カーニバル③(完)
近くのシャワールーム(ちなみにトイレもそこにあった)で汗をながし、真夜中ごろに僕は勉強を再開した。視界の端に女神像が立っているのは少々気になったが、英文の要約はいつもより速く仕上がったし、世界史の大論述も要領よく書き上げられた。朝方まで勉強を続けていた。何度か、外から男性の低い唸り声が聞こえた。遠い海鳴りのように、区画のどこかからそれは響いていた。音楽は早朝特有の静かなメロディに切り替わっていた。数名の祈祷師がステージにのぼり、ひざまずいて両手を合わせていた。彼らの姿は誰からも忘れ去られてしまった小さな遺跡に立つ細い柱のように見えた。ドアがノックされたのはその頃だった。
わずかに開かれた隙間から、脚のない男は僕を覗いた。
「なんですか?」僕はちらりと視線をやる。
「いや、灯りが漏れてたからよ。なにしてるんだろうと思って」
彼は半歩、部屋の中に入ってきた。そのために赤くほてった顔がデスクライトにてらしだされた。
「勉強してんのか?」
「そうです」と僕は答えた。
「あんた天使じゃなかったのか」
「ちがいますよ。人間です」
「でもさっきまで皿洗いしてたし、日中は男の世話もしてただろ」
「それはたまたまです。むしろそれでいそがしくて勉強できなかったから、かわりに今やってるんですよ」
「ふうん」男はけげんそうにうなずいた。「なかなか根性あるじゃねえか」
「落ち着かないんです。勉強してないと」
「でもあんた、友だちには会わなくていいのかよ。音楽は? すげえのがずっと鳴ってるだろ。見に行かなくていいのか」
「友だちにはもう会いましたし、音楽にはあんまり興味がないんです」
「それで絵の手伝いをしてんのかい」
「みてたんですか?」
「酒をとりにきたら、いやでも目につくさ」と彼は言った。「でも、俺には理解できないね。もう人生がおわるってのに、こそこそ絵なんか描いててさ。あんた、なんであいつがそこまで絵に執着するのかわかるかい?」
「わからないです」と僕は言った。
「この世界に、じぶんが生きた証を残したいんだとよ。泣けるよなあ。あんな病気せおわされて、それでもまだこの世界なんていうものにこだわってるんだぜ」
「でも、気持ちはよくわかります」と僕は言った。「あなたはちがうんですか?」
「まったくちがうね」と彼は言った。「俺は酒がのめればいいのさ。要するにこの世界なんて、いっときの暇つぶしにすぎんのよ。がんばろうが、がんばるまいが、残るのは骨ひとつ。そうだろ?」
「たしかに」
「あいつに言っとけ。酒をのみなさいってな」
「肺がわるいんですよ」
「だからなんだよ。肺がわるくても酒は飲めるだろ」
僕はそう言われてなぜだか笑ってしまった。彼もつられて笑った。
「伝えとけよ」
「わかりました」と僕は言った。
彼が立ち去ろうとするので、僕は呼びとめた。「祈りにきたんじゃないんですか?」
彼はなにも言わず右手をあげ、そのまま杖をうまく使って歩き去っていった。彼の不規則な足音は徐々に遠ざかっていった。
「きっと幻肢痛に耐えきれなくなったんだろう」
翌日僕がその男の話をすると、彼はすぐにそう言った。
「ときどきそうやって昼夜構わずあの子に泣きつくのさ。助けてくださいって」
「泣きついてどうするんですか?」
「きみはなんにも聞いてないんだな」と彼は笑った。「慰めてもらうんだよ。当然じゃないか」
「あの子にですか?」
「ああ」
「宗教ってのはいまいちよくわからない」と僕は言った。「あなたも、そうしているんですか?」
「ときどきな」と彼は言った。「でも、あいつほど高頻度ではないよ」
僕がよくわからないままに彼の身体をタオルで拭いていると、彼はつぶやいた。
「昨日はわるかったな」
「なにがですか」
「うまく言葉が出てこなくなるときがあるんだ」彼は言った。「頭の中がショートして、考えや言葉が時間を止められたようにびくとも動かなくなっちまう」
「なんとも思ってないですよ」
「昔はこうじゃなかった」と彼は言った。「中学までは、学校に通ってたんだ」
僕は彼のからだの向きを変えて、背中から腰にかけての汗を拭きとった。そしてマッサージをしてみた。でたらめだが、やらないよりはましなはずだ。
「あんたは大学生だろう? なにを勉強してるんだ」彼はそう聞いた。
「文学、です」と僕は答えた。
「文学! いいもんだなあ。俺も本はすきだよ。とくに歴史ものがな。あんたはどんな本がすきなんだ」
僕はその質問にうまく答えることができなかった。すきな本が思いつかなかった。大学に入って無理にいろいろと読まされているうちに、勉強の邪魔にしか思えなくなってしまっていた。
「昔の本です。もう誰も存在を忘れてしまったような本がすきです」僕は適当にそう答えた。
「俺もそういうのはすきだよ。最近の本は読む気がしないな」と彼は答えた。「俺も大学に行きたかった。歴史を勉強したかったよ。そうしたらきっと想像力だってまっとうになってたはずさ」
「あなたはすごいですよ」と僕は率直に言った。
「こんなこと言っても仕方ないんだが、あんたのことがうらやましい」と彼は僕の言葉なんて意に介さずにそう続けた。そして僕の大学生活のことについていくつか聞いた。僕はでたらめを答えた。どんどん暗い気分になった。
「17歳のときなんだ。ぜんぶがおかしくなったのは」彼は天井に視線をそそいで、なにかをみすえるようにそう言った。「起き上がれなくなった。なにをするのもおっくうになった。気づいたら俺の世界は半径5mに狭まっていた」
僕は彼にばんざいをさせて、シャツをぬがせ、あたらしいシャツに腕を通させた。
「あんたも俺たちのことは聞いてるんだろう? つまり、なぜここにいるのかということは」
「はい、まあ」と僕はうなずいた。
「川にとびこんだんだよ」と彼は言った。「もうなにもかもどうでもよくなってな。なんでもない平日の深夜だ。人どおりもほとんどない山の中だよ。なのに俺は救いだされたんだ。なにもおぼえてない。気づいたら感化院のベッドにいた」
「誰かがみていたんですかね」
「そうなんだろうな。まったくおせっかいなやつだよ。生きのびたって、なにかが変わるわけじゃないんだからな。しかもだ、天使どもは俺たちに、自傷行為をさせないように枷をはめた。ある種の暗示みたいなもんだ。そんな風にして俺はベッドに寝たままこうやって10年すごしてきた。頭がイカれちまうのも無理ないだろ?」
「そう、ですね」と僕は答えた。「でも、そんなにじぶんを否定しないでください。あなたの王国はあなたにしかつくりだせないものなんですから」
僕なんかにはとても、とつけ加えようかと思ったが、やめた。そんなことをしても話をこじらせるだけだった。
「俺だってそう思ってたさ」と彼はいっそう深刻な調子をつよめてつぶやいた。「いいか? あの娘には言えないが、俺は神さまを信じる気にはまったくなれないんだよ」
「どうしてですか?」
「だって、ぜったいにこう思ってしまうだろう。『来世ではわたしを自由に走り、自由に愛せるようにしてください』ってな」
「ダメなんですか?」
「そんなのは信仰じゃない。取引だ。ほんとうに神さまを信じるやつは、与えられたものすべてを受け入れ、『もう一度わたしに肺病をお与えください』と思える必要がある。それが信仰だ。もちろんそんなのはばかげてる。だから俺はじぶんでじぶんの国をつくらなきゃいけなかったんだ」
それはひとつの論理なのかもしれなかった。僕は黙って言葉を待った。
「傲慢だがね、俺は神になれると思ってたんだよ。せめて、じぶんの内なる世界においてだけでも、な」
「できてるじゃないですか。あんなに詳細に世界を構築しているんですから」
「そうだ。そう思うだろ。でもだめなんだ」
僕はすこしずつ、彼がひとつのなにごとかを語ろうとしていることに気づきはじめていた。彼はそのなにごとかを語ろうとして、さまざまな角度からスコップを振りおろしていた。彼はすこしのあいだ言葉をとめ、宙の一点をみつめていた。それから口をひらいた。
「あいつらが火を焚きはじめたのは、突然だった。秋のことだ。薪を持ちだして組み、国じゅうの油を持ちよって注ぎこんだ。大きな火が生まれた。あいつらはその周りに集まりはじめた。消えかけるとあわてて火だねを足す。燃え尽きないようにいつも誰かが見張ってる。そうやって火は燃えつづけてるんだ。俺にはそれがいったいなんなのか、なぜみんながそれを焚きはじめたのか、まったくわからない。ふしぎなことに連中も知らない。ついに俺は、じぶんの王国さえじぶんで統御することができなくなっちまったんだ」
彼はそこまで話し終えると、疲れはてたようにベッドに身体をしずめた。呼吸をととのえはじめた。
「たしかに、不思議だ」と僕は言った。「あなたが消そうと思っても、その火は消えてくれないんですね?」
「……ああ、そうだ。雨が降ったし、強い風も吹いたよ。そういうことはよく起こるんだ。しかし火は弱まるどころかどんどん激しくなっていった。俺はあいつらと話をした。いったいこれはなんなんだと聞いた。あいつらも知らなかった。とにかく、こうしなきゃいけないんだと、それだけだった。ぞっとしたよ。俺の頭はもう完全におかしくなっちまってるんだ」
そのとき彼女が部屋に入ってきた。それで僕たちの会話は宙づりのまま断ちきられることになった。彼女はかばんを置くと、彼の服を脱がせて触診を行なった。
「なに話してたの」と彼女は彼の胸板や背中をたしかめながら聞いた。
「まあ、個人的なことだよ」と彼は戸惑いがちに言った。
「ふふ」彼女は笑った。「うん、言わなくて大丈夫。あたしうれしいんだ。あなたがこの人にいろいろ話せてるみたいで」
「ん、まあな」と彼は言った。
「若い男の子なんて久しぶりに会うんだもんね」
「今日は彼も一緒なのか?」と男は思い出したように聞いた。
「うん。嫌かな?」
「別に。症状もそれほど重くないから」
「ありがとう」
彼女は僕に視線をやってからベッドの脇にひざまずいた。彼は目をつむり、右手をさしだした。彼女はその手を握った。二人は呼吸を落とし、部屋がいっそう静かになった。またかすかに音楽が聞こえた。彼の肺の奥で、風が漏れるような音が鳴っているのもわかった。やがてふたりの身体をやわらかな光が包みはじめた。
彼女が背中を折り曲げてベッドフレームにもたれたとき、僕は彼女が呼吸を乱していることにやっと気づいた。彼女は胸を押さえ、全身を小刻みに震わせていた。うわずった息の音が、幼児のスキップのような軽やかなリズムで耳にとどいた。ふいに、彼女は低く唸った。威嚇する獣の声だった。彼女の身体から生み出されたとはとても思えないような声音で、僕は恐怖を覚えた。身体が硬直した。一方で男の表情はやすらいでいた。さっきよりも血色がよくなり、深紅だった唇があざやかなピンクに染まっている。
「こん、なに、苦し、い、んだね」と彼女は呼吸の合間を縫って言った。「まえ、より、ひど、い」
男は哀れむような表情で彼女を見すえた。
「もう、慣れてしまってな」と彼はよどみなく言った。「これ以上は喋らなくていいよ。昨日からずっと力を使い続けてるんだろう。俺は大丈夫だから」
「ごめ、んね」と彼女はなおも言った。「これ、しか、できなく、て」
それから数分後に、彼女の身体から光が消えた。それに伴って彼女の身体を襲っていた肺病の波も弱まっていった。彼女はぐったりとベッドに突っ伏していた。男はそんな彼女の後頭部を、罪を犯したような思いつめた表情で眺めていた。
「おかげでさっきよりも楽になったよ。いつもありがとう」
まもなく彼女は血を吐いてしまった。僕は男に言われてじぶんの部屋に彼女を運び、布団に寝かせた。ホットミルクを飲ませた。昨晩から、脚のない男の痛みを受けていたのだと彼女は言った。ちょっと無理しすぎたみたい、と。そして眠りに落ちる前に、夢の獣への餌づけを頼んだ。僕は二つ返事で了承し、場所をきいた。近くのゴミ捨て場の、3つあるうち真ん中のゴミ山に隠れている、と彼女は説明した。そこに向かってみると、たしかに夢の獣はいた。ついて早々透明だった夢の獣に正面からぶつかられ、尻もちをつくことになった。
「お前は元気だね」と僕は夢の獣の鼻さきを撫でた。「やさしい飼い主から、さけの切り身をもらってきたよ。こういうものも食べるんだね」
皿に敷いたさけを、夢の獣はひと口で平らげた。僕はもう1枚、もう1枚と、かれこれ7枚ほど与えた。彼女からは「いっぱい食べるけどやりすぎ注意。太ると姿を消しづらくなる」と言われていたので、そこでやめにした。夢の獣は不満そうにしていたが、じっと見ていても何もでてこないとわかると、頭の先のまるっこい角を僕の腕に軽くぶつけてきた。僕たちはそれから追いかけっこをした。あたりにはゴミが散らばっていたので、においがひどかったし残飯を踏まないよう気をつけなければいけなかった。夢の獣はたのしそうに身体をふるわせて逃げた。ピンチになると姿を消してしまうので、卑怯といえば卑怯だった。あるとき僕は、ゴミ捨て場からステージが見えることに気づいた。この区画はへき地にあるので、前にならぶ区画の建物に遮られることも多かったのだが、ここからはそういった遮蔽物に一切邪魔されずにすんだのだ。
音楽のボルテージは昨日までより高まっていた。テンポも速いし、曲調も激しい。弦楽器隊が4、5ほど追加され、メロディラインの厚みが増していた。僕はそれを聞いていて、儀式がクライマックスに向け着実に歩みを進めていることを実感した。ドーム内の輝きも増しているように見えた。よそ見をするなと言わんばかりに、脇からまた夢の獣に突撃された。
「ずいぶん楽しそうにしてるね」ゴミ山の影から彼女が顔を出した。
「寝てなくていいんですか」
「ちょっと怠いけど……心配で見にきちゃった」
「なんだ。この通り、ぜんぜん問題なかったですよ」
「まあでも、きみがはしゃいでるところを見れたからきてよかったよ」彼女は汗をかいている僕の顔をのぞきこんでそう言った。「笑ってる顔、初めて見たかも」
「それは誇張ですよ」と僕は笑った。「僕だって笑います。この通り」
彼女は夢の獣の頬を撫でながら言った。「明日、儀式は最終日を迎える」
「ですね」
「この子たちが儀式の主役なんだよ。実は」
「主役?」
「夢と現実のはざまに生きるこの子たちが、この世界と天界とをつなげる蝶番の役割を果たすんだ」
僕は夢の獣をあらためて眺めた。首のあたりを撫でられて気持ちよさそうに彼女の手首に頬をこすりつけている。じぶんの身体の大きさを知らないのか、コンパスみたいにぐっと身体を折り曲げて。
「そして、儀式は終わる。戻るんだよ、外の世界に。現実に」
そう言われて僕は途方もない気持ちになった。いったい現実というのがどんな形や手触りをしていたのかまるで思い出せなかったからだ。そして儀式の終結はとりもなおさず彼らの死を意味していた。それは耐えがたい衝撃として身体をにぶく揺らした。
「その前にあたし、きみに聞いておきたいんだ」彼女は言った。
「ええと、何をですか?」
「なぜきみが死にゆく人たちをそんなに哀れんでいるのか、をだよ」
僕は身体がこわばるのを意識した。音楽が遠ざかっていく気がした。でもそれは錯覚だ。音楽は常にそこにある。遠ざかっているのは僕の方だ。
「もちろん、悪いことじゃない。めぐまれない人たちのことを考えて、胸を痛めるのは」彼女は言った。「でもきみは……度を超えてるんだよ。ほとんどきみ自身が死にゆく一人だと言う感じだ。はっきり言って、健全じゃない」
僕は言葉に窮した。身体の末端がうっすらと冷えていくような感覚があった。
「おまけに夢の獣。この子はやっぱりきみのことが大好きみたいだ。不可解だよ。だってこの子、人間に心を許したことなんてないんだから。いったいきみの中にあるのはなんなんだ? あたしは知りたい。偶然きみと巡り会うことになったひとりとして、その責任があるように感じるんだ」
「そんな……おおげさですよ」と僕は口にした。その言葉はじぶんのものではないみたいに頭の中に響いた。彼女は僕の前に立ち、一瞬、僕の目を見つめた。そのまま僕の肩を抱いた。彼女の密度のある髪の毛が顔に当たった。甘い香りがした。
「いいんだよ……? 明日にはあたしたち、さよならするんだから。強がらなくていい。きみの言葉がききたいんだ」
彼女はそうささやいた。
沈黙。風の音が聞こえた。心臓が脈打っていた。僕は息をすいこもうとする。
「じぶんを、見ているようで、苦しくなるんです」
途切れとぎれにそう言った。
彼女は相槌を打つように身体をかすかに揺らした。どうして、と囁きかけるようにきく。
「みんなひとりぼっちで、誰にも気づかれないまま、消えていこうとしていて——」
僕はいくつかの目を思い出した。僕を見つめていた目だ。それらはにらみつけていたり、怯えていたりした。言葉はなかった。僕の言葉は喉の手前で死んだ。蛇に呑み込まれたかえるみたいに、器官の中でぐったりと動かなくなり、身体の奥底の闇に沈みこんでいった。僕の中にはそんな死んだ言葉たちがぎゅうぎゅうにつまっていた。
「もちろんあの人たちの苦しみと比べることなんてできません。でも僕には、あの人たちの抱えているものの一部なら、理解できてしまう気がする」
気づいたとき、彼女は僕の手をにぎっていた。指先から彼女の体温を感じた。僕はそれから先のことを話そうとしたが、いっさい言葉が出てこなかった。乾いた息だけが口の中を満たした。
「絵、が見える」彼女は僕の話をうながすようにそう言った。
沈黙。
僕には話せなかった。
「——きみは、庭で自分の描いた絵を焼いたんだね。ひとすくいたりともこぼさないよう注意深く、袋に灰を詰めて用水路に捨てた。美大に行きたかったんだ。きみのご両親はそれを許さなかった。でもきみはそれを当然だとも感じていた。忙しい生活のなかで、本気になれていたとはとても言えないから。でもじぶんにどうすることができただろう。気づいたときにはいろいろなことが決まっていて、与えられた生活をいきるしかなかったのに。そんな気持ちのやり場を求めるように、きみは第一大学を目指すようになった。部活をやめた。恋人と別れた。10代のきみには、じぶんがすべてを投げうったようにも思えた。もう引き返せなかった。引き返せば、じぶんがじぶんではいられなくなるような気がしたんだ」
僕は小さくうなずいた。
「それでも届かなくて、知らない大学に入ることになった。きみにはそれが受け入れられなかった。まだちゃんと終われていない。だから勉強を続けた。周りに迷惑をかけるとわかっていても、傷つけてしまうとわかっていても、それはきみの人生そのものだから、簡単に投げ捨ててしまうことはできなかった」
彼女を抱く腕に力が入る。
「でもわかっている。じぶんがどれほど愚かしいことをしているか。どれほど理不尽で、身勝手なことをしているか。だからきみはじぶんを拒む。背中をちいさく丸め、こそこそとペンを動かして。きみは勉強することでじぶんを罰しているんだ。ひとりぼっちで、誰にも気づかれないまま」
彼女はひとすじの涙を流していた。僕にはそれが彼女自身のものなのか、それともにぎりあった手を通じて伝わっていった僕のものなのかわからなかった。
「——ごめん。あたしにはきみを助けることなんてできない。たぶん、他の誰にも。きみ自身で抜け出すしかないんだ。でもね、覚えておいて。この地上に絶対の価値なんてものはないし、苦しみのない同情なんてものは嘘なんだ。そんなものがまかり通るくらいなら、まだあたしは薄暗い地獄のような場所で這い回っていたい。血を流してでも、意味のある場所を目指しつづけたい」
やっと言葉の回線が戻ってくるような気がした。
「だから、あなたは、他人の痛みを、受け続けるんですね」僕はじぶんの言葉の輪郭を確かめるようにゆっくりと言った。
「そうだよ」と彼女は言った。「きみと似てる。ちょっとだけ、違うけどね」
夢の獣は遠くから僕たちのことを見つめていた。
その夜、僕は勉強をしなかった。ホームを離れて階を上がり、見晴らしのいい観覧席に座ってぼんやりとステージを見つめていた。音楽はどんどん強まっていった。
明け方になって、ほうぼうの区画で光が灯りはじめる頃、巨大な銅鑼の音が鳴った。それが合図だった。窓からステージをながめてみると、楽隊が次から次へと壇上に集まっていた。概算でも500人は超えていた。ステージには椅子と楽器と人とが密集し、岩場に群がって生えた胞子のようだった。音圧は巨大に膨れあがった。その周囲を取りかこむように白装束の祈祷師が並びはじめた。ひくく地を這うような祈りの声が響いてきた。
ドーム全体が異様な活気につつまれだしたので、僕はホームに戻った。すでに朝食の準備が終わっていた。彼女はどこかに消えていた。まだ時間が早かったので僕はゆっくりとじぶんの分を食べた。7時を過ぎてから部屋の前に立つと、「起きてるよ」と彼の声がした。僕は食事を持って中に入った。
「おはようございます」
「おはよう」
僕はこの二日間と同じように、彼の身体を起こし、タオルで汗を拭き、水を飲ませ、食事を口に運んだ。彼は何も言わなかった。僕も何も言わなかった。言葉なんて探しようがなかった。でも、少しだけ彼の動きがぎこちないような気がした。僕はそんな小さな違和感の中に、あらゆる時間の終末が含まれているのを感じた。本当は別の形があるべきだと思った。
彼はミルク粥をゆっくりとかき混ぜた。スプーンで何度か掬い上げ、息を吹きかける。初夏の風のような細い息だ。そしてスプーンを持ち上げ、ミルク粥を口に含んだ。嚥下して、喉がぜん動し、熱いだろう液体が彼の見えない体内に落ちていく。もう一度同じことを繰り返した。もう一度。もう一度。木製のスプーンとお椀がぶつかる軽い音だけが何度も響いていた。
彼の骨。彼の肌。彼の目。彼の唇。無理矢理集められたスポーツメンバーのように、不本意ながらもかろうじて彼の魂の透明な輪郭を肉づけしているもの。じぶんがこの男のことをほとんど何ひとつ知らないのを憎みたくなった。もっと、もっと何かあってもいいと思った。彼の身体の、ヒトとしてのあまりにも複雑な構造でさえ、訪れようとしている救済の前には無意味だからだ。それはまだ目の前にあって、望めば触れられるのに、あと数時間も経ってしまえば、この世から永久に失われてしまう。
窓からはまばゆい光が射し込んでいた。儀式を支えるべく、光の強度は増され、音楽も激しかった。その音色はレクイエムのような狂おしい心の動きを描くかと思えば、晴れやかに冴えわたった未知の地平を想起させる高まりにも変わった。音楽ははるかな高みの中で感情の振り子を鈍重に揺らしていた。
「僕は、浪人をしているんです」そう僕は言った。「家族と離れて暮らしているし、友だちと呼べるような相手はいません。ずっと一人で過ごしてます」
男は顔を上げてまぶしそうに僕を見た。
「ときどき、すべてを投げ出したくなることがあります。でもダメです。そんなことをしても何の意味もありません。じぶんが辛くなるだけです。進み続けるしかない。でもたまらなく苦しいんです」
「ああ」と彼は言った。「そういう気持ちはわかるよ」
「じぶんが、どこでもないはざまに生きている気がします。あなたの話を聞いたとき、あなたの王国もそんなはざまにあるんだろうと思ったんです。神さまを信じることができず、かといって残された時間をただ生きることもできなかったあなたが、つくりだした王国だから」
彼は僕の目をじっと見つめた。
「いってしまう前に、僕の解釈を聞いてほしいんです。とても個人的なものです。でも伝えたい。あなたは、王国の中心で燃える火の正体がわからないと言った。僕はあの火が、あなた自身なんだと思う。どこにもいけないはざまの中心で、煌々と燃えつづけているもの。それは今日まで生きつづけてきたあなた自身のいのちなんだ」
彼は黙って僕の目をまっすぐみすえていた。
「だから、僕はあなたのことを描くように、あの火を描いてみようと思います。絵を完成させます。あなたはこの世界に作品をのこすことになる」僕は男の手をにぎった。「それだけじゃない。あなたの王国のことをもっともっと描きたいんです。あなたがつくりだした世界を、生きた証を、僕がみんなに伝えます」
「本気なのか」
「やってみます。うまくできるかはわからないけど——」
「たのむ」と彼は僕の手を握って言った。地の果てから響いてくるような声だった。「たのむぞ」
「だから聞かせてください。残された時間で。あなたの王国のことを、そこに住む人々や起こったできごとを」
そのときだった。巨大な銅鑼の音が三度、鳴り響いた。男の方に視線を戻したとき、彼の目が僕の背後に向けられていることに気づいた。
「お前だったのか、俺たちを引き合わせていたのは」僕の肩越しに立つ何かに向けて、男はそう言った。それとほぼ同時に、背中をなにかに刺し貫かれる感覚があった。なぜだか痛みはなかった。その代わりに肺が熱く苦しくなり、僕は空いている左手で思わず胸を抑えた。これが目の前の男の感覚だと理解したときには、すでに僕の意識は拡大していた。男の肺はものすごい速度で、清らかな水に洗われるように癒されていった。身体を犯していた熱が飛び去り、世界の新鮮な空気が全身をうるおした。救済がやってきたのだ。脚のない男は誰もいない通路を歩いていた。あらゆる瞬間にそうであるように、右脚の断面の焼けつくような痛みのことを考えていた。そして突然妙な熱さを感じ、その熱源を探した。身体のバランスを崩し、転ぶ、と思った。しかし転ばなかった。視線を下ろしたとき、じぶんの右脚はそこに戻っていた。熱はそこから上ってきていた。これが俺のからだだ、俺の体温なんだ、と彼は思った。妹は人が密集していくステージをぼんやりと眺めていた。友だちが携帯で写真を撮るのを片目に、栄養ドリンクの最後のひと口を飲み干す。お兄ちゃんもこれをどっかで見てるのかな、とふいに思いながら。僕の両親もそこにいた。妹と同じようなことを考え、いくつかの記憶がふたりの心の奥底でうずを巻いた。痛みのようなあとを残す。部活動の仲間たちはそれぞれの願いを口にしていた。銅鑼の響きが鳴り終わるまでに3回願いを口にできたら叶う。そんな迷信を聞いていたから。親戚、学校の先生、近所の人たち、引っ越していった友だち、どこかで一度だけ会った人、たくさんの顔が僕の意識を通り過ぎていった。その中には僕がこれからの人生で出会うことになる人たちも含まれていた。彼らはそれぞれの時間を過ごし、そして「顕現」を見ていた。そこに在ったのは僕の人生の象徴だった。僕は僕自身を見つめていた。ほかの人たちの感覚を通じて、ひどくあいまいな僕自身を見つめていた。涙がとまらなかった。でも今はそんなことにかまけている暇はない。僕は流れこんでくる無数の人のすがたの中に、男の輪郭をさがした。男の記憶、思い、痛み、そのすべてをみようとした。変わらない天井、光のさしこむ窓、熱く重い身体、刺すような胸の痛み、空咳、そして黄金にかがやく巨大な城郭。揺れる木々、そそぐ陽光、笑い、パンのにおい、ささやき声、武器、国王のマント。その中にひとつだけ異質な記憶がある。純粋な衝動のように激しい記憶。僕がもつのとは異なる体系でできた記憶。それは濃密な暗闇の中、必死で冷たい水をさぐっていた。息を乱し、ひくい唸り声をあげて。やがて引きずりだされたのは彼だった。これは——夢の獣の記憶だ。夢の獣が彼を川からすくいあげたのだ。そして僕をみちびいた。夢の獣が見つめていたのは彼だった。すべてはこのときのためだったのだ。僕はそれを知って安堵した。そして記憶の中の獣は原始的な危機の感覚を全身にみなぎらせる。通報を受けた警察や聖務員が背後から駆けつけていたから。身を隠さなければならない。水をふくんでどっぷりと重くなった彼の身体を、草むらの中に静かによこたえる。そしておびえたように後ろを振りかえる——
振りかえった先には、獣がいた。もう僕の意識は僕の身体に戻ってきていた。部屋にはやさしい午前の白い照明がさしこんでいた。
「お前は、俺をも救いだそうとしてくれているんだね」と僕は言った。硬い毛に覆われた頬をゆっくりと撫でた。
「でも、大丈夫。大丈夫だよ」
僕はそう言って夢の獣のあたたかな首すじに顔をうずめた。夢の獣もわずかに僕に身体をよせた。そして僕の手を小さな灰色の舌でなめると、身体の輪郭を朝の光のなかにぼかしていった。
立ち上がった彼が僕の肩に手を置く。彼が歩いて部屋を出るのについていく。
庭には、彼女とかつて脚がなかった男がいた。彼女の背には一対の巨大な白い翼が生えていた。初雪のように綺麗だった。かつて脚がなかった男は彼女の右手を握っていた。肺病の男はふたりと無言の視線をかわすと、空いている彼女の左手を握った。
「そろそろ行くね」彼女は言った。「またね」
本当に必要なときほど、ふさわしい言葉は見つからないものだ。僕が何かを言う前に、彼女は羽ばたいていた。まばたきをしたときには、もう3人は高い高い空中へと飛翔していた。目をこらしたが、射し込んでくる光でよく見えない。目がなんとかまばゆさに慣れる頃には、3人は黒い点のようになっていた。そこにはたくさんの黒い点が舞っていた。彼らはうれしそうに、しかしどこか切なそうに、ドームの天井を旋回しつづけていた。やがて名残を惜しむように、ゆっくりと、光のむこう側に姿を消した。
その一部始終を見とどけたあとで、出口をさがそうと僕は思った。




