13
ケイトからの麻袋を覗き込んでいたミカエル様は、「蹴られないよう細心の注意を払わねば」と頷いて、それからまたカーテンに私を包んで荷物のようにぎゅっと懐に抱いた。馬車はさっきまで乗っていた馬車よりもさらに激しく揺れ、きしみながら小門を抜けて夜の通りに向かう。ひとつ向こうの大通りを何頭もの馬が公爵邸へと駆け抜けて行くのがわかる。こちらの細い通りは馬どころか猫一匹すら通らない。
「だから、「国軍軍馬は大通りのみを駆けるものとする」という軍規を見直すべきだと、何度も試験の意見表明欄に奏上したのに。上が動くのは軍馬課税の関連のみです。困ったものですね」
とミカエル様は世間話をするように言い、私の背中をぽんぽんと叩いた。「まあその課税はわたしの商会が押さえていて大儲けしておりますが」と加えながら。
「大丈夫ですよマリィ。国軍であれ王宮護衛であれ、まず当主許可なくして門を開けることはできません。我が父上は王宮だし、侯爵は絶対に許可しないでしょう。そして無理に門を開錠させ侵入し、あまつさえ戦闘になったりしたら……もうこれは国全体の問題となります。そこまでは現実問題不可能なので、門前に数を集めて心理的に圧迫し、門を開けさせ、わたしとマリィを説得して自分たちから出て来るよう仕向ける。そして王宮にていったん拘束、王太子殿下帰還を待って解放。これがしたいだけでしょう、何事も順序と規律を重んじる王宮ですから」
追尾されている問題の土台は、「拘束指示は(容疑がはっきりしないため)さておき、笛で示された緊急招集発令で警備体制強化の中、封鎖された門を突破して宮外に出た」一点に尽きる。
でも王宮にはアレもいる。明けない夜の化け物だ。
「兵士や王宮護衛は大丈夫、彼らも無茶はしない。ただ、その中の一部、王宮護衛の一部のみ気をつけなければ。アレの別命を受け必死にマリィを探している者どもです。進退賭けて探し連れてこいとの命令でしょう、軍兵士に紛れても焦燥感は隠しきれない。そいつらだけきっちり抑えれば問題ありません。心配ないですよ」
まるで詩を朗読するように言うミカエル様をじっと見る。
彼は私に嘘は言わない。
「はい。安心しました。ひくっ」
頷いて力を抜くと、ミカエル様も笑う。幌馬車に吹き込む風が夜中の静寂を教えてくれた。
「ミカエル様、ぐす、ケイトの麻袋の中には何が入っていたのですか?」
「……首の薬だけですね」
「いま嘘つきましたか?」
「……黙秘します……」
幌馬車は王都の通りを抜けて下町に入る。裏通りの辻で止まり、私たちを馬車から降ろすと、御者はミカエル様に何かのハンドサインを送ってそのまま今度は表通りへと走って行った。
「指一本の上向きが肯定、下向きが否定。二本の上向きが鼓舞や励まし、下が禁止や叱咤。どの指もそれぞれとある人物を指したり意味があったりして、二本目から音といくつかの記号を重ねた意味となり、家人も働く者も全員覚えさせられます」
私の手を握り、解説しながら歩くミカエル様について行く。緊張感のまるでないすらりとした背中は、暗闇でなければ散歩のようだった。
「じゃあ、ぐすっ、さっきの御者さんのハンドサインは、鼓舞や励まし……?がんばって逃げ隠れしてください、という感じですか?」
「あー……いや、そちらの鼓舞ではなくてですね、別の鼓舞……」
「別の?」
カーテンをマントのようにして歩く私を振り返って、ミカエル様は「泣きながら歩いているのも可愛いですね」と誤魔化すように笑った。
「夜道は怖くないですか」
「怖くないです。ミカエル様がいますもの」
「……ちょっと、あの、思考を別のところに飛ばしてもいいですか。ええと、何を考えようかな……そう、わたしがそちらの家へ入ったら、新しいサインを作りましょう。何かと便利ですよ」
「じゃあ、うっく、遠くにミカエル様がいらしても、素敵ですってサインで送れますか?」
「……うーん……わたしはこの後ちゃんと抑えが利くかな…………」
「でも、ひっく、覚えられるでしょうか私。みんなも」
「そちらはみな、かなりのん気、なのに血気盛ん、いえ、とても伸び伸びした家風ですからね……じっくり行きましょうね……」
街灯も人影もない路地を手を繋いで歩く。静かすぎて、遠く離れた表通りを駆け抜ける馬のいななきがここまで反響した。
「おそらく、別命を受令した一部の者どもが、侯爵家公爵家どちらにもいないと気づいて、焦って闇雲に駆け回っているのでしょう。夜中に迷惑ですね。商会経由で一市民の声として王宮に上げておきましょう」
「……ミカエル様は普段から、緊張するとか、怖いとか、あまり思ったりなさらないのですか?」
追われている本人なのにまさに散歩の途中のようなミカエル様に聞いてみる。と、ミカエル様は、一瞬きょとんとした後ふわっと微笑んだ。
「捜索に関しては見つからないよう計算をし尽くしているので怖くないですが、他のことではとても緊張しているし怖いです。今も」
「今も?」
「はい。マリィ、あなたのこととなるとわたしはいつも怖がりです」
下町の裏通りを抜けてさらに奥、狭い通路に面した長屋街を通って小さな商店街に入った。
何を怖がっているのですか、と聞こうとしたら、ミカエル様がすっと指を口に当てる。前方の二階建ての小さな建物の、裏口と思われる扉が微かに揺れた。
「入りましょう」
え、と言う前に肩を抱かれてそのまま裏口から建物へ入る。素早く扉を閉める音がして、目の前にランプが灯った。
「ご無事で」
驚き過ぎて、とっさに口を押えて悲鳴を堪える。
「せ、先生……」
ダマヤ様のお母様、天才刺繍職人の先生は、ランプに照らされた私を見て遠慮がちに笑い、苦しそうな顔をした。
「侯爵家お嬢様がこんな髪もドレスもボロボロでなんとご無体な……酷なことを……」
褪せたピンクのまつげを震わせて、私の髪をゆっくりと、丁寧に手櫛ですいてくれる。そしてミカエル様にランプと鍵を渡した。
「こちらがここの鍵です、公爵令息様。ここ数日毎晩わたしはここで作業をしておりました。二階の作業部屋にランプを灯しておけば、近所の方がよい証人になってくれるでしょう」
「恩に着る」
「一階は御覧の通り改装前で何もありません。二階は作業部屋のみ刺繍道具や材料を置いておりますが、その隣の部屋は手も付けておりません。今後壁を取り払って作業部屋を拡大するつもりですので、何も気にせずご自由にお使いください。前の家主のこだわりで水回りにお湯が出る箇所がございます、どうぞお嬢様を可能な範囲でいいので温めてあげてください」
「近いうちに必ず礼を」
「いいえ」
先生はダマヤ様そっくりなおおらかで可愛らしい笑顔を浮かべた。
「令息様と、そしてお嬢様には返しても返しきれない御恩がございます。ねえ、お嬢様」
声を出さずにしゃくり上げている私の頬を優しく包むと、「雲の上のお方に失礼いたしますね」と言って、ゆっくりと両目を指で拭ってくれる。
「いいこいいこ。怖かったですね」
「せ、せんせいっ、だ、ダマヤ様が助けてくれて、でもダマヤ様はそのままあちらに」
「母親が言うのもなんですが、危機一髪とか、絶体絶命とか、あの子には無縁だと思うのですよ。そうなったところを見たことも聞いたこともありませんし」
ミカエル様と同じようなことを言って、先生は「ここは、あの子とわたしの夢のお店第一号店ですよお嬢様。まだ開店準備も出来てませんが」と微笑んだ。
「まるで暴れ馬の馬車に乗っているかのような毎日ですよ。思いもよらないものを描いて刺繍して、夢中になって、目の玉が飛び出るほどの報酬をいただき、気づいたらあれよあれよという間にこうなってました。全部が全部ふわふわとした夢のよう。お嬢様のおかげです」
「先生」
「ダマヤはね、お嬢様。生まれてから今まで一度も、まことに一度も、女友達ができたことがないのです。信じられないでしょう。あ、信じられますか」
頷いたら控えめに笑う。
「口を開けばやれあの殿方が、どの金持ち男が、しか言わないそのダマヤが、ある日突然『変な女がいるの』って。……ああ、ごめんなさい、失礼な言い方」
いいえと今度は首を振る。先生のピンクの目はとても優しい「母親」の色だった。
「それからはわたしに会いに来るたびに、あいつがこんなこと言ってた、あいつがこんなことした、あいつの家のお菓子が、あいつの侍女が、あいつがあいつがって。もうおかしくて。ねえお嬢様」
細い腕に軽く抱き締められて胸が詰まった。早くに亡くなったお母様を思い出す。
「本当にこの子はいい子。……お嬢様は人の悪口は言わない。人を認め、人を褒め、そして人の幸せを一生懸命喜ぶ。こんないい子だもの、大切にしてくれる人がたくさんいます。……だからもう、悪い奴のことなんて忘れてしまいなさい」
大丈夫。つけられた傷は、いつか治るわ。
「先生」
枯れない涙がこぼれる頬を袖で拭ってくれる先生の後ろで、とても小さなノック音がした。
「……変装したうちの護衛が、ご自宅まで送り届けよう」
「はい」
ミカエル様に返事をして、先生は私をもう一度撫でてから扉をそっと出て行く。
「お幸せに」
ランプの灯りが労わりの言葉を残して揺れた。




