明治六年の憂愁
洋行帰りの男――長生は、三鞭酒の杯を掲げた。
「瀧羽の夜に」
瀧羽は今や、横濱、神戸と並ぶ港町だ。異人の居留地があるため、洋館なるものが立ち並ぶようになった。去年の秋に横濱で初めて点ったという瓦斯灯も、ついこの間、瀧羽に進出してきた。瀧羽暮らしが長いものの、こういった新しき物共に馴染まぬ男――唐木は、田舎町にでもゆこうかと、半ば真剣に考えていた。しかし何処に流れ着いた処で、近代の風は追いかけてくるであろうし、何処も彼を居心地良くはさせてくれないのだろう。
二人の男が這入った西洋料理屋は、瀧羽の一等地ではなく、大通りから横道に逸れた曲がり角に立っていた。煉瓦造りの建物を前に、周囲の喧騒などお構いなしの隠れ家さ、と長生は云う。
三鞭酒とは、伊太利の葡萄酒かい、と尋ねると、仏蘭西だよ、唐木君、と彼は呆れたように云った。
物珍しげに其の硝子製の瓶を眺めていると、彼は唐木の着物姿を評してこう述べた。
「君は、見た処あんまり変わりが無いようだが」
「悪いか」
「否、全く」
寧ろ安心する、と此の友人は云うのである。
唐木は苦い顔をする。このご時世だ。全く変わりなし、とはいかない。
「二月には仇討までお国に咎め立てされるようになったのだぞ。何時までも刀に縋る気は無いが、人斬り稼業では食い扶持にも事欠く有様だ」
食卓の在る部屋には二人きりだったが、唐木は一応声を低めた。
「人斬りを廃業しても、どうにもなるまいよ。君に他に取柄があれば別だが」
「失敬な」
云い乍ら唐木は苦笑する。長生の言い分はまるきり其の通りなのである。
「そう云う君は何処で何を学んできたのだ」
「摩尼克で衛生学を学んだ」
「みゅんへんとは何処の国だい」
「独逸さ」
「独逸は伯林くらいしか知らんな」
「君が伯林を知っているだけでも驚きだよ」
長生は医者である。衛生学という学問については、此の男から聴く限り、人を診る事よりは細菌なるいきものを云々する事に重きを置く分野のようだった。人の眼には見えぬ小さな敵を相手に奮闘するのだ、と彼は冗談半分に云っていた。
彼は成績優秀者の枠を獲得して洋行していた。生家は彼を私費で留学させられる程の富豪ではない。それでも時代に取り残された人斬りよりは随分ちゃんとしていて、金も有る。彼が帰国直後に思い出して食事に誘ったのが唐木というのは、唐木自身には思い掛けぬ事であった。
「其れで、用向きは何だ」
唐木は不審げともとれるであろう顔を作った。
「用等無いのだよ」
長生はあっけらかんと云う。
「だろうな。まさか君が、おれに仕事を持っては来るまい」
「其れはどうかな」
「怖い事を云う医者もいたものだ」
出し抜けに戸が開いて、給仕が這入って来た。料理を置いて給仕が去った後、唐木は大袈裟に嘆いてみせる。
「そら、おちおち秘密の話も出来ん。異国では戸を叩いてから開けるというじゃないか」
「いやいや唐木君、日本人だって昔から開ける前に声くらい掛けていただろう。個人の問題を、お国柄の問題にしちゃあいけない」
個人等という近代的な単語を口走る時点で、彼も立派に近代文明の思想に巻き込まれている、と唐木は思う。唐木が西洋から来た物の中で好いと思ったのは、珈琲と葉巻だけだ。
「ほう、流石に近代人は云うことが違う」
「茶化すなよ、唐木君」
彼がほんとうに厭そうな顔をするので、唐木は口を噤んだ。
暫く二人は黙々と食事をした。唐木はその間、何度か肉叉を卓上で取り落として音を立てたが、長生は馬鹿にはしなかった。
「ほんとうの処、瀧羽に寄るつもりはなかったのだ」
「ならば、寄るべきではなかったな」
「またそう冷酷な事を云う」
じっさい冷酷なのだから致し方ない。
「瀧羽も随分洋風に被れたな。君のような人には住みにくいだろう」
「おれのようなとは、どんなやつの事だ」
「さあ、改めて云われると、難題だ」
「なら問題を変えよう。どんな街ならおれに相応しい」
そんな風に訊くと、彼の眼は宙を彷徨い出した。
一つの解答が其処に浮いていれば話は楽なのだがなあ。唐木は放浪する長生を横目に、挽肉の塊に齧り付いた。
ややあって、彼は答えた。
「君に、ふつうの仕事を勧めようかと思ったのだが」
何だ、用件があったのか、と唐木は呆れる。
「余計な事を」
「ああ、ほんとうに余計だった」
三鞭酒の微細な泡は、もうほとんど無くなっていた。