表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

時代短編の部屋

明治六年の憂愁

作者: 柚木

 洋行帰りの男――長生(ながお)は、三鞭酒(シャンパン)の杯を掲げた。

瀧羽(たきば)の夜に」

 瀧羽は今や、横濱、神戸と並ぶ港町だ。異人の居留地があるため、洋館なるものが立ち並ぶようになった。去年の秋に横濱で初めて点ったという瓦斯(ガス)灯も、ついこの間、瀧羽に進出してきた。瀧羽暮らしが長いものの、こういった新しき物共に馴染まぬ男――唐木は、田舎町にでもゆこうかと、半ば真剣に考えていた。しかし何処に流れ着いた処で、近代の風は追いかけてくるであろうし、何処も彼を居心地良くはさせてくれないのだろう。

 二人の男が這入った西洋料理屋は、瀧羽の一等地ではなく、大通りから横道に逸れた曲がり角に立っていた。煉瓦造りの建物を前に、周囲の喧騒などお構いなしの隠れ家さ、と長生は云う。

 

 三鞭酒とは、伊太利(イタリア)の葡萄酒かい、と尋ねると、仏蘭西(フランス)だよ、唐木君、と彼は呆れたように云った。

 物珍しげに()の硝子製の瓶を眺めていると、彼は唐木の着物姿を評してこう述べた。

「君は、見た処あんまり変わりが無いようだが」

「悪いか」

(いや)、全く」

 寧ろ安心する、と()の友人は云うのである。

 唐木は苦い顔をする。このご時世だ。全く変わりなし、とはいかない。

「二月には仇討までお国に咎め立てされるようになったのだぞ。何時までも刀に縋る気は無いが、人斬り稼業では食い扶持にも事欠く有様だ」

 食卓の在る部屋には二人きりだったが、唐木は一応声を低めた。

「人斬りを廃業しても、どうにもなるまいよ。君に他に取柄があれば別だが」

「失敬な」

 云い(なが)ら唐木は苦笑する。長生の言い分はまるきり其の通りなのである。

「そう云う君は何処で何を学んできたのだ」

摩尼克(ミュンヘン)で衛生学を学んだ」

「みゅんへんとは何処の国だい」

独逸(ドイツ)さ」

「独逸は伯林(ベルリン)くらいしか知らんな」

「君が伯林を知っているだけでも驚きだよ」

 長生は医者である。衛生学という学問については、此の男から聴く限り、人を診る事よりは細菌なるいきものを云々(うんぬん)する事に重きを置く分野のようだった。人の眼には見えぬ小さな敵を相手に奮闘するのだ、と彼は冗談半分に云っていた。

 彼は成績優秀者の枠を獲得して洋行していた。生家は彼を私費で留学させられる程の富豪ではない。それでも時代に取り残された人斬りよりは随分ちゃんと(・・・・)していて、金も有る。彼が帰国直後に思い出して食事に誘ったのが唐木というのは、唐木自身には思い掛けぬ事であった。

「其れで、用向きは何だ」

 唐木は不審げともとれるであろう顔を作った。

「用(など)無いのだよ」

 長生はあっけらかんと云う。

「だろうな。まさか君が、おれに仕事を持っては来るまい」

「其れはどうかな」

「怖い事を云う医者もいたものだ」

 出し抜けに戸が開いて、給仕が這入って来た。料理を置いて給仕が去った後、唐木は大袈裟に嘆いてみせる。

「そら、おちおち秘密の話も出来ん。異国では戸を叩いてから開けるというじゃないか」

「いやいや唐木君、日本人だって昔から開ける前に声くらい掛けていただろう。個人の問題を、お国柄の問題にしちゃあいけない」

 個人等という近代的な単語を口走る時点で、彼も立派に近代文明の思想に巻き込まれている、と唐木は思う。唐木が西洋から来た物の中で()いと思ったのは、珈琲と葉巻だけだ。

「ほう、流石に近代人は云うことが違う」

「茶化すなよ、唐木君」

 彼がほんとうに厭そうな顔をするので、唐木は口を噤んだ。

 暫く二人は黙々と食事をした。唐木はその間、何度か肉叉(フォーク)を卓上で取り落として音を立てたが、長生は馬鹿にはしなかった。

「ほんとうの処、瀧羽に寄るつもりはなかったのだ」

「ならば、寄るべきではなかったな」

「またそう冷酷な事を云う」

 じっさい冷酷なのだから致し方ない。

「瀧羽も随分洋風に被れたな。君のような人には住みにくいだろう」

「おれのようなとは、どんなやつの事だ」

「さあ、改めて云われると、難題だ」

「なら問題を変えよう。どんな街ならおれに相応しい」

 そんな風に訊くと、彼の眼は宙を彷徨い出した。

 一つの解答が其処に浮いていれば話は楽なのだがなあ。唐木は放浪する長生を横目に、挽肉の塊に齧り付いた。

 ややあって、彼は答えた。

「君に、ふつうの(・・・・)仕事を勧めようかと思ったのだが」

 何だ、用件があったのか、と唐木は呆れる。

「余計な事を」

「ああ、ほんとうに余計だった」

 三鞭酒の微細な泡は、もうほとんど無くなっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ