誓約書へのサイン
追手は一時間程で戻ってくるだろう。
逃げても追いつかれるなら、隠れるしかない。
「前進しましょう。なるべく修道院に近いところで隠れて、追手が行き過ぎるのを待つわ。それから、修道院に駆け込むのよ」
「では一人先行させて、隠れられる所を探させます」
隊長がそう言って、一人を先に行かせた。
私とマリーは馬車に乗り込み、再び修道院に向かって走り始めた。
心臓がドキドキしている。このドキドキは、トーマス様に感じたものとは全く違い、体が冷たくなっていくような嫌な感じを伴っていた。
その内に、先行していた兵が戻って来て、少し先に、かなり狭いが馬車を引き込める場所があると報告した。
馬車の速度が更に上がった。
兵が見つけた場所は、細い道の奥にあり、馬車で乗り込むと、道を囲む木の小枝が、バキバキと音を立てた。その音がすごく大きく感じられ、気が気ではない。
空き地になった所に出て、馬車を停めた時には、とりあえずホッとした。
「ここからだと、修道院までどのくらいあるの?」
私は小さい声で問いかけた。
「馬車でしたらすぐですよ。実のところ、ヒヤヒヤしていたのです。あまりに修道院に近いので、いつ追手と出くわすかと、肝が縮みました」
じゃあ、すぐに到着ね、と考えてふと疑問を感じた。
「修道院にはどうやって入るのかしら。受付とかあるの?」
「道に面して正門があります。そこの門番に訪問の用件を告げて、招き入れられるのを待つんです」
「じゃあ、追手がそこで待っていたら、中に入れないわね。他に出入り口はない?」
「業者や、使用人が使う裏口があって、そちらはもっと出入りは簡単です。私達も、正門で護送してきた女性を引き渡した後、裏門から入って、帰り支度を行います」
帰る前に馬を休めたり、色々準備が必要ってことね。それなら、裏門から入ってしまったらどうかしら。
それを隊長に話すと、どういう理由をつけるおつもりですか、と聞かれた。そうよね、もっともらしい理由が必要よね。
「長旅で、寝込んでいることにしたらどうかしら。それで馬車に寝かせたまま、運び込むしかなかった、とかはどう?」
隊長は、私をじっと見たまま、寝込む、と一言呟いた。マリーも私をしげしげと見た。
「ピンク色の頬がピカピカ光っています。このままでは、あまりに不自然ですよ」
そう言って、ゴソゴソと何かをあさり始めた。
マリーが木箱から取り出したのは、休憩の時の、薪の燃え残りだった。炭になった部分を手に付けてから、私の頬に塗ると、もう一度私の顔を眺めて、良さそうですね、と言った。
その次に、目の周りにもそれを塗った。
「これなら、体調が悪いと言っても通ります。どうでしょうか」
「そうですね。これなら納得させられますね。正門と裏門は、かなり離れているし、大分手前から分かれ道になっているので、正門に見張りがいても、走り抜ければ入れると思います。先触れを出しましょう」
先程偵察に出た兵が、再び送りされることになった。多分要領が良くて気が効いた人物なのだろう。見た感じにもすばしこそうだ。
そのまま、しばらく息を殺して待っていると、再び騎馬集団が本道を走り抜けて行った。その音からして、先程より人数が少なく感じられた。多分、数名を修道院の前に残しているのだろう。
それが遠ざかった後、兵が送り出された。兵は目につかないように、王宮騎士の制服を脱ぎ、軽装で出かけて行った。その少し後に、私たちは横道から本道に出て、修道院に向かった。
怖くて外を見たくないのに、不安で見ないでは居られない。時々窓から外を見て、すぐに頭を引っ込めた。
前方に大きな建物が見えてきた。敷地もとても広そうだ。本道のずっと向こうに、馬に乗った兵が二人いるのが目に入った。あれは追手だ。
私はマリーの体にしがみつき、体を小さく丸めた。そうしても何の違いがあるわけではない。分かっていても、体に入った力は抜けなかった。馬車は本道からの分かれ道に入り、修道院の裏門の方へ全速力で走った。体がバウンドするほどの勢いだった。
私は怖いので、もう後ろは見なかった。道路前方の右側に、質素だけどガッチリとした門がある。
早く門を開けて。
そう強く願うと、それに応えたかのように、門が開き始めた。そこに速度を緩めないまま、馬車は後輪を大きく滑らせて突っ込んでいった。
門を開けている男が、驚いて横に飛び退ったのが、ちらっと眼に入った。
隊長は、このまま建物の入り口に付けろと叫んだ後、馬から降りて、門を閉めるのを手伝い、しっかり錠をかけている。その様子を見て、私はやっと一安心出来た。
「すまない。運んできた令嬢の体調がひどく悪いのだ。一刻も早く手当てを頼む」
隊長がそう言って、修道院への取り次ぎを頼んでいる。
門番は、病人を装ってふらつきながら馬車を降りる私を見て、血相を変えて修道院に飛び込んで行った。私の演技力が凄いのか、マリーの塗った炭の威力なのかが気になった。
「マリー、私の顔って、そんなにひどいの?」
「真っ青になって震えています。本物の病人に見えますよ」
そう言うマリーも同じようなものだった。これでもう大丈夫なのだろうか。
隊長がもう一人の門番を呼んで、馬車を停める場所を確認している。そのせいで、門前には誰もいない状態になっていた。
馬に乗った騎士が一人やってきて、門前で声を掛けたが、門番はしばらくお待ちを、と大声を張り上げた。
そうするうちに、体のガッチリした修道女が二人やってきて、私を両脇から支えて建物内に運んでくれた。緊張で目が回っていた私は、引きずられるように廊下を進み、応接室らしきところに運び込まれた。
ソファの背にもたれていると、一人の中年の修道女が前に座った。修道女のベールから茶色の髪がみえている。濃い茶色の目は心配そうに私を見つめていた。ふっくらして慈悲深そうな修道女だった。
「私が修道院長のカスリーです。ようこそ、リディア・ハント嬢。お加減が悪いと聞きましたが、まずはこの書類にサインをお願いします。申し訳ありませんが、この修道院内で手当てするには、これが必要なのです」
「はじめまして。リディア・ハントと申します。よろしくお願いします」
修道院長から渡された書類は、修道院に見習い修道女として入る事を希望し、その規約に従うという誓約書だった。そこには、これから1年は、決して修道院から退会することは出来ない、と書かれていた。
望む所だわ。私はさっさとサインを書き込んだ。
修道院長はサインに目を通し、ようこそ、リディアと言って微笑んだ。
心無しか、始めの微笑みとニュアンスが違う。猫がネズミを前にしたような、サディスティックな雰囲気があった。
あ、これ、駄目な人だ。私はすぐに悟った。
ロイに言われたように、いつもは人を見る目があると自負している。ユーリ様は例外中の例外だ。
「すみません。スペルミスをした気がします。もう一度見せていただけますか」
咄嗟にそう言って、誓約書を取り返した。そこに、修道女2名がやってきて、修道院長に耳打ちした。
「リディア嬢。王宮から迎えが来ているそうです。今回の修道院送りに誤解があったそうなのですが……」
修道院長の微笑みが、また慈悲深いものに変わった。怖い人だ。今なら逃げられると一瞬迷った。
でも、それをしたら隊長や兵やマリーが闇に葬られるかもしれない。私は迷いを振り切り、目に前の怖い女の庇護下に入ることに決めた。
「あの、サインは間違えておりませんでした。お返ししますね」
手の震えを止めることもできないまま、誓約書を院長に返した。院長はすぐにサディスティックな笑みを浮かべた。
「それでは、もう変更はできません。この誓約書は王族でも破ることができないのです。今日からあなたはシリカ修道院の見習い修道女です。こちらのシスターについて行ってください」




