7. オースティンのささやき
オースティンのおかげで、頭から出るささやきのことが分かってきた。会話をしているときは頭の前の方が活発にささやく。ウサギと追いかけっこをしているときは、頭の真上のやや前側。ウサギを撫でているときは、真上のやや後ろ側。昔のことを思い出しているときは、左耳の後ろ。ウサギを見守っているときは、後頭部。お酒を飲むと、首の上あたりがぼんやりとなる。
「今はどんな気持ちですか?」
「今は、のんびりして穏やかな気分かな」
「ウサギを撫でて心が安定すると、頭の前側がとても静かになります。お茶会の後はいつも騒がしいです。ザワザワしています」
「お茶会は疲れるからね。みんなの話を聞いて、表情を読んで、適切な相槌と仕草をしなければならないから」
リディアはお茶会のときのオースティンも、もちろん監視した。隣の部屋から黒い糸を伸ばし、オースティンの全身を調べるのだ。漏れ聞こえる会話は、リディアにはよく理解できなかったけれど、一緒に盗み聞きしていたフィオナが憤慨しながら説明してくれた。
「まあ、あの女性。あからさまにオースティンに愛人にならないかって言ってるわ」
「わたくしの庇護のもと、穏やかにときには熱い日々を過ごしてはいかが、と言ってたけど。そう意味なのですか」
フィオナが軽くうなずいたあと、両手を持ち上げ目を丸くする。
「まあ、あきれた。別の女性が、今まで寄付したのだから、デートのひとつもしてほしいですって」
「子羊の寝床を温かく清潔にでき、わたくしの心も春の湖のようですが、春風はまだ冷たく湖畔を歩くわたくしの体は震えておりますの。一緒に眺めてくだされば、わたくしの心も体も満たされましょうに、ですか。こうやってデートに誘うのですね。とても遠回りです」
リディアが感心している横で、フィオナはのぞき穴に目をつけている。
「オースティンってば、誘いを受け流すのが上手なんだわ。慣れてるわ。困った顔で微笑んで、目を伏せてる。まつ毛が長いから、憂い顔が絵になるわね。ご夫人たち、赤くなってウットリ見とれてる」
「誘いを断るときは、下を向いて困った顔をするのですね。私がその技を使う必要はなさそうです」
「リディア姉さん、その手はオースティンぐらい百戦錬磨のモテ男しか使いこなせないわよ。リディア姉さんはね、こういうのよ」
「妹のフィオナに相談します」
リディアとフィオナの声が揃った。フィオナがクククと笑いを漏らす。
「そうよ、分かってるじゃない。私が対策を考えてあげるわ」
「いつもありがとう、フィオナ」
「まだその機会は訪れてないから。お礼を言うのは早いわ」
「そうでした」
フィオナの助けを借りながら、お茶会の恐ろしさとそれがどのようにオースティンに影響するかを理解したリディア。しみじみとため息を吐いて、オースティンを見る。
「私にはとても無理です。ずっと黙って紅茶を飲んでいるしかできないです」
「リディアはそれでいいんだ。君は他の人にはできないことができるんだから」
他の人にできないこと。全身を調べて治療すること。でも、リディアは他の人ができることで、できないことがたくさんある。目を合わせて会話するとか。言っていいことと、言ってはいけないことを見極めることとか。でも、オースティンに肯定されると、いいのかなという気持ちになる。
オースティンとウサギを見ている時間は好きだ。
「ウサギに生まれたかったって思うことはありませんか?」
「たまにあるかな。でも、人もなかなかいいもんだと思い始めたよ。ピーナッツバターとブルーベリージャムをたっぷり塗ったパンを食べられるからね」
「確かにそうですね。ウサギになったらパンケーキを食べられません」
ふたりはウサギを眺めながら、パンケーキとピーナッツバタージャムパンを食べる。パンケーキの最後のひと切れで、お皿の上のハチミツをきれいに拭い、リディアは切り出した。
「オースティン、今日は実験をしたいのです。奥様の伝手でお借りした本の中に、興味深いことが書いてありました」
遠くの暑い異国の地で軍医師をしていた人の記録。仕事柄、手や足を失った兵士を長く診てきたその軍医師。休暇の時にサーカスを見て思いついたのだそうだ。
「オースティンにも効くといいのですが。やってみてくれますか?」
「もちろん。なんでもするよ」
「そう言ってくれると思って、もう準備してあります」
リディアはオースティンを庭の片隅にあるテーブルのところに連れて行く。テーブルの上には大きな木箱。木箱の側面には穴がふたつ開けてある。
「オースティン、座ってください。そして、木箱の穴に手を入れてください」
オースティンの途中で切れている左腕をまず穴に通す。次に右腕。両腕を通してから、右側の蓋をはずす。
「オースティン、箱の中を見てください」
「こ、これはどういう」
「両腕の間に鏡が入っているんです。右腕が鏡に映って左腕があるように見えるでしょう」
オースティンがうなずく。リディアは祈るような気持ちでオースティンに指示をする。
「鏡を見ながら両手の拳を強く握ってください。そうです、もっと強く」
鏡の中に、強く握りしめられたふたつの拳が見える。指の関節部分が赤くなり小刻みに震える。
「痛いですね? 両拳が痛いですよね?」
オースティンの額に汗がにじんだ。
「オースティン、私を信じてください。私はオースティンと軍医師を信じます。いいですか、私が大きく手を叩いたら、拳をパッと広げてください。そうすると、両拳の痛みが消えます」
オースティンの膝に汗がポタリと落ちる。リディアは思いっきり両手を叩いた。パッとオースティンが拳を開く。風が吹き、オースティンの汗の匂いを感じた。ウサギたちは後ろ脚で立ち上がり、鼻をひくつかせている。
オースティンが見上げる。青空のようなオースティンの目と、ピーナッツバターのようなリディアの目がピタリと合う。オースティンの青空の目が、風に吹かれた湖のように揺れる。
「痛くない」
「はい」
「痛くない、リディア。痛くないんだ」
「はい」
オースティンは木箱から両腕を抜き、立ち上がるとリディアの手を取った。
「ありがとう、リディア。俺の命を君に捧げたい」
オースティンは跪き、額にリディアの手を当てる。
「命は捧げないでください。命を救うのが私の仕事ですから。私から仕事を奪わないでください」
「分かった。では、どうやってお礼をすればいい?」
「そうですね、今まで通り、オースティンの頭の中を調べさせてもらえれば嬉しいです」
「もちろんだ。いくらでも」
リディアは空いている方の手をオースティンの頭の上にそっと乗せた。ウサギを撫でているときのように、柔らかい金色の髪に触れてみる。
「私の頭の前部分が静かになっている気がします。とても落ち着きます。これからも撫でてもいいですか?」
「もちろん、いつでも、いくらでも」
「よかったです。いつもウサギがいるわけではありませんから。オースティンがそばにいてくれれば、私はいつも穏やかでいられます。でも、オースティンはとても背が高いですから、座っていないと頭を撫でられないですね」
オースティンは静かに立ち上がった。リディアの手が頭からはずれる。オースティンはリディアの腰に右腕を回す。ウサギを持ち上げるときのような優しい力加減で、そうっとリディアを持ち上げた。リディアの顔がオースティンの目の前にくる。
「近いですね」
「だからいいんだ」
「頭が撫で放題ですね」
リディアがうっとりとした表情でオースティンの髪をすく。
「キスもし放題だ」
オースティンはゆっくりと顔を近づける。リディアが嫌がったらすぐにでもやめられるように。リディアは嫌がらなかった。
「イヤじゃなかった?」
「イヤじゃなかったです。ヒゲがちょっとくすぐったいです」
「もっとちゃんと剃るよ」
「大丈夫です。ウサギのヒゲよりは痛くありません。それに、オースティンは少しヒゲが伸びてるぐらいの方がいいです。キレイに剃ると、顔がキレイすぎます」
「そうか。俺の顔のこと、キレイだと思っていたんだ。そんな風に見えなかった」
「整っているものが好きですから。部屋も整頓していますし。オースティンの顔は、なにもかもがきちんとしています」
「リディアの三つ編みみたいに?」
「そうです。私の三つ編みみたいに、完璧です」
「この顔に生まれてよかった」
「この力をウサギから授かってよかった。オースティンの痛みを取り除けました」
「ありがとう」
オースティンは感謝と愛情の気持ちを込めて、もう一度キスをした。今度もリディアは嫌がらなかった。ウサギがふたりの周りで祝福のダンスを踊っていた。