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9. オリヴィア王太子妃の憂鬱


 オリヴィアは常に冷静沈着であろうと心がけている。将来、国母となるのだ。民の命を預かる王妃となる。動揺しては国を導けない。でも、今は千々に乱れる心を制御できない。


 王都ではなく、少し離れた国境近くの王家直轄地に向かう馬車の中。オリヴィアは両手でこめかみを押さえ、必死で己を奮い立たせようとしていた。


「確かめなくては」


 そして、必要であれば事を正さなくてはならない。誰かを断罪しなくてはならないかもしれない。そうならないことを願うが、いざとなれば心が引き裂かれようとも成し遂げる。


「おお、神よ。変えられないものを受け入れる心の静けさと。変えられるものを変える勇気と。その両者を見分ける英知を我に与え給え」


 難局に立ち向かうとき、いつも賢人の言葉を唱える。オリヴィアは目を閉じて、その時を待った。


 直轄地の屋敷に着くと、慌ただしく使用人たちがオリヴィアを迎える。


「奥様、なにかございましたか?」

「所要があって立ち寄ったのよ。あの人は?」


「殿下は騎士団と共に兵を労いに国境の砦に向かわれました」

「今日こちらに戻るのかしら?」


「はい、間もなくお戻りになるかと」

「そう。ではこちらで待つわ」


 オリヴィアは旅行用の衣装を脱ぎ、ドレスを選ぶ。


「深緑か赤紫か」


 どちらも好きな色だ。深緑のドレスは袖のドレープが大きく広がっているところが気に入っている。しめつけがほとんどなく旅先でくつろげるドレス。袖の優雅さがその気軽さを隠してくれる。


 赤紫のドレスは右肩から大胆に開いていて右腕はむきだし、左肩から長い袖が垂れ左腕を覆う。非対称性が斬新で華やかなドレス。


「そうね、今日はこちらにしましょう」


 赤紫色のドレスを選び、侍女に着付けを任せる。


「髪はいかがいたしましょう、奥様」

「そうね、自然な感じで流しておいて」


 髪を高く盛るのも好きだけれど、旅路の後は頭皮を休ませたい。肩や首も固くなってしまっている。侍女が髪をゆるやかに巻いていくのを眺めながら、オリヴィアは何を問うか考えていた。支度が整ったところで、食堂に移動する。ひとりでいるのもいいけれど、今は人の気配がする場所の方が落ち着く。


 王宮よりはるかに気安く、人々がオリヴィアに接してくれる。今はそれが嬉しい。


「奥様、搾りたてのリンゴジュースはいかがですか?」

「そうね。白ワインと混ぜてちょうだい」

「はい。お疲れなんですね、奥様。白ワインを多めにいたしましたよ」


 給仕係が朗らかに笑いながら、グラスを置く。なみなみと注がれたリンゴワインを口に含む。緊張がほぐれていく。ぼんやりと入口を見ていると、人の声と足音がたくさん聞こえてきた。兵士たちに交じって、ひときわ背の高い男が入ってくる。


 もてあましそうなほど手足が長いのに、流れるように滑らかな身のこなし。無造作にかきあげられた金の髪。彼が入ってくると、誰もがすぐに気づく。室内の温度が上がる。皆が興奮するからだ。


 一人ひとりを蕩けさせるような独特の視線で見ながら移動している。最後に、奥に座っているオリヴィアに視線が届いた。あらがえない。目を合わせると、オリヴィアの思考が止まる。


 凍てついた氷も一瞬で溶かしてしまいそうな、温かい笑顔が顔いっぱいに広がる。その笑顔を見せる相手は、オリヴィアだけのはず。はずだった。


「オリヴィア、来ていたのか。我が最愛の妻」

「ボイド」


 情熱的に抱き上げられ、グラスが傾きそうになる。給仕がすかさずオリヴィアの手からグラスを救い出した。


 彼の子どもを五人も生んだのに。初めて会った時と同じように胸が締め付けられる。


「君に会えて嬉しい」


 ボイドのキスは熱い。その瞳からあふれる愛情にウソはない。そう信じたい。それが真実でないなら、彼は天才的な役者かペテン師だ。


 オリヴィアはボイドの手を取って、食堂の外にあるバルコニーに歩いていく。手を握ったまま向き合う。


「辺境の街の孤児院で、左腕のない青年に会ったわ」


 オリヴィアの赤紫の瞳が、ボイドの青い瞳をとらえる。


「彼の左腕の肘の内側にはアザがあったらしいの」


 オリヴィアはボイドの左の袖をスルリとまくり上げる。肘の内側にある三日月形のアザを親指で撫でた。ボイドの目がかすかに揺れる。


「彼の名はオースティン」


 ボイドの目から涙がこぼれ落ちた。


「生きていたのか。よかった」


 ボイドの少ししゃがれた声にウソはない。オリヴィアはアザから手を放し、ボイドの頬に手を添える。


「亡き者になっているはずだった? あなたが命じた?」


 ボイドがオリヴィアの手を強く握る。


「君と神に誓う。命じてなどいない。あの時、亡くなったと思った。忘れたことはなかった。君に言えないことが苦しかった。すまない」


 ボイドとオリヴィアは長い間話し合った。いつの間にか、空に三日月が現れていた。


***


 三日月が雲に隠され、フクロウでさえ惑うような夜。


「お父さま」


 明かりの灯っていない私室に入った騎士団長は、飛び上がった。目を凝らすと、いつの間にか愛娘のオリヴィアが目の前に立っている。


「お父さま、正直に白状なさいませ」

「ヒッ」


 騎士団長は小さく声を上げた。首に冷たいものが当たっている。愛娘の目が、はぐらかそうとすると切る、そう言っている。


「辺境の小さな孤児院にいる青年と会いましたの。二十歳ぐらいで、背が高く、金色の髪に澄んだ青い目。美しい青年でしたわ。古代の神々の彫刻かのような美貌。たったひとつ、欠けているのが左腕なのです」


 騎士団長は、絶望した。最も知られてはならない人に、暴かれてしまった。


「あの青年は息子なのでしょう? わたくしの夫の」


 騎士団長は目と口をギュッと閉じた。黒いヒゲが震えている。


「ボイドは認めているわ。さあ、さっさと話してください。お父さまがオースティンを孤児院に預けたのよね? どうして?」

「時期が悪すぎたからだ。殿下は、子どもができていたことをご存知なかった」


「ボイドは一夜の過ちだと言っていたわ」

「殿下の初めての魔物討伐の夜、さびれた宿屋に泊まった。その夜、したたかに酒を飲まれた殿下の部屋に宿屋の料理女が忍び込んでいたらしい。殿下は覚えていらっしゃらなかったが」


 オリヴィアの手に力が入り、剣の切っ先がわずかに騎士団長の首を傷つけた。生温かいものが首を流れる。


「三年後、遠征の際に殿下がその娘から声をかけられたのだ。そして、殿下は息子がいることを知らされた。お前との婚約が発表された直後にだ。なぜ今、そう思った」


「だから、お父さまが命じたの? オースティンの母の殺害を?」


「何を言うのだ、オリヴィア。お前と神に誓う。そのような恐ろしいことは考えたこともない。殿下と彼女のやりとりを聞いていた街のごろつきどもが、誘拐して身代金をゆすろうと考えたのだ。手違いがあって、彼女とオースティンの左腕が犠牲になった」


「ボイドは、オースティンが左腕の切断が元で亡くなったと信じていたわ。なぜなの?」

「俺がそう信じ込ませたからだ。その方が、王家と俺にとって都合がよかったからだ。それが王国のためにもなると、信じていた」


 騎士団長たちが踏み込んだときには、既に血の海だった。オースティンの母はこと切れていたが、オースティンはまだ見込みがあった。高価なポーションを腕にぶっかけ、出血を止め、癒しの術を持つ軍医がつきっきりで看病した。


「お父さまがあの孤児院に毎年多額の寄付をしているのは知っていたわ。なぜだろうと思ったけれど、深く考えなかった。オースティンが孤児院にいたからなのね」


 騎士団長はガックリと肩を落とす。


「あの子には償っても償いきれないひどいことをした」

「私のためだったのだろう。謝るべきは、私だ」


 隣の部屋からボイドが入ってくる。ボイドはオリヴィアの手から剣を取り、棚に置いた。騎士団長は跪き、うなだれた。


「殿下、お許しください。長年、殿下をだまし続けておりました。そして、殿下の血を引くオースティンを孤児院に閉じ込めておりました」


「許すも何も、私のためにしたことであろう。我々が許しを請うべきは、オースティンだ。そして、オリヴィアだな。オリヴィア、すまなかった」


「事情は分かりました。謝罪は受け入れます。至急オースティンと会う手配をするわ」


 夫と父の後始末。オリヴィアの得意分野。オリヴィアは速やかに関係各所に連絡した。


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夫と父の後始末が得意分野って…!!!! 王太子妃の苦労がしのばれる一文ですわ……でも有能な娘あるあるですよね……
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