4. リディアの挑戦
カーラに手を振っていたリディア。座り直しフィオナに報告する。
「カーラ、泣いていました」
「あれは嬉し泣きだよ」
「色んな涙があって難しい」
悲しいときだけじゃなく、悔しくても、嬉しくても、人は泣く。その見分けが、リディアにはつけにくい。そして、もうひとつリディアには理解しにくいことがある。
「みんなに聖女リディア様って呼ばれます。私は聖女ではありません」
「そうね、そう思われても仕方ないよ。だから、いいのよ。その方が、物事が簡単に進みやすいんだもん」
「他の貴族を治すときは、その方が手っ取り早いのは分かります」
どこの馬の骨か分からない平民より、聖女リディアと名乗った方が患者は安心するだろう。でもやっぱり聖女リディア様と呼ばれるたびに、体がかゆくなる。リディアは断じてそのような清い存在ではない。どちらかというと、自分では冥界の使徒だと思っている。
「孤児院にいた、たくさんのウサギたち。病気で冥界に行ってしまって、悲しかったです」
「あのときのリディア姉さんは、消えてしまいそうだったから心配だった」
「ウサギたちが、まだ来ちゃダメって言いました。だから、行かなかった。それに、フィオナを置いて行けないです」
フィオナ以外とは心を通わせるのが難しかったリディア。
静かで柔らかく大人しいウサギたちが大好きだった。ウサギは人とは違って、分かりやすい。好きなものを食べているときは、一心不乱、夢中で食べる。甘えたいときは、すり寄ってきて、プウプウ言う。怒っているときは、後ろ脚をダンッと踏む。
顔は笑っているのに、心の中では怒ったり蔑んだりすることのある人は、リディアには本当の心を読むのは難しいのだ。
世界とのつながり方が分からなくて途方に暮れていた幼いリディアにとって、フィオナとウサギが心のより所だった。
その支えは、繊細でもあった。病気やイタチなどが、リディアからウサギを奪った。リディアはその過程で、生が終わった後のことを知った。今は、冥界に旅立ったウサギたちと黒い糸でつながっている。だから、寂しくはない。
冥界は恐ろしいところではない。でも、大事なフィオナにはまだまだ隣にいて欲しい。リディアの切実な願い、そのことを考えるだけで震えるほどの恐ろしさ。リディアの望みをウサギたちは汲んでくれ、フィオナの健康を害するものをこの世からあの世へ持って行ってくれるのだ。
「フィオナが扁桃腺を腫らして高熱が出たとき、私はこの力を授かりました。ウサギたちとの初めての共同作業」
「私は何も覚えてないんだ」
「熱が高くて危なかったです。恐ろしかったです」
ウサギたちは、人の体に詳しいわけではない。何かおかしい部分を察知して、手探りで悪いものをあの世に移動させてくれた。それ以来、リディアは必死で医学書を読み込み、今ではウサギたちとうまく連携できるようになっている。
そう、だからこれは正確には癒しではない。悪い部分をこの世から抹消させているのだ。ウサギたちが作業の大半を担ってくれているわけで、リディアは聖女と崇められるのはとても居心地が悪い。
リディアの力説を辛抱強く聞いていたフィオナは、肩をすくめた。
「でもやっぱり仕方ないよ。リディア姉さん以外には、黒い糸は見えないし、冥界にいるウサギの存在も感じられないもん。ウサギたちも、手柄を横取りされたとか怒ってないんでしょう?」
「はい」
ウサギたちはとても優しいから、そんな小さなことを言ったりしない。
「聖女は高潔で、無私無欲な人のはずです。私は違います」
リディアが治す対象の優先順位は明確だ。フィオナ、奥様、屋敷の人たち、屋敷の動物たち、孤児院の人たちだ。街中、国中の人を治せるとは思っていないし、そこまでの気力も体力ない。ウサギたちがついているとはいえ、治すのは疲れる作業ではあるのだ。奥様に頼まれれば、知らない貴族を治すことはあるけれど。それは奥様への恩返しだから。
「今のところはなんとかなりました。でも、どうにもできない病気だってあるはずです」
聖女という化けの皮がはがれる日がきっとくる。苦しんでいる人を更に悲しませ、失望される日が。
その日は、すぐに来たのかもしれない。ペーターの母をどう治せばいいのか、リディアには見当もつかなかった。
「疲れやすいんだって?」
「年だからだよ」
ペーターが聞くと、なんでもないという風に母は手を振る。リディアは黒い糸で、ペーター母の全身をくまなく調べた。特に悪いところは見つけられなかった。臓器の炎症や、どこかに悪いしこりがあったら、事は簡単なのだ。それをウサギの力で冥界に持って行ってしまえばいい。悪いところがなければ、できることはない。
でも、ペーターの母は不調なのだ。なぜなのだ。
リディアは椅子に座って、身じろぎもせず壁の一点を見つめる。頭の中に、今まで読んだ医学書を思い浮かべる。
「妊娠しにくい年齢になると、めまいや疲れ、動悸が起こる女性もいると書いてありました」
それだろうか。それだとしたら、リディアにできることはほとんどない。ずっとそばにいられるならば、なんらかの症状が出るたびに緩和策を施すことはできる。でも、リディアはいずれ王都に戻らなければならない。奥様は忙しい、いつまでも旅行し続けられない。
「そういえば、医師の日記を読んだことがあります」
リディアは日記を頭の中でめくっていく。
「患者は無意識の内にウソをつく。そう書いてありました」
自分が病気だなんて認めたくない。だから、医師に申告すべき症状を、なんとなく言わなかったりすることがあるとか。
「医師はじっくり患者から話を聞き、色んな質問をし、謎を解かなければならないのでした」
リディアにできるだろうか。対人関係はいつもフィオナに丸投げしていた。
「フィオナは医学的な知識はそれほどない。やっぱり自分で質問するしかないです」
苦手な会話だけれど、がんばってみよう。でも、不安だからフィオナについていてもらおう。リディアは決心した。
「奥さん、それでは質問を始めます」
リディアは大真面目に紙を見る。聞くべきことを全て書いたつもりだ。隣にはフィオナ、前にはペーターとペーター母。みんな、どことなく緊張した面持ち。
「朝、昼、晩、いつが一番疲れますか?」
「そうねえ、やっぱり夜かしら。朝から仕込みをして、昼からお客さんを迎えて、夜遅くまで店を開けているから。閉店して家に帰ってベッドに入ったらもうクタクタ」
「家族でレストランですか。朝から晩まで働いていたら、それは疲れます」
病気ではなく、やはり疲労の蓄積だろうか? リディアは考えながら次の質問に進む。
「今までにどんな病気にかかったことがありますか?」
「大きな病気はないわねえ。冬になると風邪ひきがちだけれど。大変なのはやっぱり妊娠出産よね」
「はい」
妊娠出産は女性の人生にとって一大事だ。リディアは未経験だけれど、その大変さは分かっている。ペーター含めて六回出産したのだから、すごいことだ。
「何かを食べた後に気持ち悪くなることはありますか?」
「焼きが足りなかったお肉を食べて、上からも下からも出たことがあったわ」
「そうですか。それ以外はありますか?」
「特にないと思うわ。なんでもおいしく食べられるわね」
「はい」
食欲は問題なしと。今のところ何も見つからない。いや、でもまだまだ質問することはあるから、焦ってはダメ。
「夜はよく眠れますか?」
「それがねえ、何回も起きちゃうのよ。なんだか最近お手洗いが近くて」
「はい」
多尿、または頻尿を引き起こす病気。色々ある。リディアは天井を見つめ、関係のありそうな医学書を思い出した。尿と言えば腎臓。腎臓に影響を与えうる臓器は他に肝臓もある。膀胱に問題がある場合も。副腎の機能が悪くなって、多尿と顔が丸くなる症例があった。
「顔が丸いですね。最近ですか? 生まれつきですか?」
「生まれつきなのよお。でも最近もっと真ん丸になってきたの。体も顔も丸いのよ。こんななのに、父ちゃんはアタシのことがまだ好きなんだって。ハハハ」
ペーター母は急に元気になって大笑いし始めた。ペーターとフィオナがつられて笑っている間、リディアはまた紙に目を落とす。ひとつ手がかりができた。でもまだ足りない。もっと聞かなくては。
リディアの喉が枯れ、ペーター母の丸い顔がややしぼんだ頃、ようやくリディアの質問は終わった。
「残念ながら、まだ原因がつきとめられません。しばらく、奥さんを監視しますね」
「え? はあ、監視?」
「家やレストランの状況を調べたいです。カビ、悪い水、湿気、食べ物、病気の原因はいくつもあります。生活習慣も知りたいです」
「まあ、そこまでしてもらわなくてもいいんですよ。いい年だから」
「いえ、それでは私の気がすみません。それに、奥さんが元気にならないと、おいしいパンケーキが食べられなくなるかもしれません」
なんとしてもペーター母を元気にし、ペーターに憂いなくパンケーキを焼いてもらいたい。リディアの言葉に、隣のフィオナが頭を抱え、ペーターは視線をそらし、ペーター母はまた大笑いした。リディアはペーター母が笑っている理由は分からなかったけど、笑いは人を元気にするという文献を読んだことがあるので、大いに笑ってほしいと思った。
真剣で詳細な聞き取り調査の後、リディアとフィオナは交代でペーター母の監視に入った。いつどこで何を食べ、飲み、お手洗いに行き、誰と話し、寝て、何回起きたか。眠い目をこすりながら、ふたりは観察し、書き留めた。ペーター家族も協力してくれ、五日間みっちりと調べた。
「俺の母親のために、ここまでしてくださってありがとうございます。おふたりの妥協しない姿勢を、家族全員が尊敬しています」
ペーターは頭が地面につきそうなぐらいに下げて、声を震わせながら言う。リディアは心ここにあらずという様子で一点を見ている。
「もう少しで何か分かりそうな気がするのです」
どこかで似た症状を読んだ。確か、異国の偉い人の伝記だった。リディアは医学書だけでなく、伝記も熱心に読んでいる。病気や体調などが書いてあり、参考になるのだ。
「確か、東の国の偉い人。自分の人生は満月のように満ち足りていると歌った人」
贅沢な食事でふくよかになった体。喉が渇きよく水を飲み、お手洗いの回数が増え、目の衰えと胸の痛み、倦怠感に悩まされていたらしい。
ペーター母は、レストラン閉店後に残りものを食べ、寝るという生活をしている。胃もたれと頻尿で眠りが浅い。似ている、そんな気がする。
砂漠の国の王や、天才的な音楽家、東の国の英雄がかかっていたのではないかと言われている病気。飲水病。
「飲水病かもしれません。どうしよう、治療法がまだみつかってないです」
リディアは大声を出し、立ち上がった。ペーターは尻もちをつく。
「飲水病ってどんな病気ですか?」
ペーターがかすれ声で聞いた。
「初期症状は喉の渇き、倦怠感、手足のむくみとしびれ。徐々に傷が治りにくくなり、血管がつまり、腎臓が壊れ、失明、いずれ心臓が止まる」
「そんな」
ペーターは真っ青になった。
「リディア姉さんなら、きっと治せる。きっと」
フィオナが祈るような声を出す。
「調べます」
リディアは座って天井を見つめる。今までに読んだ飲水病と思われる全ての文献を思い出す。ペーターとフィオナは、息をひそめるようにじっとしている。
日が傾きかけたとき、リディアが深く息を吸った。リディアの目がペーターとフィオナの間に向けられる。
「特効薬はありません。でも、なんとかできるかもしれない」
「やった」
「よかった」
ペーターが飛び上がり、フィオナはリディアに抱きついた。
ペーター家族は一丸となって母の病気と向き合っている。
「食事と運動を健康的にすれば、母ちゃん元気になれるって」
「野菜中心、薄味、塩と油は減らし砂糖はなし」
「がんばる」
ペーター母は悲壮な表情。リディアはペーター母の腕の中にそっと大切な存在を置いた。
「私と心が通じるウサギを見つけてきました。この子をかわいがってあげてください。この子がずっとそばにいて、奥さんを見守ります」
リディアとフィオナは、ペーター家族に手を振りながら馬車で発った。