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Yamghur

作者: 辰井圭斗

 アパートの階段を駆け下りると小雨が降っていた。白く、雲の隙間から光が差して、地球に降り注ぐ無数の小隕石が炎の軌跡を引いている。手の中のスマホが冷たく濡れて。こんなことなら、あなたの番号くらい聞いておくのだった。だって、私は今この瞬間、あなたのことばかり考えている。


 海辺に雨は降って、私の足からは鉄の鎖が伸びている。鎖は深く海の底に繋がって、私を強く引くのだ。今回もきっと抗い切れずに海に沈むのだろう。私は帰って来られるだろうか。手を開く。なにか、あなたに見せられるような、きれいなものを掴んで帰って来られるだろうか。鎖がゾルリと低く鳴った。


 白木のベンチが雨に濡れている。「いつもここにいます」と置手紙したあなたはここにいない。私はベンチを撫でながら、あなたのことを考える。きっと会えることは無いのだろう。でも、いつもここにいてくれるなら、いつもここにいるという在り方でこの世界にいてくれるなら――もう、それでいいのだ。


 図書館の螺旋階段を上がると、踊り場にあなたの作品が飾られている。そういえば、あなたはここに住んでいるという噂だ。あなたの姿を見たことは無いが、ほっとした。もう外の世界は酸の雨で物語も何もかも溶かし尽くされてしまった。私の身体も、もう無い。けれど、安心したから眠れるだろう、やっと。



「Yamghurというのはウイグル語で雨という意味です。この単語を初めて見た時、ああちゃんとそういう言葉があるんだなと思ってしまいました。ウイグルというと、雨の降らないタクラマカン周縁のイメージだったので」

 私はカフェでコーヒーを飲んでいる。外は雨だ。私の向かいにいるあなたはボールペンで引かれた影だけで、その影すら、端から消しゴムで消されつつある。

「でも、意味は『雨』なのだと言っても、日本語の雨とは語感が異なるでしょうね。まして、ずっと雨降りにいる私とは持つイメージも大きく違うでしょう」

 百年。

「あなたを探し始めてから百年目です。あなたの影をこの街の巨大な空虚で追って、それだけの月日が経ってしまいました。その間毎日雨です。だから、私にとって雨はあなたに会えない象徴なのです」

 でも、そうでない私もいるのかもしれない。

「夢を見ました。あなたに会えると言って喜んでいる私の夢です。やけにリアルだったものですから、案外胡蝶の夢というのは本当にあるのかもしれないなと思いました。私の方が夢なのかもしれない。どちらでもいいですが――とにかく、無限世界の雨を裂いて、いつかあなたに会える私もいるのかもしれません」

 消しゴムが擦過してあなたの影が薄く空気に溶けてゆく。きっとそう時間は残されていないのだろう。そもそも最初から、私の声が届いていたのかすら分からないが。

「まあ、会いたいなんて感情も大概脳のバグだと思ってますが、結局今日もあなたを探してここに来てしまったのだからため息が出ます。でもね」

 あなたの影はもう跡形もない。だから、これは独り言。

「会えないなら、会えないという事実ごと愛しく思えてしまう程度にはあなたのことが好きです」



 雨の向こう、遠くにあなたの背中が見える。道に広がる水たまりが、いくつもの光景を映す。地球に降り注ぐ小隕石を、鎖の繋がる海を、白木のベンチを、図書館の螺旋階段を、影だけが残ったカフェを。その水たまりを波紋で乱しながら私は走る。雨を裂いて。あなたに会う。


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