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泣き虫の私が泣く人のいない世界に行った話。追加で絶対泣かない女がこっちの世界に来た話。  作者: ヤマト


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「マリィ。後で呼ぶのでお待ちくださいとあれほど」


「いいえミカエル様、ミカエル様だけがお叱りを受けるのはやはり私は耐えられません」


 私は床に膝をつくミカエル様から向き直り、かの名高い宰相夫人、オーブリー様に最上級の礼をした。灰褐色の目に高く結い上げた灰褐色の髪。厳めしく整った人形のような、完璧でひとつの乱れもない姿勢。優雅に揺れる扇の、その迫力。


「お初にお目にかかります、宰相夫人。ハーマン侯爵家長女マリースにございます」


 私は社交界に出たことがない。過去のあれやこれやで、社交自体一切の関りがなかった。社交界に出たいと思ったことすらなかった。すごいわ、過去の私。


 でも、宰相夫人がこの国の社交界のトップだということは知っている。


「お目汚しになりますこと、ご容赦くださいませ。何卒」


「……噂通り、お美しい方だこと」


 扇で顔の下半分を覆う夫人の表情はまったく読めない。しかし私は、震えそうになる足を踏ん張って必死に言い募った。


「ご、ご挨拶したく公爵邸に伺いましたところ、夫人が帰着されたと聞き、誠にか、勝手ながら……あの」


「……」


 いえ真っ白。真っ白だわ私の頭。え、どうしよう。空気が重い。


 夫人の灰褐色の目が瞬きするたびに、夫人の扇が揺れるたびに、描いていた能書きが、どんどん、消えて……えと、何をお伝えしたかったかというと、



 あ、そうだわ。



「み、ミカエル様を私にくださいっ!」



「……」


「……」


 はっ。私なんて失礼なことを。


「あ、いえ、違います、大変失礼いたしました。緊張で私、なんという粗相を。くださいなんて、ひどい誤りの言葉でございます申し訳ありません、言い直しさせていただきます。改めまして貴公爵家の財にして至宝であるご次男ミカエル様をいただきたく参りました、幸せにいたします、我が家に連なる者余すことなく全員、お譲り受けたこの宝玉をお守りいたします必ずお誓い申し上げますのでどうかいただけませんでしょうか」


「……」


「……宝玉」


「マリィ、ちょ、」


「ミカエル様は知将にて勇猛果敢。千手先を読む智謀もさることながら、どんな危機的状況にも惑わない理知も素晴らしいのです、あの夜もそうでした。四方八方から護衛が集まり通路の果てに追われる状況でミカエル様は、私を布で隠して優しく抱き上げたまま足元にあった台車を蹴って、もちろん私を抱える腕は揺らさないのです、怖くないですよってお顔はにこにこしたままで」


「マリィ、そこまで」


 握った拳を押さえられ、ふとミカエル様を見下ろす。


 ミカエル様はなぜか真っ赤になって、何度も首を横に振っていた。


「マリィ、少し黙っていましょう。ね。ここはわたしが」


「お黙りミカエル」


 引き裂くように鋭く言ったのは夫人。夫人は扇をゆったりと振って、私を見て……にっこり?お笑いになった?


「お続けになって、マリース様」


「母上、」


「ミカエルはうるさい。さあ、マリース様」


「あ、は、はい。では。……それで、揺れる馬車の中でも決して離さず、ずっと私を抱っこで支えて下さって。可愛い可愛いと、髪もお化粧も乱れた私に何度も言って下さる究極のお優しさも兼ね備えた方で」


「まあ」


 夫人の横に立つヴェロニカ様が頬に手を当てる。ミカエル様は片手で顔を隠し、「ここが地獄かと思ったが……まだ先に真の地獄があったか……」と小さく言った。


「公爵邸に逃げ込んだ際も、それはそれは頼もしくみなに差配なさって。私を抱き上げたまま」


「へえ」

 目と眉が同じ形にたわんだ夫人。


「夜道の散歩もそれは楽しくございました。手を握ってくださって、やっぱり可愛いとおっしゃって」


「まあ」


「民家に隠れ入っても私は微塵の不安もございませんでした。ミカエル様は私の姿絵刺繍を隠れて注文されていて」


「へえ」


「民家の一階でタライを使って湯あみさせていただいた時も」


「マリィ」

 かぱっと口を塞がれた。


 いつの間に立ち上がったのか、私の背後に回ったミカエル様が大きな手で私の口を押えている。お顔が、発熱かと思うほど真っ赤だわ。ついでに開けっ放しの扉の向こうでは、兄ハルバード様が両手で顔を覆っていた。



「……よろしい。よくわかりました」


 夫人は私たちを見て、一度だけ頷いた。迫力と威厳を込めた深い声で。



「マリース様。ドンタルト公爵家は、ハーマン侯爵家のますますの発展を心より祈りましょう。ミカエル、励みなさい」


「は」

 軽く頭を下げたミカエル様に習って、口を塞さがれたまま私も下げる。



「幸せになりなさい」



 なんだか急に、胸が締め付けられる心地になった。

 どんなに厳しくとも、やっぱりミカエル様のお母上なのだわ……。


「……んむ」


 あ、だめ。と思った瞬間に、目にじわっと涙の膜が張る。当てられた手を握って逆にぎゅっと口に押し当てる。気づいたミカエル様がとっさに空いている手でハンカチを差し出してくれるが、一瞬遅かった。


「……うっく」


 ぽろりと落ちる涙に、慌ててハンカチを受け取った。美味しそうなチーズですねと言われた『脱いだばかりのブーツ』の刺繍、もちろん私作の、シルクの生地にすっと涙が吸い取られた。


「……」


「……うっく」


 静まり返る部屋。


 なんという失態。恐ろしくて夫人のお顔が見られない。



「……マリース様。お茶をいただきましょうか」


 不思議なほど優しく、後にハルバード様が「わたしはあんな優しい声を一度たりとて聞いたことがない。おそらく今後も」と言わしめたほど優しく、ヴェロニカ様が言って下さる。私はハンカチで情けない顔を隠して素直に頷いた。


「はい。ぐすっ。ヴェロニカ姉さま」


「……んん、ごほん。ええ、マリース様のお茶を、だれぞ」


 さっと赤みが差した頬でヴェロニカ様がメイドに言う。それを横目に、夫人がなぜか無表情で尋ねた。


「ヴェロニカ様。姉さまというのは?」


「は。義理といえど姉妹になるのですもの、さきほどお会いした時にこちらから申し出ました」

 有能な従者のように胸に手を当て、きびきび答えるヴェロニカ様。


 そう、社交界をまったく知らない私に、お優しいヴェロニカ様は教えて下さったのだ。お姉さま呼びが通例ですよ、と。まだ夫人が帰着する前、会ったばかりの場面で。ミカエル様もハルバード様もおかしなお顔をしていたけれど、私はしかと心に刻んだ。妻としてこれからは、社交も必要ですもの。


「なるほど。よい心がけです。よろしい」

 ひとつ頷き、宰相夫人は灰褐色の目を私に向けた。


「ではわたくしのこともお呼びなさい、おかあさまと」


「え」


 隣でミカエル様がすごいお顔している。私は迷った。いいのかしら、これ。

 

 ……しかし、ここは社交界トップの夫人のお部屋。無知な私の社交界の第一歩!従うのみだ。


「はい、ひっく。おかあしゃま」

 噛んだ。


「……んんんっ」

 ぶるぶるっと夫人の扇が震えた。


 直滑降かと思うほど眉尻が下がり、わずかに耳が赤くなっている。しかし伸びた背中は変わらずぴしりと整い、隙はない。


「よろしい。ヴェロニカ様も同じように。では三人で今からお茶をしましょう、さきほどのお話の続きも聞きたく思います」


「御意。お母様」


「ぐす、はいっおかあさまっ」


「よろしい。よろしいわ、ふたりとも。……わたくしね、ずっと心のこりでした。わたくしの子育ての失敗が」


 夫人はひらりと扇をあおぐ。


「長男は生真面目で頭の固い、面白みの欠片もない男。金儲けしか興味のない次男は女性をくどくこともできない愚鈍。忸怩たる思いでいままでいたのだけれど……妻となる女性を選ぶ目だけは王国一です。あなたたち、よい仕事をしました。褒めてあげましょう」


「……恐れ入ります」「……恐れ入ります……」

 扉の向こうでハルバード様、そしてすぐ隣のミカエル様が、うなだれながら小さく言った。


「ではミカエル、あなたは外に出て。さあふたりとも、ヴェロニカ、マリース。いらっしゃい」


「御意」


「はいっ」


「ちょ、いえ、母上。あの、マリィはこちらに返していただかないと」


 慌てるミカエル様を、夫人は冷たく一瞥した。


「ミカエル、あなたは自分の荷物でもまとめていなさい。ハルバードにでも手伝ってもらって。侯爵邸に移るのでしょう?……あ、でも、まだです。そうです、まだそれはなりません。王族にも負けない、豪華絢爛な結婚お披露目会を開きなさい。初手の最悪な一連の結婚事情を覆すのです。これは命令です。すべて一流のものであつらえなさい、マリースの身の回りの物すべてです。……当初の順では、どこぞの家の愚図王太子の婚約式、そして次が我が家嫡男の婚姻式でした。しかしそこにあなたが割り込んだのです。さあ、目にものを見せておやりなさい、ミカエル。あそこの家のあほ王太子の婚約式にわずかでも見劣りしてみなさい、ドンタルト公爵家にまつわるすべての者が生涯にわたりあなたを笑いましょう。早速準備を始めなさい。お披露目会が成功に終わるまで、居を移すことはわたくしが許しません。もちろん、マリースに指一本触れることも許しません」


「そんなっ!」

 珍しいミカエル様の悲鳴。


 鮮やかにそれを無視して、夫人はミカエル様をハルバード様のところへ追いやった。振り向いて、灰褐色の目がたわむ。


「さあ楽しくおしゃべりしましょう」


「は。お母様」


「はい、おかあさま、ぐすっ」


「……よろしい!」

 



 こうしてあの騒動は終わった。その後、猛烈な「うちの嫁たち自慢旋風」が社交界に吹き荒れるのだけど、それはまた別のお話。


 そしてさらなるその後の追記で、


 この公爵邸での、自分の妻を含む一連の話の流れをいたく気に入った宰相様が、お酒の席で肴として陛下に語った。


 それをいたくいたく気に入った陛下は、自戒も込めて訪れた国賓や他国の王族に酒のつまみとして語った。


 その中の王族のひとりが興味を持ち、私のところへやって来てまた大騒ぎになるのも別のお話。








本編完結です。

そして明日夜から番外編、「ミカエル様の裏側編」を

あげていきます。よろしくお願いします。


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