16(?)
二階の一番端の、長く使用してなかった空き部屋の、さらにその隣の小部屋。おそらく元は、ただの収納部屋だったところだ。そこにつけた南京錠を外し、わたくしは中に入った。
カーテンの下りた暗闇の中、燭台のすべてに炎を灯し、贄が揃っているか確認する。部屋の真ん中には祭壇があった。贄を順番通りに祭壇に飾ると、呪いを描いた垂れ幕を四方に広げる。聖水に毒蛇から抽出した猛毒を流し込み、様々な生き物の血を床に撒いてから、毒水に浸したチョークでそこに魔法陣を完成させた。
左手に「絶対に成功する!悪魔召喚の儀式」という古書を。その上に右手を。
「さあ、来なさい!」
……。
「いでよ、悪魔!」
……。
来ないわ。悪魔が。出てこない。
「……時間がないと言うのに。あのインチキ古物商め、引き廻しの上滅多打ちにしてやるわ」
古書を高値で売りつけて逃げて行った古物商を思い浮かべる。これで必ず悪魔を呼べるはずだと恐怖を浮かべた顔で言っていた。おのれ、わたくしを騙すとは。
「……時間がないのよ、どうにかしなければ……悪魔をどうにか呼び出して……」
わたくしのマリが。限界を迎えつつあるマリの命が、灯を消してしまう。
「悪魔を、」
「おるぞ」
振り返ると、祭壇に捧げられたカエルがこちらを見ていた。
「なにお前。贄にしたカエルじゃないの。生きていたのね。お前が生きているから召喚術が完成しなかったのかも。では早速お前を」
「待て」
子犬ほどの大きさの巨大カエルは、皮膚のぶつぶつを大きく波立たせた。
「いや待て。そうじゃない。まずわしはただのカエルじゃない、悪魔の眷属じゃ」
そして、と濁っただみ声でゲロと鳴いた。
「おるだろう、悪魔。そこに」
わたくしはキョロリと周りを見た。誰もいないわ。くそカエル。
「召喚したのに出てこなかったわ。やはりお前がのうのうと生きているから」
「じゃから、呼び出さんでもそこにおるから。ぬしが」
「は?わたくし?」
「応。召喚せずともすでにぬしがおる」
「……なるほど?」
なるほど。
なるほどなるほど。
悪魔はすでにここにいる。だから召喚しても悪魔は来ない。なるほど。
「……わたくしが悪魔だと。ほほほほほほ」
わたくしはおかしくて笑った。なんだ、早く気づけばよかったわ。
「悪魔のぬしは、何がしたいのじゃ」
「存在のすり替えを。悪魔の得意技でしょう。世界の違うとある人間の存在を、すり替えてしまいたいの。わたくしが成り代わるのよ、その人間に」
「ほお、別の人間の人生を無理やり乗っ取るのか。さすがあくどい」
「ほほほほ。その哀れな人間には、わたくしの存在でも与えてやるわ。このくそつまらない人生を」
「存在のすり替えをすると、理が正常に戻ろうとするぞ。時間とともに元の自分を忘れ、成り代わった先の別の人生が自分の記憶となり、交換した相手のこともすべて心から消失するぞ」
「……まあ、ほほほほほ。のぞむところだわ」
「周りも、そのようになるぞ。理が戻るのだ、周りも巻き込んで。周りもすべて、元の存在を忘れ、新たにすり替わった存在を受け入れる」
「いいわ。別に」
「後悔しないか。すべて失くす、元の自分を、元の世界を、そしてすり替えた相手のことも」
「しないわ」
しないわ。
生きて笑っていてくれるだけでいいもの。
「では早速すり替え術を……ああ、そうじゃ。悪魔よ、お前の身近に天使はおるか?」
「天使?」
「ああ。天使。の、ような者。人を虐げず、人を羨まず、人を尊び、人を癒す。悪魔のような者の近くには、たいていそういう者がある。惹かれ合うのじゃな。悪魔は人に恐れられ、天使は人が奪い合う。そのふたつが近くにいるのじゃ。古来より不可思議な現象としてまれにあるから、わしも興味がある」
「ああ。いるわよ」
カエルは嬉しそうに飛び上がった。
「そうか。やっぱりおるか。面白いの、面白いの」
「そう?どうでもいいわ」
わたくしは銀の長い髪を払って背を伸ばした。術を施さなければ。
「……すり替えたら。交換したら」
足元が光る。真っ黒な闇が手の形に伸びてわたくしを包む。カエルが示す通りの呪文を唱えながら、わたくしはにやりと笑った。
「……天使、のようなあの子を、奪い合えばいいわ。愚民ども。血で血を洗う争いを、あの子を……マリを手に入れるために。必死になれ。愛を乞え。マリに、わたくしの唯一に、愛される喜びを教えられる者だけが、マリを手にする」
ああそうだ。呪いをかけておこう。
「最初にマリにいたわりの言葉をかけた者にそのチャンスを」
ごうっとどこかで風が鳴った。全身の骨が曲がる。闇が降って来た。
「なんじゃ。呪いではないぞ、それは。祝福ではないか」
遠くでカエルの濁った呆れ声がした。
ひかりあれひかりあれ、ひかりあれ。
光りませ。
わたくしの、愛の名のもとに。
愛の名のもとに。
悪魔




