馬車は走り出した
婚約者が手刺繍した品を、他の女に渡すなんて、ありえない。
あり得ないのに、なぜかそれが起こってしまう場合とは?
「ユーリ様が落としたハンカチを、ドロレス様が拾ったのかと思っていましたわ。そうですわよね」
これ一択だ。それ以外は言い訳にならないもの。ユーリ様、そうでしょ、と視線で答えを促した。
しばらく間が空いたが、ユーリ様はしっかりと答えてくれた。
「……そうだ」
「では、断罪もありませんわね」
「罵倒はあったのだろう。それは勘違いではないはずだ」
「罵倒ではなく、ご忠告です。侯爵家の令嬢ともあろう方が、婚約者のいる王子殿下につきまとうのは、問題があると申し上げました」
この正論に、誰が言い返せるだろう。
「候爵家のほうが位が上だ。伯爵令嬢のお前が、物申すのはおこがましい」
アララ、驚くことに、ユーリ様が言い返してしまいました。
侯爵家とはいえ新興で、たかだか三世代、しかも財政が逼迫しているグレイ家。
引き換え我がハント家は、開国からの由緒ある伯爵家で、財産は王家に次ぐのだ。比べてもらったら、怒った父が婚約を破棄しかねないので、止めて欲しい。
まさかとは思うが、まさか、ハント家の実際の地位を理解していないとか? いや、そんなことはあるはずがない。
「では、ユーリ様にお伺いしましょう。婚約者のいるユーリ様が、他の女性を夜会に伴うのは、問題ございませんの?」
ユーリ様の綺麗なお顔が真っ赤になった。
と思ったら、すごい剣幕で警備に付いていた護衛たちを呼んだ。
「皇族への不敬罪で、リディア・ハントを捕まえろ」
そのまま私は、王宮内の一室に押し込められて放置され、夜も明けない内に、囚人護送用の馬車に放りこまれてしまった。そしてこれから、国のはずれにある、監獄のような修道院に送られると聞かされた。
一体、私が何をしたというのだろう。
いえ、罪名は言い渡されたから、わかっている。そう、不敬罪に問われたのだ。
でも、由緒ある伯爵家の令嬢、しかも自分の婚約者を、いきなり拘束する? 何の申し開きもさせずに、修道院送りにする?
驚いているけど、それ以上に呆れて、護送の任に当たっている騎士団の隊長らしき男に尋ねた。
「私は第二王子の婚約者なのだけど、ご存じよね? いずれ王家に名を連ねる者を、こんな風に扱うのは有り得ない事よ。この処罰は王の許可を得ているの?」
「第二王子様のご指示に従っております」
隊長は丁寧に受け答えをしてくれたけれど、この事態の意味は分かっていないようだった。
「これは王家の取り決めた婚約を、勝手に反故にするような暴挙よ。ユーリ様はクーデターでも起こすつもりかしら。あなたは分かっていて従っているのね?」
「私は何も聞いておりません。ユーリ殿下の指示に従っているだけですので」
隊長がうろたえ始めた。クーデターなんて言葉が飛び出すとは、思っていなかったのだろう。でも、これは我家門に剣を突きつけたに等しい。
私はこの国の経済面を牛耳っている、ハント伯爵家の一人娘なのだ。そしてその私を父は溺愛している。
父は、母が亡くなってから、再婚もせず私を大切に育ててくれている。権力、財力に、美貌まで備えた36歳の父には、これまで縁談が山のように来ているはずだが、それを全て断っているらしい。
父の淡い金色の髪が私は大好きで、なぜそれを受け継がなかったのかと嘆くと、お前の髪の色は特別に美しいと言ってくれる。美女の誉れ高かった母と同じ色だ。はっきり言って、よくある普通の茶色の髪だが、父にとってはそれが最高らしい。
瞳は父と同じ鮮やかな緑色で、それはとても気に入っている。私が、お揃いね、と言うと父は嬉しそうに笑う。
そして私の我儘は、大抵なんでも聞いてくれるのだ。ユーリ様との婚約だって、王家からの打診を断ろうとした父を、私がハンストで脅迫した結果だ。
「それに修道院に送ってくれるにしても、五日間もの旅に、付き添いの女性は必須よね。手配は出来ているの? まさかだけど、あなたたちだけじゃ、ないでしょうね。それだと、父が何をするかわからないわよ」
隊長もあらためて、これはまずいと気付いたのだろう。指示を再確認してまいりますのでお待ちを、と言い残し走り去った。
大分待ってから、ユーリ様が隊長と共にやって来た。私の侍女のマリーを伴っている。マリーは私の姿を見ると、泣きそうな顔をした。たぶん彼女も、昨夜からここに留め置かれたのだろう。
対照的に、ユーリ様は平然として、私の姿を眺め回した。
「疲れた顔をしているな。ドレスもしわくちゃだ。可哀想に」
言っている言葉と裏腹に、表情は意地悪そうで満足げだ。この人、本当にユーリ様なの? いつも微笑みを絶やさない、優しく美しいユーリ様とはまるで別人だ。
「王に了承を取っているか、気にしていると聞いた。気になるだろうから教えてあげよう。数日前に、父から婚約解消の承諾を得ている」
「まさか……。私は、聞いていませんわ」
「そうかもな。内々の話だから、まだ伝わっていないのかもしれない。だが、そういうことだ。だからこれは、単なる一伯爵令嬢の、皇族侮辱罪として扱われる。安心して修道院に行きたまえ」
「でも、なぜです? 私は何もしていないのに」
ユーリ様は大げさにため息を吐いた。そしていつもの優しい声で言い放った。
「僕は君のことが嫌いだ。できたら顔も見たくない。理由の一番はそれだな。あんな暴言を吐かなければ、ただの婚約破棄発表だったのに、残念ながら君は、不敬の罪を犯してしまった」
ユーリ様は、芝居がかった様子で首を振り、目を覆った。
「だから、目の前から、消えてもらおう。さようなら、元婚約者だったリディア嬢」
私はしばらくポカンとして、ユーリ様の去っていく後姿を見送った。思いがけないにも程があった。
つい五日前には、午後のお茶をご一緒しながら、パーティーのことを話していたのに。あの微笑みは、優しいエスコートは何だったのだろう。
真白になっていた私が、ようやく周囲に注意を向けた時には、馬車は郊外を走っていた。
ここどこかしら。
そう思った途端に、お腹が空いているのに気付いた。
もう日もだいぶ陰ってきている。昨日の昼から、何も食べていないのだから、お腹が空いて当たり前よね。
私は馬車の窓から身を乗り出して、隊長を呼び、食事休憩を頼んだ。
いくらなんでも食事もしないで、ひたすら走るなんて事はないはず。だって監獄と噂される修道院まで五日も掛かるのだ。
「食事休憩はいつになるの?」
そう聞いたら、とても軽い、紙で包んだ物を渡された。なんだろう、と思って見ていたら、隊長が言いにくそうに教えてくれた。
「ハムとパンです」
カサカサと包みを開けてみると、薄いパンの上に薄いハムが一切れ載っている。どれだけケチくさい料理人が作ったのかと、感心するほど薄いハムだった。
マリーが覗き込んで、ボロッと涙を流した。
「こんな嫌がらせのような事をするなんて。以前から、性格が悪いとは思っていましたが、やっぱり最低野郎でしたね」




