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ガランとした一階から狭い階段を上がると、二階には小さな部屋がふたつあった。
作業部屋と言われた方にミカエル様がランプを持って入って行く。外から見える窓際近くに灯りを置くためだろう。私は一回り小さなランプに火種をもらい、もうひとつの部屋を覗いてみる。
「わ」
何もない部屋の真ん中に、小さなベッド。そのベッドに敷かれた真新しいシーツが……
「わ、あ、あ」
言葉にならなくて、泣きながらシーツに触れる。
全面に繊細で優美な刺繍が散りばめられていた。
美しい銀のバラと銀の蔦、そこにたわむれる赤銀色の小鳥、小鳥の銜える枝には朝露の雫。指が滑るたびに精緻な糸の重なりを感じて、心が震えるような心地だった。
「ミカエル様、ミカエル様」
見て、見て下さいな。早く伝えたくて作業部屋に飛び込むと、青い髪の優しい人はぱっと背中に何かを隠した。
「ミカエル様。やはり先生は国宝級の天才です。とても素晴らしいお祝いのお品をくださいました」
「それはよかったです。さあマリィ、下で埃を落としましょうね」
「ミカエル様」
「…………前々から言おうか迷っていたのですが、そういうお顔でわたしを見上げるのは少しずるいと思うのです……」
しばし見つめ合った後、ミカエル様はため息を吐いて背中のものを見せてくれた。
「……これは……」
息を止めてまじまじと見つめる。
それは、パラソルの下で銀色の髪の女性が笑う、驚くほど写実的で美しい刺繍絵図だった。
「……先生が受注した、三枚目の刺繍絵図って……」
「はい、わたしが注文しました。内緒だったのですが……」
こっそり執務室にでも飾っておこうかと思ったのです、いつでもマリィを眺めていられるように。照れているのか呟くように言った後、私の頭をきゅっと抱き締める。そして頭上にまた小さなため息。
「しかし、想像以上でした。私もいま初めてここで作成途中であろうこれを見つけたのですが……マリィの言う通りですね。天才です。これは人気が出るでしょう。そしてわたしはうかうか執務室なんかに飾っていられなくなりました、これを見た有象無象がまたあなたに夢中になる」
日差しが女性の額に、目に、口角に、優しい影を作っていて、糸の重なりでぼやかされてはっきりしない。それでも穏やかに朗らかに、そして美しい笑顔を浮かべていることがわかる。青く澄んだ空、目に沁みる芝生のきらめき、透き通るグラスに心地よい食器の音。甘い香りに清らかで無邪気な笑い声が交差して、中庭のお茶会のひとときが、描かれていないそれらのものすべてが生き生きと写し取られたような……糸の魅力の限界を鮮やかに超える、心を揺さぶる刺繍絵図だった。
……私は、ミカエル様の綺麗な青い目に、こんな風に映っていたのね。
こんなに笑っていたの。私。きらきらしてる。
私、笑っているわ。
ねえ…………
だれに話しかけたのかしら、私。
「……」
心臓がぐっと握られた感覚に涙を堪え切れない。目の前の胸に顔を押し当て、思い切り深呼吸した。
「……三枚目も私が注文しようとしていましたのに。厨房に飾るやつです。クッキーの型の絵」
「……彼女、依頼をした時とても喜んでましたよ。ようやくまともな図案が刺せるって」
「お肉は諦めましたのに」
「お肉はマリィ、あなたが刺してみたらどうでしょうか。わたしも非常に気になります」
「私の腕では肉肉しさが表現できないのです」
「肉肉しさ」
真面目な顔で私を抱き上げたミカエル様は、そのまま私にそっと口付けをした。
「…………目が、壊れてしまいました、私。ひっく。今夜はもう、このままで、泣いたままでいいですか。ミカエル様」
「もちろん。涙というものは本当に塩辛いものなのだとわたしも新しい学びができました。……泣き止むまで、いえ、泣き止んでも一緒にいましょう。マリィ」
幸せだということを知らせたい人が確かにいたはずなのに、思い浮かべることすらできなかった。
それを悼んでいるかのように、きらめく宝石のごとく涙は転がり落ちて行った。
一階の簡易厨房のようなスペースに巨大なタライを置いて、お湯で満たす。素っ裸でタオルだけ巻いた私をその中に座らせて、ミカエル様は丁寧に髪を流してくれた。
「幼い頃、邸の庭に子犬が迷い込んできまして、メイドたちと一緒に洗ってやったのを思い出します」
「……子犬……」
深夜の街はとても静かだった。だから会話もおのずとささやきになる。
湯を優しくかけられ、背や顔も拭かれる。首の傷に薬も塗られた。温さが皮膚に沁みて、疲れに強張った体がふやけて行く気分になる。と、背後でふっと笑う気配がした。
「……すみません、思い出し笑いです。……マリィ、あなたはいつも好奇心旺盛で、ふ、ふふっ。あの男爵令嬢の仕草を見て、真似しようとこっそり……わたしに見つかると、とっさにとぼけましたよね?」
ダマヤ様の、あの肘を使ったすごいお胸の増量技術。確か、肘をこう、みぞおちに……ぐっと内側に交差させるように……だったかしら。
ミカエル様は諭すようにゆっくりと私を撫でながら言った。
「でもですね、マリィ。あれは人前では絶対やっては駄目です。絶対です。いいですね?ここで一度試してみましょうか、そんなにやってみたいならば」
「え、いいのですか?」
「それで満足したら、もう二度とやらないようにし………………っいやいやいやいやいや!いえ、すみません!間違えました、だめです!ちょ、だめです!マリィ!」
え、だめなの?いいって言ったのに?
「すみませんっ、いや本当にだめだこれはだめだわたしのミスだ!破壊力がまず過ぎる!思い切り間違えた!マリィ!」
ささやきどころか悲鳴とともに頭からがばっと大判のタオルが降ってくる。そのままぐるぐると巻かれてタライから出された。私、今日は布に巻かれてばかりだわ。
「タオルで押さえてるのにあんな……じゃなくて!いえ!もう終わり、終わりですこれは!もう二度としない!絶対に!いいですねマリィ!あなたにこれは必要ないし、あの男爵令嬢が何をしてもあなたは真似しない、ね!!」
どたどたと二階に上がり、ベッドにぽいってされる。
「ミカエル様、順番こで次は私があなたを洗ってあげるつもりなのですが」
「マリィ」
ミカエル様は珍しく怖いお顔をした。
「もうこれ以上は本当にまずいのです。理性にも限界があるのです、わたしも。自分でさっと体を拭いてくるので、あなたはここでごろごろしていてください」
ごろごろです!と言い置いて、ミカエル様は素早く階下へと行ってしまった。
結論から言うと、私たちは無事に結婚した。
さすがケイトと言うべきか、渡された麻袋の中身(薬以外)は色々な意味での気配りの品々だったらしく、ミカエル様はそれを余すことなく使って私にできる限りの負担をかけなかった。
というか、こちらが心配になるほど優しく、優しく、とにかく始終優しく気を遣ってくれた。
あまりにも優しすぎるので「ミカエル様、無理していませんか」と言うと、「無理くらいさせてください」と耳の深いところでささやかれた。
「逃亡劇の末の馬車、下町の民家、タライで湯あみして小さなベッド。不満をひとつも言わないあなたが愛しくて仕方ないのです。マリィ、外でわたしに聞きましたね、怖くないのかと。わたしは、あなたに触れる時だけ緊張します。あなたに嫌われることだけが怖い。きっとこれからも、永遠にそう思うでしょう。マリィ。わたしの愛」
小さなランプひとつだけの闇の中で、青く透明な湖に似た目がたわむ。
私は胸がいっぱいになって、シーツに沈んでいた腕を精一杯伸ばした。
近づいてくれた首にしがみつく。言葉にならない想いをどうにかして伝えたくて、いつの間にか止まっていた涙の代わりに必死に唇を動かした。
「ミカエル様大好き。結婚してください」
ミカエル様は真っ赤になって、そのままお顔を私の胸に埋めて動かなくなった。
「……いましてるところです……」
小さな声が聞こえたのだった。




