的女子だ。つまり俺が断固拒否してもさゆりから積極的にアタックしてくるなんてことも考えうる。

 まさかとは思うが、しかし前提として思春期(俺がいまだに抜け出せていないのと、人間の常識が当てはまらないさゆりが思春期に当てはまるのかは別として)の男女がひとつ屋根の下で生活しているのだ。間違って、何て事もあるかもしれない。いや、これではいかにも俺が期待しているような言い方である、断じてそのようなことはない、と思いたい。


 危ない、俺の貞操が今危ない。考えすぎかもしれない、しかし可能性はゼロではない。ここで俺は貞操を守らなくてはならない。でなければ俺はあの子に顔向けが出来ぬ。そろそろ目覚まし時計を本格的に増やさなければならないかもしれない。


 まあ稚拙で妄想だらけの考察はここまでにして、ともかく俺は腹部を攻撃されることなく無事に目的地の駅手前で目を覚ましたというだけの話だ。


 駅のコンビニで菓子パンを2つ、惣菜パンを1つ、それから500mlのペットボトルお茶を仕入れて、大学へ向かった。

 さゆりはびゅんびゅん俺の周りを飛び回る。なにがそんなに楽しいのか、犬をつれた老人や自転車に乗るサラリーマンをチョロチョロ見ながら鼻唄を歌っている。どっかのアニメか、それか漫画で見たような光景。いまではもうこの光景は平面の世界ではなくなってしまったのだなぁなんて。漫画を読み漁り、アニメを消化しまくっていたあの平凡な日々は、遠い昔だ。


 とはいえ実際のところはその暮らしに新たな要素が追加されただけなのだ。追加どころか、俺の生活はほとんど違うものになってしまったと言っていいかもしれないが、ひとつの変化が多くのものに変化をもたらすのは世の中にはよくあることだ。

 これはそのよくあることのひとつだから、俺がこの程度のことで毎日悩むなんて甘えたことできるものじゃない。今まで通りアニメは見れるし漫画は読み漁れる、少しばかり厄介な女の子が独り暮らしに居候してきて食費光熱費が倍かかるようになり、買った漫画を先に見られたり録画したものを先に見られたりさゆりの好みのものが毎週録画されるせいで容量不足になっているぐらいのものである。


 生活的には苦しくなっているから文句ぐらいは言ってもいいと決めているが。もっともそれだってさゆりには俺から頼んで付き合ってもらっているようなものだし、そこまでの注文はできない。

 さらに別視点から見ればこの状況は既にものすごく甘い。よく考えたら、いや考えなくても紛れもなくこいつは女の子じゃないか。普通に考えてかわいい女の子が童貞で暗い変な男子大学生と同居してくれるのだから文句など言えるはずがない。


 お気に入りらしい横ポニーテールが元気よく揺れている。この髪型にしてからかれこれ3週間は経つだろうか。

「横ポニーテールじゃなくて、サイドテールってシャレオツなネームがあるの!」

 俺が唯一自信があるほっぺたをぷにぷにいじくりながら、さゆりはぷかぷか浮かんでいる。いや、ほっぺたに自信のある男子大学生ってなんだよ。俺ってばもっと筋肉とか脳みそとか容姿とかそういうとこに気を遣えよ。


 さゆりの容姿は大学生というか高校生だ。それでもそこそこ背が小さいから仕草が幼いのと相まってちょっと目に毒だ。痛々しい、何て言ったら怒られるだろうか。毎日見ていると彼女に好意を抱きそうである。特別嫌いというわけではないし、広義の好意であればそれはそうかもしれない。嫌いではない。ただ、この子に求めてしまいそうなのはそういう恋愛感情じゃなくて、もっと欲望的な情念だ。いやだからいかんのだって。


 そう思わせてしまう彼女のキュートなルックスは罪である。実際問題、発言や行動はまたちょっと異質なものだけど、というか人間とは言いがたい身体性質だけど、普段は猫をかぶって大人しくしているから幽霊状態でないときのさゆりは大学でもご近所でも評判だ。

 こんな非常事態みたいなときでなければさゆりはベルトに変化せず普通に登校している。それなら今日みたいな日でもいつも通り登校すればいいじゃないかなんて思うわけだが、さゆり曰く「そうやって油断しているときこそが一番危ないんだよ」ということなので大人しく従っている。


 普段の日に登校するときだっていかんせんこいつは無駄に幼く見えるから、大学生ということにするのには少しばかり周囲のご理解を得るのは大変だった。

 だいたいあんなに言っておいたのに校内で勝手に姿を現して「ユーイチのいとこのさゆりちゃんでーす」なんて腕に抱きついてきたから俺が面倒くさい説明をしなくちゃいけなくなったんだ。しかもどこで作ったんだかどうやったんだか学生証まで所持していた。こいつが正規に高校を卒業し入試を受けたとは思えないので何らかの工作をしているに違いないが、そんなことがバレたら同居している俺に真っ先に疑いが掛けられる。

 頼むからもう余計なことしないでほしい。するにしても一言断りをいれてほしい。


 大学の門を抜けて、管理棟の脇を歩く。

 天気はそこそこの晴れで、みんなの髪の毛はワカメになっている。蝉はいよいよ五月蝿くなくなってきたが、ところどころに夏の残滓になるであろう彼らが落ちていた。猫に食べられたのか、腹部がないのも多く見られる。むなしそうに空を見上げている。

「今日は忙しくなりそうだねぇ、さゆりちゃんは一応警戒しとくけど、ちゃんとお腹に気を配っててね」

 ベルトがブルブル振動する。まぁ今日もお知らせはこうしてくれるんだろう。こうしておけば講義中万が一寝てしまってもなんとかなる。デザインは至って普通のベルトだから、ブルブルと震えてもガチャガチャなったりはしない。某ヒーローものではないし、そんなごてごてした構造物はついていない。洋品店のボトムスの売り場の角に吊り下げられているような、普通のベルトである。

 これがブルブルと震えて、お腹回りの脂肪に効く通販でお馴染みのあの商品の要領で、簡易的なコミュニケーションができる。幽霊状態で彼女の声は他人に聞こえないとはいえ、起こすときに大声でなにか言われたら俺が声を出してしまうかもしれないのでいい手段であった。どっちみち、俺は振動にビックリして変な声を出してしまうのだろうが。


「とりあえず今日は眠くならないのばかりだから、大丈夫」

「スポーツする、みたいなのはないよね」

「ない、だからベルトはつけっぱなしだから心配しなくていいよ」

「はいはいはい。もー、ふつう講義は寝ないものなんだよー」

 俺の頭をコツン、と。もっともらしいことを言ってくれるな。

 いやいや、ごもっともなんだよ。俺が寝てしまうことがいけない。そもそも大学とは義務教育ではない、さらに自分で望んだからには居眠りなどせずじっくりと講義に集中しなければならないのだから、さゆりの言っていることは正論である。


 三号棟にはすでにちらほらと学生が漂っていた。なるべく視線を合わせないように通り抜け、階段を上って講義室にはいる。席はそこそこ埋まっていたので選り好みできる状況ではなかったが、俺は無難な位置に陣取って筆記用具を出した。

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