5. リディアと新しい難題
「最後の目的地につきましたね」
孤児院の前で、リディアは最後に残ったトムを横目でチラッと見る。料理人のトムはリディアとフィオナを交互に見て、頭をかいた。
「なんで?」
「奥様に、皆さんを癒してよいとお許しを得ましたから」
「ありがとう。ありがたいけど、俺はリディア様の役に立ってないのに」
トムが困ったように首をすくめた。
「私は確かにペーターのパンケーキがお気に入りです。トムのパンケーキはそこまで好きではありません」
「きっつー」
トムが目をギュッとつぶった。
「でも、トムの淹れる紅茶はフィオナのお気に入りなんです。トムがお茶を淹れてくれた日は、フィオナは目覚めがいいのです」
「えっ、そうなの?」
トムとフィオナが同時に言う。リディアは淡々とうなずいた。
「フィオナの大切な人は、私にとって重要です。そして、トムの大事な人は、私は癒したいです」
「そっかー、えー、わー。俺、なんか感動した」
トムは空を見上げて目を開けたり閉じたりする。
「人数が多いですが、子どもたちが大半なので、それほど時間はかからないと思います」
子どもは大人に比べたら悪いところが少ない。はずだ。
「奥様が院長に通達してくださっているそうです。小さい子から順番に始めます。トムが呼んでください。その方が子どもたちも怖がらないです」
子どもたちが順番にリディアの前に連れられてくる。リディアは効率的に診断を進めた。
「みんな少し痩せてますが、孤児院にしては良い方です」
「奥様が資金援助をしてくださっているんだ」
「奥様こそが、聖女です」
「そうだな、こんな俺を拾って料理人に雇ってくれたしな」
「トムの紅茶を淹れる腕を見込まれたのではないでしょうか」
「言われてみれば、奥様がいらっしゃったときに紅茶を出したな。ひょっとしたら、それが理由かもしれない」
トムは軽く膝をはたくと、伸びをした。
「裏庭にウサギがいるけど、ついでに診てくれると嬉しい」
「ついでがなくても、もちろん診ます」
トムについて裏庭に行くと、ウサギたちが芝生を食べ、のびのびと走り回っている。そんな中、ひとりの青年が芝生の上に寝ころんでいる。青年の上をウサギたちが縦横無尽に飛び跳ねた。リディアは、まるで天国のような場所だと思った。
「こんなところにいたのか、オースティン」
「トム」
起き上がった青年は屈託のない笑顔を浮かべ、トムと抱き合った。ひょろりと背の高いオースティンの右腕がトムの肩に回り、左腕のシャツは頼りなげに風に揺られる。
「左腕はどうしたのですか?」
見て感じたままを口に出すのがリディアだ。それが良い時もあれば、とんでもない事態を巻き起こすこともある。フィオナが一歩リディアに近づく。
「ああ、これ? 孤児院の入口に置かれたときには、もう既になかったらしい。生まれつきか、魔獣にでも食われたか。ないんだ」
オースティンは気を悪くした様子もなく、さらりと言う。
「診てもいいですか?」
「見てもいいけど、おもしろくないと思うけど」
「オースティン、聖女リディア様は病気を治せるんだ」
トムの言葉に、オースティンが眉を上げた。
「本当? なくても平気だけど、生やしてくれるなら、それはそれで大歓迎だ。両腕があったら、色々できる」
リディアはオースティンの存在しない左腕あたりに手をかざす。
「腕が切れたばかりだったらつなげられたと思います。存在しない腕をつけることは私にはできません。残念だけど。でも、何か考えてみたいです」
「ありがとう。冗談で言ったんだけど、本気で考えてくれるんだ。でも、どうして? 俺、君にそこまでしてもらう義理はないのに」
「ウサギたちが、あなたが大好きだからです」
オースティンは首を傾げるが、リディアにとってそれは大きな理由になるのだ。リディアの大切なウサギたちが大好きな人は、リディアにとって助けるべき存在だ。
リディアは芝生の上にまた寝ころんだオースティンの隣に座り、ウサギたちを眺めながら頭の中で文献をめくっていった。
「オースティン、時間だよー。院長先生がそろそろ着替えてってー」
突然子どもの声が響いて、リディアはビクッとした。寝ていたオースティンはのんびり立ち上がる。
「寄付金集めに行く時間だ。貴族のご夫人たちにお願いしてくる。会えてよかった、リディアさん」
「はい。何か思いついたらお知らせします」
リディアはゆったりと立ち去るオースティンの後ろ姿を目で追った。ウサギたちがリディアにプウプウとかしましく鳴く。両前脚で押してくる子、周りを全速力で走る子、激しく訴えて鼻から口のYがせわしなく動く子、ついには足ダンする子まで出てきた。
「みんな、落ち着いてください。よく分かりました。なんとかしますから」
リディアが約束すると、ウサギたちは徐々に静かになり、穏やかにモグモグし始めた。リディアは興奮していたウサギを膝にのせ、ゆっくりと撫でる。柔らかい毛の下で、規則的に動く温かい肌。ウサギの速い心臓の動きがゆるやかになってくると、リディアも思考に集中できるようになった。
「痛み。なぜ痛みがあるのかしら」
ウサギたちが教えてくれた。オースティンは痛みに苦しんでいると。
「どうして、ないものが痛むのでしょう」
オースティンが存在しない左腕の痛みを、誰にも言えずに悩んでいると。
「意味が分かりません。調べるしかないですね」
リディアはそのときをじっと待った。