七歳の花嫁は、八歳の夫との「白い結婚ごっこ」で父を拒む――「帰るところはない」と言われたので、自分たちで作りました
「この家を出されたら、帰るところはないと思いなさい」
七歳の春、父はわたしを八歳の夫の家へ連れてきて、そう言った。
大人になるまでは別々の部屋で暮らす、名前だけの夫婦。
それを白い結婚と呼ぶらしい。
「妻として、きちんと役に立ちなさい」
「はい、父さま」
大きな扉の前には、背の高い男性と、わたしより少し大きな男の子が立っていた。
「私がエドガーだ」
エドガーさまは、隣の男の子を呼んだ。
「シオン」
「はい、父上」
シオンは一歩前へ出て、きれいに頭を下げた。
「本日より、よろしくお願いいたします」
わたしも黙って頭を下げた。
玄関脇の卓には、一枚の書類と、革の袋が置かれていた。
父は袋を手に取り、重さを確かめるように持ち上げた。
「確かに」
袋は父の懐へ消えた。
エドガーさまが、書類を父の前へ置く。
「最後まで読まれなくてよいのか」
「金額に相違がなければ結構」
父は署名の欄だけを確かめ、名前を書いた。
赤い蝋に指輪を押しつけるとき、「成人までの後見」と「違約の際は」という言葉が聞こえた。
何のことかは、わからなかった。
わかったのは、わたしがあの袋と引き換えにされたことだけだった。
父は書類を畳んだあとも、わたしの顔を見なかった。
「では、よろしくお願いいたします」
そう言って、振り返らずに馬車へ戻っていく。
扉が閉じる音がした。
「リリアを部屋まで案内しなさい」
「承知しました、父上」
シオンは背筋を伸ばしたまま、屋敷の中を歩きだした。
けれど廊下の角を曲がり、エドガーさまの姿が見えなくなると、急に足を止めた。
「つかれた」
まっすぐだった肩から力が抜ける。
「先ほどは、疲れていないように見えました」
「父上がいたから。ちゃんとしていないといけないんだ」
シオンは壁に背中をつけ、小さく息を吐いた。
それから、少し迷うようにわたしを見る。
「リリアは、同じくらいの子と遊んだことある?」
「ありません」
「僕も」
シオンは靴の先へ目を落とした。
「リリアが嫌じゃなかったら、僕の友達になってほしい」
「妻ではなく、友達にですか」
「妻のことは、まだよくわからないから」
シオンは困ったように眉を下げた。
「友達なら、一緒に遊べるでしょう」
わたしも、友達が何をするのか知らなかった。
それでも、役に立てと言われるより、少しだけうれしかった。
「わかりました」
シオンの顔が、初めてやわらかくなった。
◇
部屋を案内し終えると、シオンは庭へ誘った。
「何をして遊びますか」
「探検」
そう言ったものの、シオンは庭の道を歩くだけだった。
わたしも隣を歩いた。
しばらく、どちらも何も話さない。
「これで遊んでいるのですか」
「たぶん」
シオンは困った顔をした。
「つまらない?」
「誰かと遊んだことがないので、わかりません」
「僕も」
庭の奥に、小さな池があった。
水の上には、向こう岸まで平たい石が並んでいる。
「渡ってみる?」
シオンが先に石へ乗った。
わたしも続こうとしたけれど、最初の一歩が届かなかった。
シオンが振り返り、手を伸ばす。
「つかまって」
「二人とも落ちませんか」
シオンは自分の足元を確かめた。
「ゆっくりなら、大丈夫」
差し出された手を握った。
シオンは一歩進むたび、わたしが次の石へ乗るまで待ってくれた。
途中で足が震えると、握る力が強くなった。
「下を見なくていいよ」
「では、どこを見ればよいのですか」
「僕を見て」
顔を上げると、シオンも怖そうな顔をしていた。
それでも、わたしの手を離さなかった。
向こう岸へ着き、手をほどこうとする。
けれど、シオンは握ったままだった。
「もう渡りました」
「うん」
シオンは、つないだ手を見た。
「もう少し、このままでもいい?」
友達が手をつなぐものなのかは、わからなかった。
「庭を出るまでです」
「わかった」
シオンは笑って歩きだした。
庭を出る道は、来たときより長かった。
◇
次の日は、朝から雨が降っていた。
窓を打つ雨を見ていると、シオンが大きな布を抱えて部屋へ入ってきた。
「今日は、家を作る遊びをしよう」
椅子を二つ並べ、その背に布をかける。
片側がすぐに落ちた。
シオンが掛け直すと、今度は反対側がずれた。
二人で何度も椅子を動かし、ようやく布が屋根のように広がった。
「入り口は、こっちでいい?」
「シオンが決めてください」
「僕とリリアの家なのに、僕だけで決めるのは変でしょう」
二人で椅子を動かし、窓が見える側を入り口にした。
「では、大事なことは二人で決めることにしましょう」
「うん。それがいい」
中へ入ると、二人だけの小さな家になった。
「誰の家ですか」
「僕とリリアの家」
「ここで何をするのですか」
「暮らす」
「どうやって?」
「まだ考えてなかった」
シオンは布の屋根を見上げた。
「僕たちは、白い結婚なんでしょう」
「大人たちは、そう呼んでいました」
「でも、夫婦が何をするのかは、まだわからない」
シオンは、わたしへ目を戻した。
「だから、ここで夫婦の練習をしよう」
「白い結婚の、練習ですか」
「うん。僕たちで暮らし方を決めるんだ」
それが、わたしたちの白い結婚ごっこの始まりだった。
シオンは、おやつの皿を二人の間に置いた。
蜂蜜の菓子と、苺の菓子が一つずつ載っている。
「どっちがいい?」
「シオンが選んでください」
「リリアに聞いてるんだけど」
「残った方をいただきます」
シオンは、どちらにも手を伸ばさなかった。
「それだと、リリアが何を好きなのかわからない」
「知りたいのですか」
「友達だから」
わたしは二つの菓子を見比べた。
自分が欲しい方を口にするのは、怖かった。
「蜂蜜の方が好きです」
「じゃあ、リリアは蜂蜜」
シオンは苺の菓子を取った。
怒られなかった。
残念そうな顔もされなかった。
「この家では、好きなものを見つけたら、自分で言うことにしよう」
「シオンもですか」
「うん」
「シオンは、何が好きですか」
シオンは苺の菓子を食べながら考えた。
「この家」
「作ったばかりです」
「でも、好きになった」
布の外では雨が降っていた。
その音を聞きながら食べた蜂蜜の菓子は、いつもより甘かった。
家を片づける前に、シオンが言った。
「明日も遊ぼう。昼に中庭で待ってる」
「はい」
◇
翌朝、目を開けると、身体が重かった。
起き上がろうとしたわたしを、侍女が寝台へ戻す。
熱があると言われ、昼になっても部屋を出られなかった。
中庭で待っているシオンに伝えてほしいと頼んだけれど、侍女が向かったときには、姿がなかったらしい。
昼を過ぎてから、扉が開いた。
シオンが、林檎を載せた皿を持って立っていた。
「中庭で、ずっと待っていた」
「すみません」
「来ないから、何か怒らせたのかと思った」
シオンは寝台のそばへ椅子を寄せた。
「侍女に聞いたら、熱だって言われた」
「それで、林檎を?」
「何か持ってきたかったから」
答えるときも、シオンはまだ怒った顔をしていた。
「嫌いになったわけではありません」
「……うん」
ようやく、シオンの肩から力が抜けた。
皿の林檎は、大きさがばらばらだった。
「シオンが切ったのですか」
「料理人に包丁を借りた」
一つ食べると、厚いところと薄いところが一緒に口へ入った。
「上手ではありません」
「やっぱり?」
「でも、おいしいです」
シオンは安心したように椅子へ座り直した。
皿が空になると、急に申し訳なくなった。
「今日は、妻の役に立てませんでした」
「熱の日は、寝るのが仕事だよ」
「では、わたしはいま、仕事をしています」
「うん。ちゃんと寝て」
熱のせいで、まぶたが重くなる。
「起きたときも、いますか」
「いるよ」
シオンはすぐに答えた。
「今度は、僕がリリアを待ってる」
目を閉じる前に、その声を何度も胸の中で繰り返した。
◇
熱が下がった日の午後、シオンはわたしを布の家へ連れていった。
入り口の前で、急に立ち止まる。
「おかえり、リリア」
「ここへですか」
「うん。僕たちの家に」
わたしは布の中へ入った。
「ただいま、シオン」
シオンもうれしそうに隣へ座る。
「これも、この家の決まりにしよう」
「どれですか」
「帰ってきたら、おかえりって言う」
「では、帰ってきた人は、ただいまと言います」
「うん」
シオンは指を折りながら確かめた。
「好きなものは自分で言う。大事なことは二人で決める。帰ってきたら、おかえりって言う」
「三つになりました」
「もっと増えるかな」
「暮らしていれば、増えるのではありませんか」
「じゃあ、たくさん暮らそう」
布の家は、二人が座ればいっぱいになるほど狭かった。
それでも、前より大きくなったように見えた。
◇
しばらくして、父から屋敷へ手紙が届いた。
宛名はエドガーさまで、わたしへの言付けは一行もなかった。
エドガーさまは手紙を読み、黙って畳んだ。
「お返事はいかがいたしますか」
「断りの文を、一枚だけ」
侍女が下がったあと、エドガーさまはこちらに気づいた。
「案ずることはない」
それだけ言って、書斎へ戻っていく。
何の話かは、教えてもらえなかった。
その夜は、布の家の決まりを一つずつ数えてから眠った。
◇
数日後、音楽室の前を通ると、中から小さな音が聞こえた。
シオンが音楽箱の蓋を開けている。
「リリアは、踊ったことある?」
「ありません」
「僕も、ちゃんとはない。でも、習ったことはある」
シオンが手を差し出した。
「一緒にやってみよう」
手を取ると、もう片方の手が背中へ添えられた。
「近いです」
「僕も、近いと思う」
そう言いながら、シオンは離れなかった。
「右へ動くよ」
教えられた方へ足を出す。
向きを変えるところで、わからなくなった。
「止まりました」
「僕も止まったから、大丈夫」
シオンは急がず、もう一度、足の動かし方を見せてくれた。
今度は二歩だけ進めた。
うれしくなって顔を上げると、シオンが近くで笑っていた。
目が合う。
また足が止まった。
「どうしたの?」
「シオンの顔を見ると、わからなくなります」
「僕は、リリアの顔を見たい」
仕方なく、見つめたまま進んだ。
何度も止まり、何度もやり直した。
上手には踊れなかった。
それでも、シオンにつかまっていると、間違えることは怖くなかった。
「大人になったら、舞踏会でも踊るのでしょうか」
「うん」
シオンは重ねた指を見た。
「そのとき、一番に僕と踊って」
「シオンも、わたしを選んでくれますか」
「もちろん」
返事が早くて、思わず笑った。
「まだ、ずっと先ですよ」
「だから、いま約束しておく」
曲が終わる。
シオンが音楽箱を巻き直した。
二度目は、わたしから手を差し出した。
◇
ある日、エドガーさまが近隣の家の子供たちを招いた。
シオンがわたし以外の同年代と遊ぶのは、初めてだった。
客間では、シオンは背筋を伸ばし、招かれた子供たちに順番に挨拶した。
庭へ出た途端、子供たちは合図もなく駆けだした。
シオンだけが、その場に残った。
「何をすればいいのかな」
小さな声で尋ねられた。
「わたしにもわかりません」
「でも、リリアとは遊べた」
「二人で考えましたから」
こちらへ転がってきたボールを、シオンが拾った。
持ち主の男の子へ投げ返すと、もう一度ボールが飛んでくる。
何度か返すうちに、シオンも庭を走り始めた。
わたしも一緒に追いかけた。
女の子が投げたボールを、シオンが受け止める。
二人が笑いながら、また投げ合った。
胸の奥が痛んだ。
庭にお茶が運ばれてからも、シオンはほかの子たちと楽しそうに話していた。
日が傾くと、迎えの馬車が門前に並んだ。
「また遊びましょうね、シオンさま」
「うん。またね」
シオンが手を振る。
わたしも隣で頭を下げた。
最後の馬車が門を出る。
シオンがこちらを向いたけれど、わたしは目を合わせないまま屋敷へ戻ろうとした。
「リリア」
呼ばれても、うまく振り向けなかった。
シオンが追いつき、隣から顔をのぞき込む。
「疲れた?」
「少しだけ」
「僕が、ほかの子と遊んだから?」
足が止まった。
「わたしがいなくても、楽しそうでした」
「楽しかったよ」
すぐに答えられて、胸の痛みが強くなった。
シオンはわたしの顔を見て、慌てて続ける。
「でも、リリアが先に行こうとしたのは嫌だった」
「わたしは、ここにいます」
「いまは、離れようとした」
言い返せなかった。
シオンは考えたあと、布の家を指さした。
「二人の家で話そう」
家の中へ入ると、わたしはシオンから離れて座った。
狭い家なのに、その間だけが広く見えた。
「わたしのことを見なくても笑えるのだと思ったら、嫌でした」
口にした途端、顔が熱くなる。
「わがままです。忘れてください」
「忘れない」
シオンは膝を抱え、しばらく考えていた。
「僕も、リリアがほかの子とこの家を作ったら嫌だ」
「では、同じですか」
「たぶん」
シオンは隣へ移り、空いていた場所を埋めた。
「ほかの子と遊ぶのは楽しい。でも、ここに入るのはリリアだけがいい」
わたしは、シオンへ寄った。
「わたしもです」
シオンは布の屋根を見上げた。
「嫌だったことも、ちゃんと言う決まりにしよう」
「いまのようにですか」
「うん。黙ったままいなくならないで」
「シオンもです」
「わかった」
少し考えてから、わたしは尋ねた。
「喧嘩をしたら、この家から出ていかなければなりませんか」
「出ていかなくていい」
「追い出しませんか」
「追い出さない」
「では、それも決まりです」
シオンは指を折り、何度もうなずいた。
「これで五つになった」
「たくさん暮らしている証拠です」
シオンは笑って、それから迷うように両腕を伸ばし、わたしを抱きしめた。
「これは、ほかの方にもしますか」
「しない。リリアだけ」
布の中は狭く、シオンの声がすぐ近くで聞こえた。
◇
廊下を歩いていると、エドガーさまに呼び止められた。
シオンは先で立ち止まり、こちらを振り返る。
エドガーさまは、その姿を見ていた。
「あの子が、自分から客の輪へ入ったのは初めてだ」
「最初は、何をすればよいのかわからなかったようです」
「それでも、自分で考えて入っていった」
エドガーさまの目が、わたしへ戻る。
「お前と過ごすうちに、人と関わる楽しさを覚えたのだろう」
「わたしも、シオンに教えてもらっています」
「そうか」
エドガーさまは表情をゆるめた。
「この家に来てくれて、ありがとう」
胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
それしか言えなかった。
シオンのところへ駆け寄ると、すぐに尋ねられた。
「父上と、何を話していたの?」
「ありがとう、と言われました」
シオンは考えた。
「僕も言う」
「何をですか」
「来てくれて、ありがとう」
今度は、わたしも笑った。
◇
「リリアさま。グレゴールさまがお見えです」
侍女に呼ばれ、シオンと玄関広間へ向かった。
父はわたしを見つけると、目だけでこちらへ来るよう命じた。
「支度をしなさい、リリア」
「どこへ行くのですか」
「家へ戻る」
家。
その言葉を聞いても、父と暮らしていた屋敷は浮かばなかった。
浮かんだのは、椅子に布をかけて作った小さな家だった。
「どうしてですか」
父の眉が寄る。
「事情が変わった。こちらとの婚姻を解き、お前には別の縁へ移ってもらう」
「別の縁?」
「先方は、倍の支度金を約束してくださった。家長として当然の判断だ」
倍の支度金。
父はわたしを迎えに来たのではなかった。
もっと高く売り直すために、取りに来たのだ。
「行きません」
父の眉が上がった。
「何だと」
「わたしは、ここにいたいです」
「お前の希望を尋ねているのではない」
父が腕をつかもうとした。
シオンが、わたしの前へ出た。
「リリアに触らないでください」
「退きなさい」
「リリアは、ここに住んでいます」
父の目が冷たく細められる。
「これは両家の問題です。シオンさまが口を挟むことではありません」
「リリアは僕の妻です」
「子供同士の、形だけの婚姻でしょう」
「そこまでだ」
広間に、低い声が響いた。
エドガーさまが階段を下りてくる。
父は伸ばした手を引き、頭を下げた。
「これは失礼を。娘を迎えに参りました」
「迎えに?」
エドガーさまは、わたしとシオンを見た。
「私には、嫌がる子供を無理に連れ去ろうとしているように見えたが」
「親が娘の今後を決めるのは当然でしょう」
「その縁談の話なら、先日文で断った」
あの日、黙って畳まれた手紙を思い出す。
断りの文は、一枚だけ。
あれは、この話だったのだ。
「文で通らぬから、直接連れに来られたか」
「本人の父は私です」
「本人は、行かないと言っている」
「七歳の子供に決められることではありません」
エドガーさまは、わたしを見た。
「リリア。お前はどうしたい」
父の前で尋ねられたのは、初めてだった。
足が震えた。
シオンの肩が、わたしの肩へ触れる。
「この家では、好きなものは自分で言うことにしています」
父の眉間に皺が寄った。
「何の話だ」
「わたしは、この家が好きです」
声は震えた。
それでも、父から目をそらさなかった。
「大事なことは、二人で決めます」
シオンが隣でうなずく。
「リリアがどこにいたいか、僕も聞きました」
「子供の遊びを、家同士の話と同じにするな」
父の声が強くなる。
息を吸うと、喉の奥が痛んだ。
けれど、嫌だったことは黙らずに言うと、シオンと決めていた。
「父さまに連れていかれるのは、嫌です」
父の顔が固まった。
「お前は――」
「父さまは、この家を出されたら、帰るところはないと言いました」
わたしは、シオンの手を握った。
「だから、わたしは自分で帰るところを作りました。ここが、わたしの家です」
「僕も、リリアを追い出しません」
シオンが、わたしの手を握り返した。
「喧嘩をしても、追い出さないと決めました」
父の顔に怒りが浮かぶ。
「そんなものは、ごっこ遊びだ。連れ帰れば、すぐに忘れる」
「はい、ごっこです」
わたしが認めると、父の眉が動いた。
「わたしたちは、白い結婚ごっこと呼んでいます」
「自分でも遊びだとわかっているなら――」
「ごっこで決めたことを、ひとつずつ本当にしてきました」
シオンがうなずく。
「だから、忘れません」
「本人たちが、そう言っている」
エドガーさまの声が、父の言葉を遮った。
「子供の遊びだから、踏みにじってよいということにはならない」
「しかし、リリアは私の娘です」
「そして、あなたが署名した契約では、リリアの後見は成人まで私にある」
父の顔色が変わった。
玄関脇の卓。
赤い蝋。
成人までの後見と、違約の際は。
あの日に聞いた言葉が、ようやく一つにつながった。
「それは、この婚姻が我が家の利益になる間の話だ」
「書類に、そのような条件はない」
エドガーさまが目配せをすると、使用人が一枚の書類を運んできた。
赤い蝋の印が押された、あの日の契約書だった。
「代わりに、こう書いてある。そちらの都合で婚姻を解く場合、支度金は利子をつけて返していただく」
「そんな条項は聞いていない」
「あの日、最後まで読まれなくてよいのかと尋ねた」
エドガーさまは静かに続けた。
「金額に相違がなければ結構と答えたのは、あなただ」
父の口がわずかに開いた。
「読まなかった紙に、あなたは自分で名前を書いた」
「支度金は、もう……」
言いかけて、父は口をつぐんだ。
その先は、聞かなくてもわかった。
あの革の袋は、もう残っていないのだ。
だから、倍の支度金という言葉に飛びついた。
隣で、シオンがわたしの手を握り直した。
大丈夫、と言うように。
「返せないのであれば、契約は生きたままだ。後見は私にあり、あなたの都合で娘を連れ出す権利はない」
「事情が変わったのです」
「契約は、あなたの都合で娘を取り替えるためのものではない」
エドガーさまの目が冷たくなる。
「新しい縁談先には、こちらから事情を伝えよう。後見ごと娘を譲って支度金を受け取り、読んでもいない契約を破ろうとしたことも含めてな」
「それは、我が家の名誉に関わる」
「先に娘を袋一つと引き換えにしたのは、あなた自身だ」
父は何も言えなくなった。
使用人が、静かに扉を開いた。
「話は終わりだ。リリアは渡さない」
「後悔しますよ」
「しない」
返事には、少しの迷いもなかった。
「この子を迎えられてよかったと、すでに本人へ伝えてある」
父が出ていくまで、わたしはシオンの手を握っていた。
◇
扉が閉じても、しばらく足が動かなかった。
エドガーさまが、わたしの前へ来る。
「もう、帰る場所がないと思わなくていい」
わたしは顔を上げた。
「ここにいても、よいのですか」
「ああ」
「妻の役に、立てていないのに」
言葉が、勝手にこぼれた。
役に立たなければ、ここにいられない。
この家へ来た日から、ずっと胸の底にあった言葉だった。
エドガーさまは、ゆっくり膝を折り、わたしと目の高さを合わせた。
「この家は、役に立つ者が住むところではない」
「では、誰が住むのですか」
「帰ってくる者だ」
「シオンの妻だから、ですか」
「それだけではない」
エドガーさまは、はっきりと言った。
「お前がリリアだからだ」
胸の奥に残っていたものが、ゆっくりほどけていく。
「一つだけ、伺ってもよいですか」
「なんだ」
「あの契約は、どうして最初からあのように」
「初めから、あの男を信じていなかった」
エドガーさまは、迷わず答えた。
「シオンには、同じ年頃の相手が必要だった。だが、信じられない相手に子供の行き先を任せるわけにはいかない」
「だから、後見を」
「ああ。あの紙は、罠ではない」
エドガーさまは、わたしを見た。
「初めから、お前を守るための紙だ」
「今は、この家の子供として暮らしなさい。成人したあとも夫婦でいるかは、お前たちが自分で決めればいい」
隣にいたシオンが、慌てて口を開いた。
「僕は、リリアがいいです」
「今ではなく、大きくなってから言いなさい」
「大きくなっても同じです」
エドガーさまは小さく息を吐いた。
けれど、笑っていた。
「そのとき、もう一度本人に頼め」
シオンがわたしを見る。
「もう一度頼んでもいい?」
「大きくなってからです」
「忘れない?」
「忘れません」
答えると、シオンもようやく笑った。
そのあと、二人で小さな家へ戻った。
椅子にかけた布は、傾いていた。
シオンが屋根を直し、先に中へ入る。
「ここは、まだ僕たちの家?」
「はい」
「決まりも、まだ同じ?」
わたしは、指を折りながら数えた。
「好きなものは、自分で言います」
「大事なことは、二人で決める」
「嫌だったことは、黙らずに話します」
「喧嘩しても、追い出さない」
「帰ってきたら――」
シオンが、照れたように笑った。
「おかえり、リリア」
父に言われた言葉は、もう胸に刺さらなかった。
帰るところは、自分で作った。
「ただいま、シオン」
布の向こうで、夕食を知らせる鐘が鳴った。
けれど、もう少しだけ。
わたしたちは、二人の家にいた。
◇
それから、十年が経った。
わたしは十七になり、シオンは十八になった。
今夜、この屋敷では、シオンの成人を披露する舞踏会が開かれる。
広間の入り口で、正装のシオンが手を差し出した。
「一番に僕と踊って」
「十年前に、約束しました」
「覚えていてくれた?」
「忘れないと、約束しましたから」
手を取ると、もう片方の手が背中へ添えられた。
「近いです」
「僕も、そう思う」
そう言いながら、シオンは離れなかった。
曲が始まる。
大勢の視線の中で、一度だけ足がもつれかけた。
シオンの手に、力がこもる。
「下を見なくていいよ」
「では、どこを見ればよいのですか」
「僕を見て」
十年前と同じ答えに、思わず笑った。
顔を上げれば、怖いものは何もなかった。
曲が終わり、拍手が広間を包む。
シオンはわたしの手を握ったまま、広間を抜けた。
「どちらへ行くのですか」
「二人の家」
連れていかれたのは、あの日、雨の音を聞いた部屋だった。
部屋の真ん中に、椅子が二つ並んでいる。
その背には、見覚えのある布がかかっていた。
端の綻びが、丁寧に繕われている。
「片づけられたと思っていました」
「僕が頼んで、残してもらった」
シオンは布を持ち上げ、先に中へ入った。
正装の肩が、屋根につかえている。
「大きくなりましたね」
「家が小さくなったんだよ」
「同じことです」
わたしもドレスの裾を押さえ、中へ入った。
肩を寄せなければ、二人では入れなかった。
「おかえり、リリア」
「ただいま、シオン」
シオンは上着の内から、小さな箱を取り出した。
蓋を開けると、指輪が一つ、光っていた。
「大きくなったら、もう一度本人に頼めと言われたから」
シオンの耳が赤い。
「この家では、好きなものは自分で言う決まりでしょう」
「はい」
「僕は、リリアが好きです」
まっすぐな目が、わたしを見る。
「白い結婚ごっこは、今日で終わりにしたい。本当の夫婦になってください」
胸の奥が熱くなる。
七歳のわたしと、八歳のシオンが決めたことだ。
好きなものは、自分で言う。
「わたしも、シオンが好きです」
指輪をはめてもらう手が、少し震えた。
池の石を渡ったあの日、シオンにつかまった手と同じ手だった。
「ごっこは、終わりですか」
「うん」
シオンは、つないだ手を見て笑った。
「決まりは、全部このまま持っていく」
布の屋根の向こうから、広間の音楽がかすかに聞こえる。
戻らなければ、きっと誰かが探しに来る。
けれど、もう少しだけ。
わたしたちは、二人で作った家にいた。
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リリアとシオンが作った夫婦の決まりと帰る場所を楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけるとうれしいです。




