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3. リディアをとりまく人たち


 若葉が日に日に濃い緑色に変わり、土と花の匂いが強さを競う春の日。

 リディアは苦しんでいた。


「気持ち悪い。胸がムカムカするし、頭がボーッとする。私、召されるのかしら?」

「リディア姉さん、まだ召されないと思うよ。馬車に乗りながら本を読むと酔うんだって。御者さんたちが言ってた」

「ううう、そういうことは、もっと早く言ってほしかったです」


 いつも以上に顔色の悪いリディアが、春の妖精のように溌剌とした妹フィオナに恨みがましい目を向ける。


「水を飲んで、少し寝たら気分もスッキリするって。ほら、医学書はもうしまって。私にもたれかかっていいから、ね」

「ありがとう。さすがフィオナ。ダメな姉さんでごめんね」


 リディアは重い頭をフィオナの細い肩に乗せる。


「いいのよ、そんなこと。姉さんのおかげで旅行に出られるんだから」

「ううん、それはフィオナがエドガーさんを説得してくれたからよ。何から何までありがとう」


 お互いが大好きな姉妹は、お礼を言い合っている。



 別の馬車では、料理人のペーターが頭を抱えていた。


「どうしてこうなったー」


 うっかりフィオナに悩みを打ち明けたら、とんでもないことになってしまったのだ。


「いやあー、奥様は本当に気前がいいなあ。たまげるわ」


 同じ馬車に乗っている料理人仲間トムがのんきな口調で言い、うつむいているペーターの背中を強く叩く。


「お前の母親の病気を治すために、リディア様と旅行に連れて行ってくださるなんて。普通じゃない。すげえ。さすが聖女リディア様を見出した奥様。やることがハンパない」


「意味が分からない」


 ペーターが弱々しい声で言うと、同僚は陽気に笑った。


「俺もさ、意味分からんから執事のエドガーさんに聞いたらさ。リディア様はお前のパンケーキが大好きなんだって。パンケーキがいつも通り完璧になるためならなんでもするって言ってたって」

「はあ?」


 ペーターは頭を上げ、トムを見る。


「母親のことが心配でパンケーキにムラができると、リディア様は困る。リディア様が治療に集中できないと、奥様にしわ寄せがいく。だったら問題の元凶を解決するのが一番だから、お前の母親を治そうってことになったらしい」


「だからって、何も奥様まで俺の故郷に行く必要はなくないか?」


「色々あんだろ、大人の事情ってやつが。あんま気にすんな。他にもついでに故郷に里帰りさせてもらえる使用人仲間がいるんだからさ。な、アンナ」


 トムが同乗しているメイドに話を振った。アンナは腑に落ちない表情で、水遊び後の犬のようにブルブル顔を振る。


「本当に何が何やら。いいんでしょうか。旅費も払わなくていいなんて。こんな豪華な馬車で実家に乗り付けたら、母さんが卒倒しちゃうかも」

「うちの村にこんな貴族の馬車が着いたら、村長が泡吹くかも」


 洗濯担当メイドのカーラが乾いた笑いを漏らす。


「そしたら、リディア様が治してくれるって。気楽にな。俺なんて、万一ペーターが使い物にならなかったときに、リディア様にパンケーキ焼くためだけに連れてこられたもんね。俺が一番の便乗野郎さ」


「くっ、俺がちゃんとパンケーキを焼いていれば。俺のバカ、料理人失格だ。恥ずかしい」


「そしたら、この旅はなかったんだぜ。いいじゃねえか、それだけリディア様に認められてるってことじゃねえか」


 トムは動揺する仲間たちを、励まし続けた。




 最初に着いたのは、アンナの実家だった。馬車の音を聞きつけ、小さな家から子どもたちが飛び出してくる。


「かあさーん、お貴族さまの高そうな馬車がきたー」

「畑に父さん呼びに行ってくるー」

「すっげー、あんないい馬、初めてみた」

「ああああー、アンナ姉ちゃんがいる。アンナ姉ちゃん、いい帽子かぶってるー」


 弟妹たちが思ったことをそのまま大声で口から出すので、アンナは真っ赤になった。家から母が出てきて笑顔を見せる。アンナは急いで馬車から降りると、母に抱き着いた。


「アンナ、休暇なの? いつもは前もって手紙くれるのに」

「急に決まったのよ。母さん、ロザリー伯爵夫人にご挨拶して。奥様はこのまま町長の家に行くから、馬車の外から少しだけ」


「まあ、まあまあ、なんてこと。こんな汚い恰好で伯爵夫人にお会いするなんて」

「大丈夫、奥様は心の広いご主人様だから」


 弟に連れられて走ってやって来た父も連れて、ロザリー夫人が乗っている一段と高級な馬車の前に行く。ロザリー夫人は窓を開け、上品な笑顔を浮かべアンナたちを見回した。


「突然来て驚かせたわね。急いでいたの。アンナはよく働いてくれています」

「もったいないお言葉でございます」


 アンナは家族たちと共に恭しく膝を少し曲げて礼をした。


「アンナ、リディアがあなたたちの家族を診てくれます。リディアにお茶でも出してあげて」

「はい、ありがとうございます!」


 アンナは驚いて大きな声を出し、慌てて更に深く頭を下げる。ロザリー夫人の馬車が行くのを、頭を下げたまま見送ったあと、アンナは大急ぎでリディアを迎えに行った。


「リディア様、あの、本当によろしいんでしょうか?」

「もちろんです。アンナにはいつもお世話になっていますから」


 リディアはフィオナを連れて、ためらうことなくアンナの家に入っていく。事態を把握できていない家族たちは、アンナにせかされて後に続く。


「では、年齢順に行きましょう。アンナのお父さんですね。診察しますから、私の前に座ってください」


 リディアは目をつぶり、手をかざす。


「健康そのもの。お酒を少し減らせば、もっと長生きできますよ。では、次」


 リディアは呆気に取られているアンナの父を促し、母を座らせる。リディアはさっきより長く手をかざしていた。うっすらと笑みが浮かび、早口で何かを言っている。あまりに小さくて、アンナはうまく聞き取れず、さりげなくリディアの方に体を近づける。


「──内臓は問題なさそうね。血管もしなやか。流れる血液も清らかな小川のよう。子宮が疲れているようね。無理もないわ、子どもが何人? アンナから始まって弟が三人、妹が二人、あまり休むことなく六人産んだのね。すごいわ。もう終わりにしてもいいころ合いだけれど、産めないこともないわ。そこは神の御心にお任せいたしましょう。あら、これはちょっと問題ね。胸に張りがないわ。年齢の割にちょっと。ああ、でも六人の子どもを育てたなら仕方がないことよね。母親というのは大変ね。張りはともかくとして、右胸に初期のしこりがあるわ。これは取り除かなくてはなりません。ウサギさんたち、出番ですよ」


 なんだか恍惚とした様子で、リディアが指を微妙に動かす。空中でピアノを弾いているみたい。アンナは今までリディアが診察するところを見たことがなかったので、一瞬たりとも見逃すまいと目を凝らした。


「取れました!」


 突然リディアが大声を出したので、アンナは飛び上がった。リディアは目を開き、満面の笑顔を見せる。


「悪いものになる可能性のあった小さなしこりを取り除きあの世に逝ってもらいました。経過観察が必要ですので、旅が終わってアンナを迎えに来た際にまた診ますね」


 リディアは部屋の隅を見ながら満足気に宣言した。アンナは視線の先を確認したが、そこには何もない。ああ、そういえば、この人は視線を合わせるのが苦手だと、メイド仲間が言っていたっけ。アンナは思い出した。アンナにとってリディアはロザリー夫人並みに遠い存在。尊い聖女リディア様とここまで近づいたことはない。


 でも、聞いてた話より気さくというか、変わっているというか、なんだかおもしろい少女だわ。アンナはこっそり失礼な感想を抱いていた。


 アンナが考えている間にリディアは弟妹たちを診察し終わり、冷めかけた紅茶を急速で飲み干しアンナに別れを告げる。


「では、ペーターのお母さんを治して、全てが終わったらこちらに寄ります。休暇を楽しんでください」

「あ、あの、本当にありがとうございます。貴重な癒しの力を私なんかのために使ってくださって」


 だって、アンナはただの使用人。本来ならこんな恩恵にあずかれるはずがないのだ。


「アンナのおかげで私は毎日とても快適に過ごせているのです。これぐらいは当然のお礼です」

「え? でも、私は何も」


「私の肌着は全部アンナが縫ってくれたと、エドガーさんから聞きました。ありがとう。私、使い古して破れそうなぐらい柔らかい木綿でないと、肌がかゆくなってしまうのです。アンナ以外は誰も縫いたがらない布だと聞いています」


 アンナは目を丸くした。てっきり孤児院にでも寄付する肌着だと思っていた。誰もやりたがらない仕事。新人のアンナにいつも回ってくる布仕事。


「それにアンナの縫い目はとても小さいです。肌に当たっても気になりません。素晴らしい技術です。私も見習いたいです」

「そんな」


 アンナは褒められて、言葉が出なくなってしまった。こんなボロ肌着を寄付される孤児がかわいそう。せめて丁寧に縫ってあげよう。そんな口に出すのはためらわれる、少しばかり上から目線で縫っていたのに。まさか、聖女リディア様が着ていらっしゃったなんて。なんてこと。


 動揺しているアンナの手を、フィオナがキュッと握る。


「お屋敷に来てから、大変だったの。孤児院から持ってきた古い服とか肌着、全部捨てられてしまったのね。新しい服や肌着の方が、普通は喜ぶでしょう。私は嬉しかったの。絹のドレスなんて夢みたいだった。でもね、リディア姉さんは新しい肌着だと寝られないし、落ち着かないのよ」


 あのときは大変だったわ、とフィオナがため息を吐く。


「執事のエドガーさんにこっそり相談したら、手配してくださったの。聖女にボロを着させていると思われたら奥様の評判が下がるので、これは秘密ね。大っぴらには感謝できなくて、私も姉も心苦しかったの。やっとお礼が言えて嬉しい」


 フィオナが言うと、リディアは天井を見ながら頷いている。アンナが涙をこらえている内に、リディアとフィオナは馬車に乗り、大きく手を振って出発した。


***


 カーラは、アンナよりは事情を把握している。アンナが聖女の肌着を縫っているのは知っていた。アンナは知らなかったのにだ。


 なぜなら、聖女の肌着や服、ベッドのシーツ類を洗うのがカーラの仕事だから。


「君の仕事は重要だ。この屋敷で、奥様の次に重要な聖女リディア様の肌に触れる布類を清潔に保ってもらう」


 アンナは新人だったから、秘密を守れるかどうか、執事のエドガーが確信を持てなかった。でも、カーラはアンナより数年長く働いていたので、信頼を勝ち得ていた。 


 リディアとフィオナが屋敷にやって来たときは、奥様が血迷ったと感じていた。あんな痩せて小さな孤児の少女が、癒しの力を持っているだなんて。とても信じられなかった。


 気難しいとウワサの奥様が、随分と丸くなられたと、使用人たちの間でひそやかに話題になるようになった。


「もう頭痛がないそうだよ」

「朝起きたときから気分が明るいみたい」

「いつの間にか、関節の痛みが消えたらしい」


「随分とたくさんお召し上がるようになられて。味付けの濃い肉料理も少しずつお出ししている」

「言い方がアレですけど、お若くなられましたよね」

「髪が増えて、カツラで後頭部を隠す必要がなくなったそう」


 執事のエドガーに怒られないよう、こっそりと情報が交わされる。皆、主人が朗らかで長生きしてくれれば嬉しいのだ。いい仕事場だもの。


 驚きは、奥様の健康だけではなかった。使用人たちもなんだか元気になったのだ。洗濯係は手荒れがつきものだ。カーラの手が滑らかだった日は一度もない。寝る前にどれだけクリームを塗りこんだところで、無意味。日照りの夏の土みたいに乾ききり、力を込める指先はささくれ立ち、あかぎれでパックリと割れている。


「そういえば、なんだか手が痛くなくなったような気がする」

「やっぱり? 気のせいかと思ってたけど、カーラもそう? 見て、ほら。あかぎれがなくなったの」


 同僚の洗濯係が手を見せる。言われなければ、洗濯を仕事としている人の手とは思わないだろう。スベスベだ。


「ね、これってさ、もしかして、聖女様のおかげかな?」

「でも、一回も聖女様に診てもらったことないけど。そんなことあり得るかな?」

「ひょっとして、聖女様って離れたとこらからでも癒せるんじゃないかな」

「そんな力があったら、王家の専属になれると思うけど」


 カーラは同僚と顔を見合わせる。


「このことは、内緒にしようね。聖女様が王家に召し抱えられてしまったらさ」

「あかぎれに逆戻り」


 カーラたちは口をつぐむことにした。余計なことを言って、ウワサが出回って、素晴らしくなった職場環境が元に戻るのだけは避けたい。宝を他の誰かに取られるのはごめんこうむりたい。

 使用人たちは、カールセン伯爵家で起こっている奇跡を、絶対に口外しないことを暗黙のうちに感じたのだ。


 滑らかな手を見るたびに、聖女リディア様の力を感じ、自然と感謝の思いが込み上がる。これ以上の恩はとても受け入れられない、そんな気持ちなのに。無料で里帰りさせてもらえることになった。カーラはどうしていいやら分からない。


 感極まっているカーラを追い詰めるかのように、聖女リディアが質素な実家に足を踏み入れ、家族を診察してくれてしまった。


「聖女リディア様」


 カーラは泣き崩れた。


「これ以上のご恩は、どうお返ししていいか分かりません。どうしたら、ああ、どうしたらいいんでしょう」

「カーラがいつも私の服を洗濯して、お日様の匂いに乾かしてくれてくれているお礼です。恩返しは私の方です」

「そんな、そんなあ」


「カーラ、落ち着いて。よく考えて。リディア姉さんも私も、平民の孤児なの。洗濯は自分でやって当たり前だったの。夏はいいけど、冬に洗濯すると手が痛くてちぎれそうになること、よく知ってるの」


 フィオナにゆっくり言われ、カーラは何度も深呼吸した。カーラは家族と抱き合いながら、優しい姉妹を見送った。


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