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カーニバル①

その頃、僕はある大学の文学部にいた。帝都の西側にある平凡な大学だった。でも、大学はあらゆる意味で問題ではなかった。僕はその大学に行きたいと思ったことはなかったし、入学式を迎えるまでキャンパスの位置すら勘違いしていた。小説家になりたいという漠然とした思いはあったものの、大した本は読んでいなかったし、文学部で何を勉強するのか考えたことはなかった。要するに、自分の人生や生き方に注意を向けたことがなかったのだ。当時の僕にとっては、帝立第一大学に合格することだけが至上命題だった。とりあえず大学には入ったものの、その目標を諦めることができず、ほそぼそと勉強を続けていた。とはいえ合格したからといって学びたいことも、やりたいこともあるわけではなかった。合格しさえすれば、僕という存在が高められ、それによってすべてが上手くいくと、そう思いこんでいた。

 世の中では、ひとつの時代が終わろうとしていた。はっきりとした出来事があったわけではない。皇帝が崩御したわけでも、戦争が起こったわけでも。ただそれは予感として僕らの中に存在していた。世界がこのままの形で続いていくはずがない、きっとこれはいっときの夢に過ぎない、そんな思いがときどき僕たちの鼻先を掠めていたのだ。大学図書館の地下1階にある、ひっそりとした隅のテーブルで受験勉強を続けていた僕にさえその予感があったのだから、街で生きている人たちにはもっとはっきりした感覚があったことと思う。

 そんな予感を現実にしていくように、あるニュースが持ち上がった。7月のことだ。帝都の夏はひどく暑かった。僕は北のへき地の出身だから、あんなに粘ついた暑さは初めてだった。そういう夏のさかりの時期に、新宿駅前の大型モニターでその映像を見た。

 ニュースキャスターは、国立教典研究所の外観を映した映像をバックに、こう告げていた。昨夜未明、外典に書かれていた1428番目の預言を、研究員のグループが成就させることに成功した。近年発展していたマイクロ技術を先駆的に導入し、物理法則にさからった「例外状態」を生成、その空間内でとある二つの矛盾した現象を同時に発生させたのだ、と。かつまた、今年は大聖霊暦の五千年紀にあたる節目の年であり、今回の預言の成就は「顕現」をつよく望みうるものだと考えられている。そんな内容だった。

 この報道はすぐに世間をわき立たせた。大陸の国家が、秘密裏に教団を組織して「顕現」を狙っていることはよく知られていた。僕たちはそんな国々と、いわば「顕現」のレースを続けていたのだ。ことの本質は要は安全保障にあった。得体の知れない大国が「顕現」を起こせば、|まだこの世には存在しない技術アブセント・テクノロジーを享受し、悪用される可能性が高い。それにくらべて僕たちの民族は、原初から穏やかな宗教的儀式の実践と、非戦の観念を表明してきた。僕たちの国だけが三千年のあいだ、一度も戦争を経験したことがなかった。「歴史に基礎づけられた信頼」(と、よくその手の論者は口にした)を持つわれわれこそが、「顕現」の栄誉をあびるにふさわしく、その圧倒的な力によって世界の秩序を保つ使命を負っている。多くの人はそのように考えていた。もちろん、そうは考えない人もいた。こんなことは単なる軍拡競争に過ぎないのであって、やけどをする前に手を引くべきだとか。|まだこの世には存在しない技術アブセント・テクノロジーの急速な導入は、技術発展のペースを異常に加速させる危険なものであり、「顕現」自体が二度と起こらないよう手を打つべきだとか。とにかくいろいろだった。誰もがじぶんなりの考えを持ち、それを武器のように振るっていた。連日テレビ中継が放映され、僕が受けていた大学の授業でも、教授がじぶんの思想を語ったりした。

 世の中は、まるで熱に浮かされているようだった。学生も社会人も、昼休みにときどき行っていたうどん屋の従業員も、そのことばかり話していた。僕にはわからなかった。宗教的な話題に不案内で、内容がつかめなかっただけではない。そんなことで大騒ぎできる人びとの気持ちが理解できなかったのだ。いったいなぜ、じぶんには直接関係のないようなことで、それほど必死になれるのだろう。そんなことより僕には数学の問題を一問でも多く解く必要があった。夏のオープン模試も近づいていた。何の役にも立たない思想の開陳で授業を15分もオーバーさせないでほしかった。


 それでも、世の中の流れは着実にひとつの方向性を持ちはじめていた。夏休みに入ってしばらく経つと、大聖霊暦の更新を祝うカーニバルが開かれるという噂が持ちあがった。皇帝が侍従に開催の意向を伝えたと言う。嘘か本当かはっきりしない話だったが、たぶん本当だったのだろう。9月の半ばに、国民全員を対象とした超規模のカーニバルを開催するという宮内庁からの公式発表があった。ちょうど同じ頃に模試の結果も出た。B判定だった。浪人生にとってはつらい成績だった。

 開催は12月21日、冬至の日になると布告された。どうやら儀式はいつも冬至の日に行われているようだった。それから、原始宗教の頃からの伝統にならって、国民全員の参加が義務とされた。1億2千の国民が、中部地方の平原にある直径20kmのドームに集合することが決まった。


 世の中は騒がしかった。いつもあたらしいニュースが現れ、昔の議論が掘り返されていた。どこかで誰かが生まれ、誰かが殺されていた。株価が上昇し、下落していた。僕は夏の終わりに数学の参考書を買い足した。その参考書はとても難しくて、1日かけて2題解くのが精一杯だった。

 ときどきあてもなく電車に乗ってみた。お金がなかったので、いつもきせる乗車だった。帝都を抜けて隣の県に行き、どこかの駅のホームに降りる。その土地の空気を吸い込んで帰ってくる。それだけだ。それだけのために大学の授業を休むこともあった。誰も僕がいないことになど気づいていなかった。この時期、僕を僕として認識していた人は一人もいなかった。誰も僕の帰りを待っていなかったし、僕がどこで何をしているのかという事実になど誰も興味を持っていなかった。その意味では、大学の教室だろうが、隣の県を走る列車の中だろうが、自分の部屋の中だろうが、どこにいても同じだった。どこにいても僕は透明だった。そうなるのも無理はなかったと思う。僕自身でさえ、僕を僕として認識できていたのか分からないのだから。


 いつしか僕も、カーニバルのことを考えるようになっていた。勉強に疲れたときに、よく目をつむってドームの情景を想像した。金色に輝く室内、何層もの客席の並び、数えきれない人の姿、美しい管弦楽……そういう情景を思い浮かべていると、なぜだか心がわき立ってくるのだった。きっとそこには、とびきり不思議で圧倒的な何かが待っているのだ。目が眩むほど明るい何かが……。

 ときどき、「栄光あれ」と壁に向かってつぶやいてみることもあった。でも何に栄光があってほしいのか、自分にもわからなかった。皇帝でも、神でもないことはたしかだった。だからといって具体的なイメージがあるわけではなかった。

 壁は何も言わないまま、そんな僕のことを静かに見つめていた。

 


 2


 ドームは綺麗な半球の形をしている。直径は20km、もちろん高さも10kmあって、天山山脈よりエベレストより大きい。流れる雲が球面にぶつかってよく雨を降らしている。政府の発表では、あくまで人間のテクノロジーだけで建設されたそうだ。でも誰もそんなことは信じていない。24年前、アフリカ南部で「顕現」があったときに、誰かがこの世界にはまだ存在していなかった金属を手に入れた。それを使ったにちがいない。というのが僕たちのあいだで広がっている通説だった。

 内部は儀式にふさわしく、抑制された美しい装飾で統一されていた。調光が行きとどき、無数の間接照明が空間をほのかに照らしている。足音を出さないぶあつい深紅のカーペットが敷かれたゲートをくぐると、そこには8層に分けられた客席が広がっている。どこからでも音がよく聞こえるようにという配慮のためだ。見上げても見上げきれないほど、はるか彼方の天井まで人がぎっしりと立ち歩いている。その光景は凄絶と言うほかない。

 しかし、景色に気を取られている暇はなかった。妹との約束の時間をすでに10分過ぎてしまっている。『まだ? はやく来ないとママたち帰ってくるよ』という妹のメッセージに返信しながら、幅50mはある広い通路を早足で通り抜ける。客席は区画ごとに分けられ、数字とアルファベットの識別番号が与えられている。そのとき僕の右手にあったのはa-7という区画だった。ずっと行くとb-7、そしてc-7にさしかかった。そこが僕たちの家族がいる区画だった。


「あ、先輩!」最初に僕を見つけたのは部活動の後輩だった。彼は最後列の座席に寄りかかって通行人を眺めていた。

「久しぶり」

「お久しぶりです。元気してましたか?」

「まあね。かれこれ1年ぶりか」

「そうですよ。不思議なもんですね。毎日会ってたのに!」後輩はそう言って身体の向きをステージの方に変えた。「みんな先輩がいつ来るのかって話してましたよ。正直、俺はもう来ないんじゃないかって思ってました。大変だってうわさも聞いてたし」

「ぎりぎりまで勉強してたかったんだ」それから僕は思い出して言った。「てか、お前も受験生だよな」

「はは、ばれました?」

「初日からいるの?」

「はい。というか、高校の生徒はみんな初日から来てます。いろいろ手伝わされたんすよ」

そのとき後輩は大きく手を振った。視線の先には僕の同期たちがいた。みんな走ってきた。それからしばらくもみくちゃにされて、いろいろな話をした。みんなは昨日集合していた。事前に遅れると連絡していたので、こうして僕を待ってくれていた。まだ2日目だったが、みんなはもうたえまなく流れる管弦楽にうんざりしていた。入れ替わり立ち替わり、さまざまなオーケストラが現れて朝も夜も常に音楽を奏でつづけていた。それは古い伝統だった。人が唯一示すことのできる、世界に対しての祝意だとされていた。そんなステージを取りかこむように、小さなカーニバルがそれぞれの区画で催されていた。大道芸人によるショーもあれば、高校生による新体操などもあった。そんなお祭りさわぎを満たしていくように、音楽はドームの中心にある孤島のようなステージから僕たちを揺らしつづけていた。

 客席には、たくさんの見知った顔があった。まずは高校時代のクラスメイトたち。座席は戸籍ごとに登録されるので、大学進学と共に散っていったみんながこの区画に戻ってきていた。中学校、小学校で一緒だった懐かしい顔もあった。親戚の家族もいた。いつかの葬式で出会ったおじやおば、近所のひとの姿も。僕は誰にも話しかける気にはなれなかった。どうせ近況を聞かれて気まずくなるか、何かしらの論争に巻き込まれるだけだった。

 あたりを眺めていると、ふいに僕は視界の端に妹を見つけた。妹も周囲を見回していた。あわてて階段を降りていくと、妹は待ちわびていたように立ち上がり、「ねえおそすぎ」と僕をなじった。

「ごめん。広すぎて迷った」

「ここでずっと演奏聴いてる身にもなってよ」

「わるかった」と僕は財布から千円を取り出して渡した。妹は少し表情をほころばせた。

「まだ二人は帰ってきてない?」と僕は聞いた。

「うん。まだ。色々見にいくつもりみたいだったから、結構かかるんじゃない」

「そっか」

妹は呆れたように「そればっかりだね」と言った。「そんなにパパとママに会いたくないなら、こっち来なきゃよかったじゃん」

「お前には会っときたかったんだよ」

「それで、元気なの?」妹は僕を演奏がよく見える中列の座席に座らせ、自分はその隣に座った。

「うん、まあ」

「勉強の調子は?」

「ぼちぼち」と僕は答えた。「元気だった?」

「ふつう。とくに何もないね。彼氏もできないし」と妹は言った。それからにんまりと笑い、「お兄ちゃんさ、自分がいなくなってから、家の雰囲気がどうなったか気になってるんでしょ。あたし、お見通しだからね」

僕が何も言わないでいると、「安心してよ。ちょっとさびしいから」と妹は言った。「ママも謝りたいって言ってたよ。試験前にさ、仲直りしたらどうなの」

「わるいけど、まだ話したくないんだ」と僕は言った。

「そうやって意地張ってても、いいことなんて何もないと思うけど」

「わかってる」

僕は座席を立った。そろそろいなくなる頃合いだった。僕は両親に会うつもりはなかった。話をすればすぐに相手を傷つけてしまうのが目に見えていた。複雑に絡みあった記憶の連鎖を解きほぐさずにはいられないだろうことは。落ちるとわかっていて薄氷を踏む象なんていない。

「ちょっと待ってよ」妹はうんざりした様子で僕を呼び止めた。「ママがね、どうせ会いたくないとか言うだろうから、もし会ったらこれ渡しといてって」

かばんから取り出されたのは、小さなビニール袋だった。3本の茶色いびんが入っており、ぶつかりあって静かな音を鳴らした。中には折り込まれた何枚かの紙幣が入っているのも見えた。

 僕はそれを手にとって眺めた。

「やるよ。中のお金も自由に使いな」僕は少し考えてからそう言った。そのまま座席をあとにした。後ろから妹の呼びかける声が聞こえた気がしたが、大きくなった演奏にさえぎられてよくわからなかった。まわりでは友だちが「もう行くのか」と聞いてきた。僕はみんなにお礼を伝えながらも、足を止めなかった。止めてしまったら、そのまま引き返してしまう気がした。



 3


 一度歩きだしてしまうと、むしろ気持ちは楽になった。そのまま僕はしばらく歩き、振り返っても誰も見えなくなってから、通路の壁にもたれかかった。長く呼吸をした。頭の奥に、不思議な異物感が残っていた。人と話すときに使う部位だ。そのまましばらく目の前をいきかう人の姿を見渡していた。誰もみな目を輝かせていた。隣には家族や恋人や友人がいた。手をつないだり、腰にまわしたり、肩をくんだりしながら、ささいなおしゃべりを交わしてどこかに向かっていた。彼らには目的地があった。ぼくと彼らとのあいだには透明な壁があり、それが見えないレーンのようにどこまでもつづいていた。ぎっしりとした、ぶあつい壁だ。僕は外の世界で、この壁の存在に気づかないまま、無益な体当たりをくりかえしていたのだと思った。今はもうその壁を乗りこえようとは思わなかった。とにかく勉強がしたかった。


 しばらく休んでから立ちあがって、また歩いた。どこにいくというあてもない。でもここは特別な儀式の場で、見るべきものはたくさんあった。僕はSNSを参考にして、二つ区画をまたいだ先のカーニバル会場に向かった。そのカーニバルの名物は15段にわたってつみかさねられたデコレーションケーキだった。僕が到着したときにはもう6段目まで食べられていた。それでも人びとははしごにのって注意ぶかくフォークをのばしていた。まわりでは中学生たちが讃美歌をうたい、地区のパフォーマーが抽象ダンスを踊っていた。首を切られた七面鳥のまる焼きが、まだ半分以上食べのこされたままテーブルにたたずんでいた。

 また別の区画では大道芸人が立ちよって観客を集めていた。背の低い小柄な男性だったが、引きしまった太ももの筋肉がタイツのうえに浮きあがっていた。彼はナイフを4つから投げはじめ、あらかじめ渡されていた5つ目と6つ目を小さな男の子と女の子が投げいれても、華麗にそれらを投げつづけた。最後には足もとに置いていた木製の小箱の中に、それらを次つぎに投げいれていった。ナイフたちは、まるで小箱にひきよせられ吸いとられているような不思議な軌道をえがいた。それから火をふいた。火は大きくなったり小さくなったりした。ときどき僕たちの鼻先まで近づいてくる瞬間もあり、誰もがひやりとした。大道芸人が指を鳴らすと、火は青くそまった。それから緑色になり、黄色になり、赤にもどり、こんどはむらさきになった。僕たちは歓声をあげながら拍手を送った。大道芸人はその火でわかしたコーヒーをひとりの男性に手わたすと、ふかぶかとおじぎをして、スーツケースの中にはいっていった。どうなるのかとみんながつばをのみこんでいると、地面から大きなけむりがわきでてきて、そのあとにはもうスーツケースも大道芸人もどこかに消えていた。


 そんな風にして、僕は区画を転々としながら一日目の午後と二日目を過ごした。休憩所、定食屋、居酒屋、ときには区画ごとの出し物のために並べられた見物席に座って、勉強をつづけた。誰にも話しかけず、話しかけられなかった。僕がかろうじて人間の形をしていると認識されるのは、ものを買うときと、就寝のため空いている座席に座らせてもらうときだけだった。要するに、どこでも一緒ということだ。カーニバルの中にいようが、外の世界にいようが、何にも変わらなかった。

 カーニバルはおおよそいち区画ごとに行われていたが、ときには区画内でもふたつ、みっつのカーニバルが並行して催されていた。見わたして目にはいる広い空間の中で、いったいいくつのカーニバルが開かれているのか。それはおそろしい数になるはずだった。おそろしい数の参加者がいて、おそろしい数のケーキや料理がふるまわれ、おそろしい数の七面鳥の首が切られ、おそろしい数の学生やパフォーマーや大道芸人が芸を披露しているのだ。そしてドームの中心ではとらえどころのない不思議な音楽がずっと鳴っている。僕はそれらすべての音を聞きながら三次関数の異なる3つの実数解の値の範囲について考えていた。カーニバルが5日間であることに僕は感謝した。1週間もここで過ごしていれば、たぶん僕の頭はおかしくなってしまうだろう。



 ある区画で幼児たちのお遊戯を眺めながら勉強しているときだった。急に脇からものすごい勢いで何かがぶつかってきて、僕は1mほど吹っ飛ばされることになった。ちょうど踊りが盛り上がったタイミングで、観客は歓声を上げたり、立ち上がって手を叩いたりした。それで僕が襲撃されたことに気づいている人は誰もいなかった。

 顔を上げたが、襲撃の犯人はどこにも見当たらない。ちょうどそのとき、「ちょっと、何やってんの!」と後ろから声が聞こえてきた。

 声の主は僕を通りすぎると、その先の何もない空間に手を当て、「ほら、ちょっと落ちつきな。あんたがこんなに興奮するなんて珍しいね。どうしたのかな」と言った。真っ白な修道服に身につけた女の人だった。彼女はそれからすぐこちらにやってきて、手際よく僕のことを抱き起こした。

「ごめんね。けがはないかな」

「大丈夫です」そう言った途端、僕は小さな悲鳴をあげることになった。真っ黒な体毛に身を包んだ、細くしなやかな体躯の動物が彼女の背後に立っていたのだ。

「きみ、夢の獣がみえるの?」とその女性は聞いた。

「あの黒くて細いやつですか?」

「ちょっと指ささないで、また興奮しちゃうから」彼女は僕の手を下ろさせた。「マジでみえてるんだね。結構びっくり。あの子もきみのことが気になってるみたいだし」

その女性はあごに手をあててすこしのあいだ考えごとをしていた。僕はそのおかげで彼女のすがたをはっきり目に留めることができた。年齢はたぶん、僕と同じくらいだった。表情にすこしだけ幼さを感じた。衣服は近くで見てみるとありえないほどの白さで、ドームの照明をかすかに反射してさえいた。髪は肩にのびるくらいのセミロングで、うすい金髪だった。

「きみ、何者?」と彼女は聞いた。「聖職者?」

「いえ、全然」と僕は答えた。テーブルに散らばった参考書を指さす。「浪人生ですよ。受験勉強をしてるんです」

「まじか」彼女は心底驚いたという表情をうかべた。

「いったいどうしたんですか?」と僕は聞いた。

「きみ、夢の獣について何か聞いたことはある?」

「うーん」と僕は唸った。「神話で、たしか旅人セテレを暗い森の中で導くんでしたっけ」

「そう。それで天界に連れていくの」

「あとは、いきなり姿を消すからいまだに生態が解明されていないってことくらいですね」

「まあこっちだとそんなもんだよね」彼女は言った。「この子たちはね、祈りに集まる習性があるんだ」

「祈り?」

「うん。広く言えば、人のつよい気持ちっていうのかな。こっちだと『リビドー』とか呼ばれてるよね。そういう心の動きに敏感なんだ。他に好きなものなんてない。蛍が水に集まるように、この子たちは人のそばにだけ現れて、そこにいつづけるんだ。えさは食べるけど」

「おかしいな。心あたりなんてないですよ。志望校に行きたいって気持ちには自信ありますけど」

「だから不思議なんだ。この子、きみのこと見つけたらまっすぐ走ってった。あたし、結構いろんな子と仲良くしてきたけどさ、あんなに興奮したのは見たことないよ」

「なんなんでしょう」と僕は言った。

「きっとじぶん自身でも気づいていないようなつよい思いが、きみの中にあるんだよ」と女性は言った。


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