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泣き虫の私が泣く人のいない世界に行った話。追加で絶対泣かない女がこっちの世界に来た話。  作者: ヤマト


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4/15


「ミカ様ってば、ここにいたんだあ」


 殿下はひとりではなかった。同伴のピンク髪の令嬢、あの夜会にいた彼女だわ。その彼女が席に座るなり、甲高い声を上げた。


「ユン様あ、ミカ様こんなとこにいたわ?学園は休むしたまに来ても早退。んもう、心配したんですからねっ」


 ぷくっと膨れる頬が瑞々しい。ふわふわのピンクまつげに大きな丸い目で、隣に座るミカエル様を上目遣いで睨んでいる。可愛い……け、けど、さすがに「こんなとこ」はないんじゃないかな。一応ここ、侯爵邸よ?


「あっ!わかったっ!この人に何か脅されてる?脅されてここに軟禁されてるとか?ミカ様安心して、あたしとユン様で助けてあげるから!」


 この人って私を指さしたから、後ろに控えるケイトたちから怒りの気配が届く。ミカエル様はピンク令嬢のきらきらした視線をすっと避けると、落ち着いた動作でお茶を飲んだ。


「……」


「……」


 風もない中庭。丸いテーブルを囲む四席。私の隣にミカエル様、逆側にピンク令嬢、そして私の向かいに殿下。色味のないクロスの上には、フルーツと王室御用達の高級茶葉のポット、それからそれを淹れるために控える第二王子付きの侍従さん。

 殿下が同席する場面では、例え我が家でのお茶会であっても、すべて殿下付きの侍従のみ給仕を許される。

 いつも近くにいてくれるケイトは後ろへ、いつも周りを固めてくれる護衛はドンタルト公爵家の護衛含めさらに後方の位置取り。仕方ないことだけれど、心細い。


「……」

 それに、ユンゲー殿下がしゃべらない。


「……」


 私もそっとお茶を含み、音もなくカップを置いた。伏し目で揺れもしないお茶の水面をじっと見る。……殿下の声かけ、つまり会話開始の合図である最高位人物の第一声がないと次の会話に入れない。マナーというか貴族の常識ね。でもそれがない。向かいの殿下を直接見ることはせず、軽く伏したまま気配を探る。……黙って足を組み、お茶を飲んでるわ……無言……。


「あたしこの人にすっごくいじめられてたからあ、ミカ様の気持ちわかるよっ。怖くて言い出せないのよね?学園でも全然会えなかったのは、脅されてここに来るように命令されてたんでしょ。でもあたし、ミカ様にずっとずっとお礼言いたくて!会いたかったの!」


「……」


「あたしのためにい、ずっと徹夜で断罪資料揃えてくれて、あんなふうに夜会で堂々と断罪してくれて。嬉しかった、あたし。……そのためにこの人に目を付けられちゃったんだね。あたしのために、あたしを守るために、防波堤になってくれてるんだね。……ミカ様は、あたしがいつか王子妃になっても、ずっとずっとあたしの特別なヒトだよ?忘れないでね?」


「……」


 ピンク令嬢、ひとりしゃべり続けてる……。なんかすごい……。


 可愛く両手を胸の前で組んで、ピンクのまつげで上目遣い。華奢で庇護欲そそる幼児体型だからかお胸はあまりないはずなのに、肘を使ってお胸を寄せてる。え、すごい。谷間!?


 わ、私も試してみたい……コルセットつけてるはずなのに、どういうプロ技術?すごくない?いまのマリースの胸、ありえないほどバーンでむにゅりでパンっとしてるけど、これにもあのコルセット無視の肘技術は通用するのかしら。ちょっとだけ、ちょっと試すだけ……肘をみぞおちに埋めて二の腕をこう、


「ん、こほん」

 隣から小さな咳払い。


 ちらりと隣のミカエル様を見ると、目を伏せたまま、真っ赤になった首を微かに横に振られた。ですよね。ごめんなさい……。


 でも、でも、本当に間が持たなくて。会話もないテーブル、殿下の沈黙の圧、なのにピンクさんだけがしゃべってて……ま、間が。どうしたらいいの。


 微妙な雰囲気に耐え切れず、救いを求めるようにミカエル様を見つめる。この場で殿下の次の位は、公爵令息のミカエル様ですもの。彼しか頼れない。


 ぱちりと目が合うと、さっきよりもさらにミカエル様の首が赤くなった。


「そんな小動物のような目で、……んんっ。ん、ごほっ。……ええと、殿下。今日はなんの御用でこちらへ?」


 ミカエル様、さすが!ありがとうございます。

 が、内心喜んだのもつかの間、向かいからガチャ!と大きな茶器の音がして、無意識に体が固まる。

あり得ない乱雑さでカップを置いた殿下が、低い声で言った。


「……それはこちらのセリフだミカエル。お前こそ、なぜここにいる」


「わたしはマリース嬢に招かれて、ここでお茶会をしておりました」

 毎日来てるけどね。


 短い説明は、しかしなぜか殿下の気に障ったらしい。金髪をかき上げた指で、イライラとテーブルを叩く。綺麗にカールした金髪が乱れて碧色の目が鋭くなる。綺麗なお顔だけれど、吊り上がった目尻と歪んだ口にどうしても視線が行ってしまう私は、またそっと目線を外した。


「招かれて?俺は何も聞いていないが」


「なぜ殿下にお知らせせねばならないのかわかりませんね。父は知っておりますし、ハーマン侯爵にももちろん許可を得ております」


「お前一体どうした。俺の仕事を手伝う役目を忘れたか」


「役目?わたしは殿下の側近候補ではありません。単なる生徒会の一員としておそばにおりましたが、その生徒会ももう今年度行事はすべて終了。わたしは自分の役目に関して放棄しているものは一切ありません」


 ちょ、ミカエル様、どうしてそんなにつんけん言うのかしら。不敬にならない?あと側近候補じゃないのね、生徒会つながりだったのね。じゃあ、あの夜会のマリースの罪状をまとめるのは、単に押し付けられただけなのかも。それにしても背筋を伸ばして殿下を見返すミカエル様の、青く光る目がちょっと怖い。


 おどおどと見上げると、ふとミカエル様が視線を落としてこちらを見た。上がっていた眉が、一瞬で下がる。


 ふわりと青い目をたわませたミカエル様は、ほんの数秒、頬を緩めた。そして微かに頷く。

 大丈夫と言われたようで、ほっと胸に手を当てた私が息を吐く、その刹那。



「……だからなんだ!そのたびたびの目での合図は!!」


 バンッとテーブルが鳴る。

 私の体が跳ねた。



「何を考えているミカエル!この女に近づいてどういうつもりだ!この女はあのマリース・ハーマンだぞ!」


 揺れる茶器、こぼれるお湯。

 目の前がちかちかと点滅して、全身の血が足に向かって下がって行く。


 眩暈だ。

 いけない、耐えろ、だめだ私。耐えろ。


「聞いてるのか、おい!ふざけんなお前、いい加減にしろ!傍若無人で貴族平民関係なく人を人とも思わぬ、王家に歯向かい俺に歯向かいおのれの欲望のままに生きる悪魔だ!この女は悪魔で凶器で、……俺の婚約者だった女だ!」


 ざっと全身が冷たくなる。

 目の前が真っ暗になり、ぐるりぐるりとその空間が歪んだ。

 


 忘れていた。


 そうだ、この世界は私に優しくて、優しすぎて、忘れていた。

 脊髄反射が起こる。防御反応だ。怒鳴り声に瞬時に反応した、私の目の前にいるのは、いや違うあの人じゃないのに、私の、体を凍らせて、息が、息が詰まって、


「……っ」


 目の奥が熱い。痛い。

 眼球の表面にじゅわっと水の膜が張った。


「!」


「……!」


 下を向いて顔を伏せる。銀の髪が垂れて表情を隠してくれる中、私は必死に唇を噛んだ。震える指を握り込んで手のひらを爪で刺す。


 一瞬見えたユンゲー殿下の顔は、驚愕に染まっていた。怒鳴りつけた口の形のまま固まっていた。


 耐えろ、耐えろ耐えろ。ここで涙をこぼしたら、こぼしてしまったら、きっと、きっと…………!



 その時だった。


「やめてえふたりとも!あたしのために、争わないでえええ!!」


 ピンク令嬢が立ち上がり、両手を広げている。ピンと張った腕を果敢に殿下とミカエル様に向け、可愛らしいお顔をきりっと上げる。


「大好きなふたりがあたしのために争うなんて、あたし見てられない!ふたりそれぞれあたしのこと大切にしてくれてるのわかってるから、わかってるからね……!」


「……」


 中庭につかの間の沈黙が落ち、しかしピンク令嬢はものともせず動く。勢いをつけて、前のめりの体勢になっている殿下に飛び付いた。そう、飛び付いた。


「うわっ」


「ユン様あ!あたしを見て、あたしはここだよ?愛の勝者はあなたよ、安心して、あたしはユン様のもの。ユン様の女神はここだよおっ」


「わああっ」


 なぜかドラマチックに感極まったような雰囲気を醸し出すピンクさんもろとも、パラソルまで巻き込んで殿下は倒れた。なんか、アニメとかの最後の場面のやつ。元気でじゃじゃ馬なヒロインがヒーローに飛び付いて荒野の果てやお城や仲間の前でひっくり返ってごろごろってやつ。いやここうちの中庭。


「……」

 涙も引っ込んで呆然と見ていると、そっと何かが手に触れた。


「マリース嬢」

 優しい、飴を煮詰めて溶かしたような優しい声。


 横を見ると、いつの間にか膝をついたミカエル様が、私の椅子のすぐ隣で微笑んでいた。


「これをどうぞ」


 爪の食い込んだ手のひらを静かにほどいたのは、長くて硬いミカエル様の指。そして渡されたのは綺麗なハンカチだった。


「これで目元をさっと押さえてください。大丈夫、赤くもなっていませんよ」


 聞こえないほどの小声で素早くささやかれる。そうしてから、わざとらしく片目を細めた。


「でも残念ながら、このハンカチは差し上げることはできません。わたしの大切なものですから、返してくださいね」


「……これは」


 畳まれた布を広げて、一瞬目を見張る。光沢のあるシルク生地の端に、へたくそなクジャクが歪んだ羽を広げる図の刺繍。わたしがケイトやメイドたちに教わりながら刺したものだ。ずいぶん無様で奇妙な出来栄えで、お約束のハンカチはやはり買ったものにしますねと落ち込みながら伝えたら、ぜひその刺繍のものをくださいとせがまれたやつ。むしろそれしか受け取りませんと言われてしぶしぶ渡したのだ、つい先日。


「可愛らしい青いハリネズミのハンカチです。わたしの宝物ですから」


「……ふふ」


 思わず笑ってしまう。目尻に当てると、絹の柔らかな感触が沁みる。それが全身に行き渡るような錯覚が起こり、私は深く息を吐いた。


「クジャクです、ミカエル様。青いクジャクです。ミカエル様みたいに綺麗なの」


「クジャク……?」


 取り戻した手の中で、まじまじとハンカチを見つめている。吹き出す私を見ると、また溶けるように笑

った。


「では今度はぜひハリネズミを刺繍してみてください。それはクジャクに見えるかもしれません、検証してみましょう」


「ふふ、うふふ。はい。頑張ります」


 心底おかしくなって肩を揺らしてしまった。頬をなぜか赤らめて、でも穏やかに笑うミカエル様の向こうに、じっと立ったままのケイトやみんなが見えた。



 そうだ。ここはもう「向こうの世界」じゃない。


 私が泣いても、怒鳴られて眩暈を起こしても、眠れずやせ細っていっても、みんな見て見ぬふりをする「向こうの世界」ではないのだ。


 私にはわかる。さっき、もしあそこで……私が耐え切れずに涙をこぼしてしまっていたら、ケイトや護衛たちはこちらに走って来ただろう。

 きっと。いや、絶対。


 走り込んで私の周りを囲み、殿下の前でも構わず私を守ってくれただろう。それが罰を受ける行為でも。下働きが殿下の前に立ち主人を隠し、あまつさえ帯剣した者まで周囲を固めて視線を排除する。個人が罰を受けるだけでなく、このハーマン家にもなんらかのお咎めがあるはず。それでもきっと彼らは来ていた。私のところに。


 あの世界とは違うのだ。私が泣こうが倒れようが何も変わらなかった向こうではない。私の大事な人たちが、泣けば守ってくれる人たちがいる。


 だから私はここで闇に囚われちゃ駄目だ。

 私、この世界が好きだもの。


「……よく頑張りました。マリース嬢」


 ミカエル様の消えるような静かな声に、それは刺繍のこと?それとも別のこと?と尋ねようとして止める。


 もう一度深呼吸して、座ったままの姿勢を正す。糸のような銀髪は日に反射してきらめいているだろう。背後遠くのケイトたちの気配が、ふっと軽くなるのがわかった。


 うん、頑張るからね。私。


 内心呟いて、それから……ふと、ついでのように向こうの世界を思い出した。ひとりだけいたな……見て見ぬふりじゃない人。あと、面白い人もいたなあ。なんか、短い期間なのにもう懐かしく感じるし、急速に褪せて行くように記憶があいまいだわ。


 不思議。


「……」


 目を一度だけ閉じ、すぐ開ける。


 空気が不意に変わる。

 背骨に棒を入れたように、優雅に気高く、品に溢れた座り姿。炎色の瞳は伏せ気味で紅茶のように揺らめき、銀の糸と相まって華やかさに清廉と高潔が加わる。


 場の雰囲気が再形成されたのを感じ取り、殿下の侍従がお茶を淹れ直した。



「ミカ様あ!あたしという人間は一人しかいないのごめんね!でもあたしを諦めないでいてくれてありがとおっ」


 どどどっと今度はミカエル様の方へ突進してくるピンク令嬢。それをすいっとかわすと優雅に椅子に座り直し、ミカエル様は口だけでにっこり微笑んだ。


「おふたりとも、地に転がっていてはお茶も飲めないでしょう。座ってはいかがですか」


「……ああ」


 また怒り出すと思ったが、ユンゲー殿下は意外にも素直に従った。服を払って、椅子を引いた侍従に促され腰を下ろす。


 そしてなぜか、正面に視線を据えた。


「……」


 なに。私をじっと見て来るんだけど。しかも無言。


 しかも、なんか……顔がうっすら上気してる……あと、息がわずかに荒い。金色のまつげの下の碧色の目が、ちょっとぎらぎら……してる。


 え、なに。私どこかおかしい?


「殿下」


 表面上見せないけど内心動揺する私を制するように、ミカエル様が鋭く声を上げる。聞いたことのないほど尖ったそれにびっくりして瞬きをしてしまった。


「……さきほどご自身がおっしゃったように、マリース嬢は元、婚約者です。元。元です。いまはもうあなたの婚約者ではなく、ひとりの侯爵令嬢です」


 元、を異様に強調して冷たい口調は続く。


「その侯爵令嬢の邸に先触れもなく訪問し、大声で怒鳴り騒ぐ。例えわたしに向けての叱責であっても、この邸の主に対し礼を欠いた姿勢と言わざるを得ません。しかもマナーのなっていない同伴者までいる。ご自身の立場を顧みていただきたい」


「ええーミカ様あ。侍従さんはそりゃ少しはマナーがおかしいかもしれないけど、努力してるんだよ?許してあげて?」


「王族という立場をお忘れなきようお願いします殿下」


「……ああ。承知した」

 不可思議なほどおとなしく殿下は返事をする。


 殿下の侍従さん、動揺してポットの蓋ずらしちゃってる。私はさりげなく片腕を伸ばし、蓋を直そうとして、


「……なんだマリース」


「い、え」


 私から目を離さない殿下と視線が合ってしまった。


「……茶器を、直そうと。失礼いたしました」


 大丈夫、私はもう震えない。即座に目を伏せ、カップを持ち上げる。なぜか、唐突に静かになった殿下は、明らかに抑揚を無理に抑えたような声で続けた。


「……以前。いままで無礼ばかりしてすみませんでした、握手で仲直りしましょうと手を差し出したこと

があったな。お前から」


「殿下。呼び捨てやお前呼びは」


「黙れミカエル。いま俺はマリースに話している」


 ミカエル様から静かな怒りの気配が伝わる。殿下はそれを無視して、私だけを睨むように、探るように、じっと見てくる。


 唐突に思い出した。


 マリースはこの殿下のことを、「金色の石膏に潜んだ爬虫類」と言っていた。

 優雅で綺麗な石膏を割ると、中から現れるのは何を考えているのかわからない縦に伸びた瞳孔……



「とうとう反省したかと俺が手を出した瞬間、お前の袖から毒蛇が出て来た」


「……」


 知ってるわそれ。

 毒蛇の最終的な始末を料理長に頼んでいたわよね。「毒抜きして美味しくして」って。ひどい。


「殿下の成績の一助になればと、テスト中後ろに座って答案のミスを教えて差し上げますと言って。異様に尖った切っ先のダーツを投げてきたこともあったな」


「……」


 あれ殿下だったんだ。この場じゃなきゃ顔を覆いたい。


「満足か、マリース」


 殿下はゆっくりと低く呟き、目を離さないまま、足を組んで片頬を上げた。


「マリースは悪魔の化身で、俺は振り回され悩める第二王子だった。婚約以来ずっと。それがどうだ、あの夜会から、信じられないほどの大逆転だ。貴族どもは揃って侯爵家伺いをし、寄ればお前の……な、な、涙に、ついて……うっとりしながら話している。果ては、お前の演技だったと。すべて。悪魔の所業は婚約を破棄させるための演技で、目論見が達成したあの瞬間に感動のあまり……な、な、泣いた、と。逆に俺はどうだ。実は裏でマリースを虐げていたのではないかと。嫌がるお前を悪役に仕立て上げて評判を保っていたのではないか、あの第二王子は。などと。あの、な、な、泣き顔は……それらの鎖から解き放たれた、純粋無垢な喜びではないか、と」


 鼻を鳴らし、綺麗な顔立ちが歪む。


「満足だろうな、マリース。まんまと騙されて間抜けにも手を伸ばしたところを毒蛇に襲わせるように。教えてくれるなんて健気なところもあるじゃないかと期待した瞬間、袖口ぎりぎりにダーツを刺すように。……目論見通り、完全に大逆転だ。今まで積み重ねた悪事を、あの一発で、あの一瞬で、魅了という器へと入れ替えた。鮮やかなものだ。たいした奇術だな、マリース」


「……いいえ殿下。そのようなことは」


「その言い方も。おかしいだろ、マリース。いや、もうみんなおかしいか。周りの者ども全員、魅了されておかしくなっている。お前が実は美しく清らかで……などと、奇怪で奇妙な噂を口にする貴族どもの多いこと。みんな頭がおかしい、みんな狂っている。集団催眠の初期段階かもしれないな。……俺は、王族として、この不穏で不可解な状況に対応しなければならないな」


 金髪が風に翻る。


 碧の目が半円を描き、思わず視線を上げてしまった私の背筋がぞっとした。

相変わらず静かに、抑揚のないまま殿下は言った。


「お前を調べることにしよう、マリース。連行だ。俺の権限で王宮に連行し、俺の手でお前を」


「殿下!あなたは何を!」


 ミカエル様の激しく鋭い怒りの声。背後のケイトたちの空気も、煮詰まったようにぐらぐら揺れている。


「……」


 私は一度、口の中で奥歯を噛み締める。腹の淵によし、と気合を入れて、敢然と顔を上げた。


「権限?一体どちらの、何という権限ですか?殿下」


 マリース、あなたのようにはいかないけど。

 でも私、頑張ると決めたのよ。


「私は、もう婚約者ではありません。殿下がそうお決めになったではありませんか。無関係の単なる一貴族の一令嬢を、どの権限で連行するとおっしゃるのですか。我が侯爵家に何か含みがございますか?破棄を申し出たのはそちらでしょうに」


 お父様は大臣で、財務官僚の長。領地や家内事業の収益力が高く、「賄賂や裏金等のはした金に手を出す理由もないほどの財力を持つ貴族」が受け持つ地位を、任期を越えて拝命している方だ。つまり我が家は資金力が国内有数。問題の多い……問題しかない令嬢が第二殿下の婚約者に選ばれたのにはそれなりのわけがある。


「委細不明の曖昧な理由で私を連行した瞬間に、殿下の言う「殿下の権限」はすべて消滅するでしょう」


 声は思った通りに出ているが、テーブル下の自分の手は小刻みに震えている。そこへ、クロスに隠れて潜り抜けるように何かが触れた。



 あ、ミカエル様の指。



「……あまりご無体な発言はお控えくださいませ。ここは我が邸の庭です」


 親の指一本を、すべての指でぎゅっと握る幼い子供のようになってしまった。でも、おかげで最後まで言い切れたわ。



「……ちっ」



 殿下、舌打ちした。


 さすがにまずい状況だと思ったのか、できる侍従が「殿下、令嬢の言う通りです」と駄目押しでささやく。


「…………失礼した。茶会を続けよう」


 まったく悪いとは思っていない言い方で、しかし殿下はいまの会話を打ち切る言を発した。自分の発言は公的なものではなく、訂正した上で無かったものとする、という意味だ。


 ほっと息を吐き、……たいけれど決してそれはせず、何事もなかったかのように姿勢は保ったまま。聞いた言葉は霧散したと態度で示すためにぴくりとも動かず、私はまた顔を伏せた。



 握った長い指を離すと、褒めるように一度だけ、すりっと手首を撫でられた。そのまま元の位置に戻る指の形を想像しながら、私の手のひら汗ばんでなかったかしらとおかしな心配をした。







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