蠱惑的な彼女と、落下する青年
人生なんてものは、些細なきっかけで一変するものだ。
たまたま手に取った本に記された言葉一つ、小さな勘違いや失敗から生じた思わぬ結果との直面など。
本当に、思いもよらぬ出来事で人の歩む道は姿を変える。
出会いもまた、その一つ。
誰かと巡り合ったことが、その人物のその後の人生を大きく変える転換点になったなどといった話、それほど珍しいものではない。
そんな話の一つや二つ、誰でも聞いたことがあるのではなかろうか。
既に自その身で経験したという者もいるだろう。
けれども、それは決して世にありふれた、誰にでも起きる出来事ではない。
バーゲンセールのワゴンで安売りされた、希少価値の低いイベントではないのだ。
人との出会い一つ一つは、その人の人格を形作る大切な要素である。
けれど、人生観やその後の生き方の方針をも想定外のものに変えてしまうような出会いはきっと希少だ。
希少だからこそ、誰もそれが我が身に起こると予想などしていない。
自分の人生、そうそう予想外のことなど起きはしないだろうと、ある種達観し、諦めてしまっている者も珍しくはない。
しかし、そういった者達に限って、道を歩いていたら突然落とし穴に落とされたかのようなとんでもない状況で、碌な心の用意もないままそのような出会いにぶつかり、慌てふためくものだ。
貴方は、どうだろうか?
「おい、お前は誰だ?」
「誰だとお思いになりますか?」
扉を開けたら、黒髪の着物少女が床に手をついて恭しく礼を返してきた。
その女性が笑顔を向ける先で、ドアノブ片手に凍り付いていたのは、やや清潔感に乏しいラフな格好に身を包んだ青年。
いつものように大学をサボり、いつものように一人で趣味のカードショップ巡りをし、いつものように誰もいない自宅に戻った、この安アパート一室の借主だった。
困惑を顔に宿す青年の前で、一礼を終えた着物少女の上半身が持ち上がっていく。
男を誘う蠱惑的な笑みを浮かべるその少女の顔に、青年は見覚えが無かった。
こんな少女と、知り合いになった覚えはない。
眉を顰め、質問を返す。
「いやいや、分かる訳ないだろ。俺の部屋で一体何してるんだ」
「貴方様を待っておりました」
「俺を?」
「ええ、貴方を」
両手を広げ、歌い上げるようにそう告げた少女は、狭苦しく散らかり放題な青年の部屋にあって、異彩を放っていた。
床一面に広がるほどに長い髪は、艶やかな射干玉の黒色。
身に纏うは紅と白の織りなす装束。どこか、日本の巫女服を彷彿とさせる装いだ。
コクリと頷き、今も青年を見つめる顔は、どこか妖しげでありながら、少女の持つ儚い印象をいっそう際立たせる役割を果たしていた。
不思議な輝きを湛えたその目は、ずっと見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうな深い黒色をしている。
と、あらためて気付いた少女の妖しげな美しさに見惚れていた青年に向けて、白く美しい、少女の手が伸びてきた。
「さあ、参りましょう。私の手を取ってください」
僅かに首を傾げ、美しい声で青年を誘う少女。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、お前は何の目的があって俺を待ってたんだ? 誰からも必要とされてこなかった、この俺なんかを」
唐突な状況に混乱するより先に、少女の言葉に疑問を返した青年。
自分にむけて真っ直ぐ伸ばされた手を、胡乱げに眺めている――つもりだった。
まるで見知らぬ女からの、何の脈絡もない誘いの言葉。
それを受ける者の反応など、通常なら困惑か、警戒のどちらかで然るべきだろう。
だが、少女の目に映る青年の目は、不安の光と、それ以上に強い期待の色を宿して揺れていた。
青年はこの年まで、誰からも必要とされたことが無い人間だった。
少なくとも、当人はそうであると思いこんでいた。
かつて、青年が小学生だった時、青年がよく遊んでいた子供達……青年が勝手に友達だと思っていた、日頃一緒に遊んでいたクラスメイト達は、青年の理解者ではなかった。
彼がそう思うようになった一番のきっかけは、小学校の頃の思い出だ。
それは、一番寂しさを感じていた時期、交通事故で入院していた頃の話だ。
二週間の間、白く清潔なベッドで療養を余儀なくされた彼を、その子供達はただの一度も、見舞いに訪れなかったという経験が、彼にはあった。
本当に、誰一人としてやって来なかったのである。
常から毎日のように公園で遊んでいた「友人」も、学校の成績が良い彼の頭の良さをテストの度にを褒めてくれる、隣の席の「幼馴染」達も。
それは彼の心の奥深くに、消えない傷として刻まれた。
その子供たちは、本当に彼のことを必要としていた存在ではなかったからだと、当時の彼は考えた。
一人寂しく病院のベッドに横になりながら、幼い彼は本当の理解者が、友人が欲しいと切に願い続けるようになった。
中学、高校、そして大学。受験勉強を、そこそこ手を抜きながら傍からは真面目に見える程度の塩梅でこなし、順調に父親と同じ公務員への道を歩んできた青年。
傍からは、順風満帆に見える、文句のつけようのない人生を歩んでいた。
唯一欠点を挙げるなら、他人との関係が希薄だったことだろうか。
幼少期の経験から、自分から人に声をかけることにためらいを覚えるようになった青年。
修学旅行、学園祭、部活、大学の飲み会etc,etc……
人と仲良くなる機会をみすみす逃し、周りの人間と壁を作っていた。
そんな彼に寄ってくる者があるはずもなく、彼はこの年になるまで、常に孤独に過ごしていたのだ。
自分が欲する「自分を必要としてくれる人」を自らの手で遠ざけている事実に気づきながらも、拒絶の恐怖からそのことに目をつぶっていたのだ。
ただ、漫然と理解者を欲しつつも、それを求める努力はしてこなかった青年。
そんな彼の目の前で、両手を広げた少女が、柔らかい笑みを顔に浮かべた。
青年の全てを肯定し、青年の全てを受け入れる微笑みであった。
青年の目と、心が、
一気に目の前の美しい少女に引き込まれる。
「私は貴方が必要なのです。貴方だけを、お待ちしておりました」
その言葉に、青年の心が震える。
彼女の言葉が真実である保証はない。
だが、自分を必要としてくれるのだというその言葉を受け、彼の思考は麻薬でも摂取したかのように甘い靄に包まれていく。
硬直する青年の前で一歩、また一歩と、少女が近づいてきた。
鼻先がぶつかるかというほどの距離まで近づいた少女から漂ってきた馨しい香りを、彼の鼻腔が捉えた。
女の子の臭いだ。青年は思った。
これほどまで近くで女性の臭いに身を包んだことは無い。
星屑のように美しく煌めく少女の双眸が、彼の顔を映しこんだ。
不意に、青年の唇に何か温かく、柔らかいものが触れた。
それが目の前の少女の唇だと気づいた時には、青年の体は背に回された少女の両腕で拘束されていた。
その瞬間、なぜか本能的な危機感を覚えた青年だったが、少女を振りほどく気は起きなかった。
不自由を受け入れ、目を瞑り、少女の細い腰に自分も手を伸ばす。
自分の周囲の風景が崩れ去り、彼の自室とは異なる空間がそこに現れようとしていることに、少女の体に夢中になっていた青年は気づくことができなかった。
足裏の感触が消失た際も、彼女の華奢な身体を抱え上げるのに懸命で、軽い違和感の一つも覚えない。
口内に侵入してきた少女の舌に自らのものを絡めながら、青年はふと、先日匿名掲示板で交わしたやり取りを思い出す。
NEETな名無しさん:蠱惑魔って存在を知っているか? なんでも、自分のすみかのある異世界に、見出した下僕を引きずり込む化け物らしいぜ。その人間を魅了する“餌”を用意して、異界への“落とし穴”に嵌めるんだってさ
NEATな名無しさん:カードゲームで、似た設定のキャラクターを見たことがあるぞ。
NEETな名無しさん:ああ、そうだ。あのカードは実在の都市伝説をモデルにしてんのさ。
NEATな名無しさん:都市伝説に「実在」っておかしくね?
――ああ、そんなやり取りがあったな。
青年の思考が一瞬クリアになりかけた。
シュルリ。
そんな青年の目の前で、衣擦れの音と共に少女が上着を地に落とす。
そのまま青年の手を、覆い隠すもの無くなった自身の胸元まで誘導した。
少女の甘美な感触に酔いしれた青年の思考に、再び濃い靄がかかる。
甘い――なんて甘いんだ、この身体は。
青年は、少女の柔らかで熟れきっていない肉体に溺れた。
いつの間にか自身の身体を包み始めた浮遊感を忘れ、ただ少女の感触のみで脳内を満たす。
必死になって少女の体を貪り始めた青年を見る少女の目が、捕えた獲物を見る狩人のそれになっていた。
青年はそのことに気づいていたが、それで構わないと思い始めていた。
――今、この人は俺だけを見ていてくれる。この人に必要とされるのであれば、下僕でもなんでもかまわない。どんなことでもやってのけようじゃないか。
自身の頭に載った少女の手の温もりを感じ、何故だかあふれ出した涙を不思議に思いながら、青年は決意した。
少女は蠱惑的な微笑みを浮かべ、ただただそんな青年の頭を撫で続ける。
落下し続ける彼らの足元に、明るい光が見え始めた。
元ネタが分かる人はいるでしょうか?
とあるTCGのカードにインスパイアされて書きました。