11(追加あり)
植え込みの裏側を選び木陰を縫いながら、ミカエル様の息が荒い。
「……勉強ばかりでは、とうちの護衛に鍛えられた成果が、出ているといいのですが」
「とても出ていると、思いましゅ、でも、私も走ります」
「もっと遅くなりそうですので、遠慮してくださいね」
ざざっと枝の擦れる音がする。とっさに顔に布を被せられた。隙間から薄い闇に目を凝らした時、「ミカエル!」と抑えた鋭い声がした。
「兄上!」
「こっちだ、馬車を回した」
背後では、東西側から挟むような形でたくさんの足音が迫る。
ミカエル様の火照った腕がさらに私を強く抱えた。
「うちの家紋入りの派手なやつだ。全速力で行け」
「兄上は」
「わたしは義父上の馬車に同乗してあちらの邸で朝を待つ。国最古の公爵家の当主である義父上に文句を言える人間は両陛下のみだ」
「……父上は」
「それこそ無用の心配だミカエル。あの父を万一捕縛したら、捕縛した者に未来永劫続く地獄が待っている。父上を行動不能にできるのは、我が家にたびたび現れる奇怪なハンカチだけだ」
「……はい」
「父上はここに残り王太子を待つ。お前は行け」
私は何度も布で目を擦り、どうにも止まらない涙をなんとか拭いて顔を出した。
ミカエル様の正面に立つ、同じ青い髪の人と目が合う。
「……あ、く、うっく」
泣き過ぎて喉から声が出ない。みっともなく泣きはらした顔で自己紹介もできない不敬な令嬢を、彼は見下ろしてぱちぱちっと瞬いた。
「……」
ミカエル様をずいぶん大人にしたような精悍なお顔。
でもミカエル様と同じ硬質な印象の青い目で、ミカエル様と同じように眉を垂らして頬を真っ赤に染めて、そうしてミカエル様と同じように仕方なさそうに笑った。
「……わたしの婚約者のヴェロニカが、あなたに会いたい会いたいとうるさいんだ。会いたいのはあなたが一番ハンカチが二番、わたしはさらに間を空けて五番なのだそうだ。今度うちの邸に来なさい。父と母も心待ちにしている」
返事をする前に一瞬だけ頭を撫でられた。
「効率と成果しか頭になかった次男が突然体を鍛えたり口説き文句を教えてくれと請うて来たり、果ては商会に手を回してありとあらゆるサファイアを店から枯渇させ、メイドは浮つき護衛はざわめきここずっとうちは強制的に祭りに参加させられている状態だ。しかも相手はいま一番の話題の令嬢。早く落ち着きたいところだが、それ以上に我々全員、引っ掻き回す本人たちの幸せを願って止まない。どうか弟を頼む。行きなさい」
あ、と言いかけるがミカエル様の体ごと馬車に押し込まれた。
錠のかかる前に走り出す。小窓から腕を出して錠を回し、ミカエル様はなんらかのハンドサインをしてから腕を引っ込めた。
「我が家だけの、サインです、御者、と、兄に。内容は、秘密です」
きっと、「感謝」「ご無事で」だわ。絶対。
息を切らせて言うミカエル様を見て、膝から降りようとする。がそのまま膝上で向かい合って座る姿勢で、ぎゅうっと抱き締められた。
「……マリィ。無事でよかった……」
涙がまた溢れる。
ガタガタッと車輪が激しい音を立てた。ミカエル様の汗と私の涙が、体を包む布に同時に落ちて染みた。
「ハーマン侯爵は一足先に侯爵邸へ向かいました。御身無事です。剣を掴み応接室へ飛び込んで行こうとするのを執事が縄で縛って引きずって行きました」
「お父様……よか、った」
ミカエル様がさらにぎゅっと力を込め、私の胸に顔を埋めた。
「間に合ってよかった。痛いところはありますか?どこも触れられてませんね?」
「はい。髪を、ひっく、掴まれて、あとはこれ」
しゃくりあげながら布に包まれた体を伸ばし、首を出して見せる。
「とれ、取れないんでしゅ、これ」
「……短剣を、貸していただけますか」
ずっと布の中で握っていたケイトの短剣を渡す。ミカエル様は皮鞘をほどくと、「動かないで、息を止めて」と吐息のようにささやいた。首輪と私の皮膚の間に指が入り、ひやりとナイフの背が当たった瞬間、ふっと首が軽くなる。
同時にミカエル様は切れた首輪を床板に放り、革靴でガンッと踏んだ。
「……擦り傷が」
首筋をそっと撫でられて、くすぐったくてまた涙が流れる。優しい指は労わるようにうなじを撫で、後頭部を撫で、掴まれた前髪を撫でて行った。
「だ、ダマヤ様は、うっく、あの方は大丈夫なのでしょうか」
「あの男爵令嬢が危機を迎えている姿というものが想像できません。事態がどう転んでも彼女だけは大丈夫でしょう」
「は、い」
頷いて鼻をすする。大判の布と長い腕に包まれた体から、次第に力が抜けて行く。
高速で移動する車外を見ると、小窓の向こうに連なる松明の灯りが見えた。高台の王宮から下ってくる宮付護衛と国軍兵士の馬の列だろう。封鎖を突破した者を捕縛するため、公爵家家紋の入る馬車を追いつつ駆けている。
それをじっと見る私に、「マリィ」と穏やかな声がかかった。
「……完全にわたしの落ち度です。マリィは約束を守って邸で待っていてくれたのに、わたしが油断したせいでひどく恐ろしい思いをさせました。許して下さい」
「いいえ。いいえ、ミカエル様。たす、助けに来てくれて、ありがとうごじゃいました、ぐすっ」
馬車が大きく揺れる。固く抱き締められたまま、ふたりで一緒に揺れた。
「あなたに何も言わないで事を進めたことも謝らせてください。さんざん迷って考えて、しかしハーマン侯爵もハーマン家のみなも、あなたには何も知らせない方がいいと。わたしもそれに賛成をし、そして勝手に進めた。あなたの意思を置いて」
「わた、私が、本当はとても怖がっていたことを、みんな、わかってた、から」
「……そうですね。怖かったですね。マリィ」
あの乱入のお茶会で、いや、その前のあの夜会から……私は、心の奥底で、殿下をとても恐れていたのだ。自分でも気づかないほど深層のさらにその先で、ずっと脅えていた。それはたぶん、本能だ。
見た目は普通に過ごしていても、みんな気づいていたのだろう。邸に引きこもっても追ってくる記憶の中の視線に、記憶の中の怒鳴り声に、そして繰り返し届く執着の形である出仕要請の手紙に、私がとても脅えていることを。
「……王太子殿下の帰国に関しては、兄上と父上の力を借りました。この件でふたりには、二回ほど人生をやり直さないと返せないほどの恩を作ってしまいました」
少し笑いながらミカエル様が言う。
ガラガラと車輪が大きな音を立て、ミカエル様と私は真正面で見つめ合った。
「……王太子殿下に拝謁し、うまく婚約を結べたら、その足でマリィを説得しに向かうつもりでした。順番が逆ですね。そして婚約を了承してもらったら、すぐあなたを連れてハーマン侯爵家の領地に飛ぶ予定でした。領地経営を学ぶためという口実で、ケイトも、護衛たちもみんな連れて大移動です。王都から遠く離れた土地でほとぼりが冷めるまでのんびりと、あなたが恐怖など忘れるほど穏やかに暮らし、そして……数年後に結婚して王都に戻る。ハーマン侯爵とここまで決めていました。侯爵はうんうん唸りながら唇を噛み締めて悔しそうに、でも必ずあなたを幸せにするなら許すと。……侯爵のもとに、あなたとの再婚約を指示する脅迫状のような私信が届いていましたから。……殿下から」
でも、とミカエル様は首を振った。
「失敗です。すべて」
「……」
涙がとめどなく落ちる。永遠に泣き止めない気がした。
「わ、私は、もう、ミカエル様と、婚約できないのです、か」
語ってくれた幸せな未来は、穏やかにみなで笑い合う未来は、もう手に入らないの。……でも。
私は泣きながら、しかし、ゆっくり頷いた。
「……でも……そう、ですね。ううん、そうです。ぐすっ」
そう。そうなのだ。私自身、もうわかっていた。
私はあの閉じ込められた部屋で、殿下とともにいるところを見られている。殿下が発した言葉も聞かれている。実際は行為がなくとも、真実はそこに欠片もなくとも、私という令嬢はもう終わりだ。理不尽の極みであってもあの瞬間終わった。
朝が来る前のその十数時間で潰えた。すべて。
しかも、今この時も追手がかかっている。
封鎖を突破して追われたという事実は王宮に残る。一晩逃げおおせたとしても結果は同じ、私は「狂った王子に襲われかけ逃げ出した令嬢」の名を背負い、逃亡の罪に王太子殿下の赦しがあったとしても邸の奥で生涯を過ごすことになる。
ミカエル様に、助けてくれたたくさんの人に、汚点と傷とこれからの苦難をばら撒くだけばら撒いて。
「失敗に失敗が重なり、こんな行き当たりばったりの逃亡劇になってしまいました。わたしの甘い計画のせいです」
「いいえ。いいえ、違いますミカエル様」
首を振る。馬車の車輪が石を踏んで横に揺れた。
「ごめ……ごめん、なさい……ごめんなさい……」
布を顔に当てて言う。それから涙に押されるように半ば覚悟を決めた。
私は、マリース・ハーマンだもの。
「ミカエル様。ここまで、ひっく、ありがとうございました。ここで、降ります。私はここからどうにかして自力で家に戻ります。御心配なく、あなたのことは無関係だと貫いて見せましょう。あなたは早く公爵家の護りの中へお入りください」
「マリィ」
「ぐす。私は大丈夫です。ミカエル様は早く」
「マリィ」
音もなく、唇へ布越しに指が触れる。顔を上げると、ミカエル様は眉を下げて仕方なさそうに笑っていた。
「そうですね。もう婚約、は無理でしょう」
「……ぐすっ。はい」
口をきゅっと結んで頷くと破顔。
「はい、良い返事です。可愛い。最後までお聞きください。可愛らしいお顔がとてもとても可愛いです。だから布で隠さず、ちゃんと聞いてください」
「……はい」
「婚約はもう無理です。時間がない。だから備えていた第二の案、別案を取ります」
別案、と目を擦ると、「腫れてしまいますよ」と手を掴まれた。そしてそのまま、両手を両手で包まれる。
「マリィ。あなたは、違う覚悟をしてください」
真面目な光を浮かべる青い目が、私の視界に広がった。
「結婚しましょう」
「……は?」
ぱちっと瞬くとまた涙がこぼれた。
それを指の先で拭ったミカエル様は、真顔のまま続けた。
「結婚しましょう。今から、わたしと。もう婚約は時間的に間に合わず、王太子殿下帰国まではどんなに都合よく進んでもまだ十時間以上あります。このまま今から結婚をし、その証拠を提出します。そうすればあなたはもうわたしと添い遂げるしかなくなる、つまりこの国の常識を逆手に取るのです。令嬢は処女の資格を失えば、奪ったその相手に生涯を捧げるしか安寧に生きる方法はありません、そんなくだらなく差別的な常識をわたしは利用させてもらいます。結婚してしまえばもう、あなたはあの下劣な狂人に追われることもなくなり、わたしが完璧な後ろ盾となり最強の矛となりあなたをあらゆる噂と視線から剥がし侯爵家の礎にもなりましょう、ついで公爵家を甘く見たことも思い知らせてやろうと思いますあの狂人だけは絶対に許さない今後の人生において」
「……」
すごい早口。
「場所は、……本当に申し訳ありません。選択肢がないのです。必ず、必ず、すべてが落ちついたら必ずあなたが喜んでくれるような美しい景色の美しい場所を用意しますので今はとにかく身の安全と狂人からの逃げ道確保が先決です、あなたにはわたしが選んだ場所でわたしとともに一晩過ごしていただきます」
「……えっと」
私の顔を見て、はっとミカエル様は口を噤んだ。
そしてうなだれるように下を向いた。
「……本当に、順番が逆ですね。これでは護衛に笑われメイドたちに叱られるのも当たり前だ……」
赤くなった耳に青い髪がかかる。再び私を見つめた青い目は、赤みを帯びてもとても優しく美しかった。
「マリィ。わたしの愛」
馬車の立てる音にも負けない、静かな声が不思議にはっきりと届く。
「あなたを生涯愛し、生涯守り抜くと誓います。わたしの光、わたしの幸せ。マリィ、あなたはわたしの愛そのものです。どうか、わたしと結婚してください」
「……」
また涙が溢れる。もうきっと今夜は止まらないわ。
私がさらにはらはらと泣き出したのを見て、ミカエル様は眉を下げて私の大好きなお顔をした。
「……損はさせません、マリィ。わたしはきっとあなたの役に立ちます。一生」
「……次男だから?」
「はい。次男だから」
ミカエル様が笑った。
私も笑って、そして泣きながら「刺繍がんばります。一生」と言った。
ミカエル様の満面の笑みを、私は涙で見逃してしまった。
……………追加……………
磔にされたように動かないクズの首元に手を伸ばす。喉元、くぼんだ場所の少し下、この奥の骨の裏めがけて指を突き刺し、ぐいっと皮膚をねじる。「ぐえ」と引きつった醜悪な呻きが上がった。
「トイレ画像だけじゃないのよ。きさまの汚れた欲望まみれのマリ宛文面もあるわよね。オレの前で跪いて、足を舐めろ。綺麗に舐められたら許してやる……だっけ。最悪なセンスの欠片もない駄文、それの証拠も。スクショ?ていうのよね。あれ。ああそうだわ、アオキ」
そちらを見もせず呼び捨てると、「ええ……」とまた情けない声で、しかし返事をする。
「アオキ、ヤマダはどこ。連れてきなさい」
「えええ……」
しん、と誰も身動きすらできない室内を、青木がくるりと見回す。気配を消していたらしい女性がひとり、青木と目が合って、「……マジかよ……」と小さく呟いて立ち上がった。
「……えっとお。あたし、なんにも知らないでーす。浜口サン、どうしちゃったんですかあ?」
顎に指を当ててこてんと首を傾げる若い女。これがヤマダ、へえ。いい胆力。これは使えるわ。
「あの女ここに連れてきてアオキ」
「え」
「ぐずぐずしてないで引っ張ってきなさい、アオキ」
「……山田さん……」
泣きそうな声音の青木に、山田がぶんぶん頭を振る。
「え、やだ、巻き込まないで、むり」
「ヤマダ、お前、隣の課のキノシタ室長の愛人でしょう。このドクズ男と出世を競う同期のキノシタよ、お前が金づるにするほど実家が太いけど尻に蒙古斑が残ってる足の臭い男。あの男に頼まれてこのドクズ男の弱みを探っていたところ、たまたま置きっぱなしになってたこのクズのスマホの画面を見てしまってこっそり写メしてスクショしてキノシタに送ろうとしたけどさすがにやばそうだからといったん保留にして、いやしかしこのクズからもこれで脅して金を巻き上げるか?いやキノシタの隠しているデカいミスを逆にこのクズにばらしてお互い戦わせて、その間にうまいこと両方の罪をすべて自分の手柄にしてさらに上の幹部へ持ち込み密告、果ては経営者陣にまで食い込んで愛人のステップアップをもくろんでいるヤマダってお前のことでし」
「ちょいちょい待て待て待てーい!」
走ってきたわ。
「ちょ、ま、マジで何言ってんの浜口さん、いやほんと勘弁してっ」
幼く見えるよう計算された厚メイクを歪ませて、山田が低音で必死にささやいて来る。それにはっと半笑いを返した。こいつ本当に面白いわね、マリの言う通り。
「ヤマダ、わたくしのことはマリ様と呼んでよくってよ。許すわ」
「はあ!?あんたマジで何言って」
「アオキもね。特別よ」
「……いやもう……何がなんだか……」
名呼びを許可している間に、クズが息を吹き返したらしい。
わたくしの手首を持って、ぐっと突き放してくる。やだ汚い。触らないで。
「……お前……お前ら、本当に……こんな、仕事中にこんな、く、く、くだらない演劇の練習、そうだな、劇の練習だ。台本通りのクソ芝居をしやがって……許さんぞ、まずは浜口、お前だけオレと別室へ」
ぎゅふ、と人間からは出ないような音がした。
わたくしが逆の手で喉のくぼみを突いたから。思いっきり。
「演劇?お遊戯です、これは事実ではありませんってするつもりなの?本当にきさまは浅はかで意地汚いわね。まあどうでもいいわ、もう破滅するだけだから。マリを思いながら地獄へ行きなさい。……いや、思うのも許さないわ。虫けらが」
痛みに崩れ落ち、のたうち回るクズを見下ろす。頭を一度だけ靴で踏みつけると、また「ぎゅが」と奇妙な音がした。
青木のジャケットのポケットからスマホを取り上げる。大事に隠しファイルに取ってあるわ、クズの様々な動画。罵倒、脅迫、そしてトイレ。日々これらをこっそり撮影してた青木本人は焦ってわたくしの周りを犬のようにうろうろしているが、それを無視して、そのまま動画を「会社用アドレス」にあるすべての相手に一斉送信した。
面白いわ、この機器。興味持ってたくさん使い方を聞いて、マリのものをたくさん触って慣れておいてよかった。
直後、部屋のあちこちから、「やだ……」「うえ、マジで……」「トイレ映像激やば、マリマリって呟きながらシテる」「これ本気でまずくない?」「パワハラとかのレベルじゃなくて犯罪……」と声が上がる。
でもね、あんたたちも同罪よ?室長という立場に逆らえなかった、そしてたったひとりを犠牲にして自分たちは見て見ぬふりしながら逃げていた、卑怯で弱者の愚か者たち。
お前たちも許さないけど、まあ、まずはクズ本人から。
「やめ、やめろおおお……やめ……」
クズがわたくしの足に飛び付いてこようとしたから、避けるふりしてかかとで首後ろを打った。
「泣いてるばかりだとでも思ってた?残念ね。逆にどこまでも追い詰めてあげるわ、わたくしが。手足となる下僕もいることだし、どこまでもどこまでも、きさまのすべてが破滅し地の果てまで逃げたとしても、どこまでも追い詰めてやるわ」
そして耳元にそっとささやく。
「マリは、虫けらのことなど、これっぽっちも好きではなかった。いえ、好きとか嫌いとかすらなかった。……きさまはね、マリにとっては、ただの鬼。妖怪。同じ人間ですらない、同じ存在でない、心も言葉も通じない、遠い次元の未確認生物。ただの化け物。化け物だったのよ」
合うはずの目も、語る口も、聞く耳もない、ただの化け物だった。
マリにとっては。
ただ恐れるものであっただけだ。
ただそれだけの存在。
あの美しい涙にふさわしい価値など、一切ないわ。
「……きさまの薄汚い気持ちは、ひとかけらも届いてなかったわ。ひとっかけらも。ざまあみろ」
弱い。卑小で脆弱で愚かな、弱すぎる人間だ。
それなのに、こんな弱い相手なのに、マリは滅多打ちにされて命の灯まで削られていた。なぜか?ひとえに、マリの優しさ。そしてこのクズの先手を取った攻撃だ。先に踏み込んで一発を入れた戦士は、最終的にその試合の勝者になることが多い。無防備な瞬間の容赦のない不意打ちは、相手の気を萎えさせ意欲を削ぐ。逆転するには胆力と観察力、そして経験が必要なのだが、惜しくもマリにはそれがなかった。優しくあれと生きてきて、綺麗に成長した健やかな普通の人間なのだ。こんな化け物の先制の一発に、耐えられるはずがなかった。
そしてこういう外道な輩は、その怯んだ隙を見逃さない。最高に自分好みの獲物が、試しに入れた攻撃に大いに怯んだ。抵抗してこない。
……最高じゃないか!と。
「調子に乗ったのね。マリという最高の獲物を見つけ、地位と権威を振りかざし、日々、繰り返し繰り返ししつこくしつこく獲物を罵り追い詰める。気力を失くし、麻痺し、動けなくなるまでいたぶって、最終的に手に入れようとした。これだけ毎日罵れば、周りも同じように麻痺してしまうわよね?虐げられる光景が日常の一部になって、本人も周りも気づかない。慣れと麻痺に」
でも残念ね、と息だけで笑う。
「間に合ったわ。間に合わせたわ。わたくしが。さあ逆転よ」
先制一発よ。パニックになって焦ってみっともなく動揺した虫。言い返されないと思い込んでいる惰弱な化け物。なにも怖くないわ。
再び首後ろを踏む。今度は、かかとを高く高く上げてから。
「地獄で休めると思うな」
クズは足跡のついた首をあらわにしたまま、動かなくなった。




