2. リディアとパンケーキ
リディアが診察するのは、ロザリー夫人だけではない。基本的に、屋敷にいる使用人はリディアの管理下にある。下手に病気になられては困るからだ。
「おいしいごはんが食べられなくなるのはイヤです」
料理人の健康には気を配っている。毎朝のパンケーキはリディアの生きがいだ。二段に重ねられた柔らかいパンケーキの上には、摘みたての果物が美しく飾られている。その上から、尊い輝きを放つハチミツをたっぷりかけるのだ。これほど完璧な朝食があるだろうか。
ウサギの耳ほどに柔らかいパンケーキにフォークを刺し、ナイフで小さく切り分ける。ハチミツをじっくり絡め、リンゴを載せて口に運ぶ。
「素晴らしい、いつも通りの、味……ではない?」
なぜだろう。ほんの少しだけ、舌触りが悪い。ざらついているような。リディアはフォークとナイフを置き、口を布で拭った。ゆっくりと手を組み、目をつぶる。手を徐々に離して、両手の間にある黒い糸の塊を感じる。糸をほぐしながら、台所の方に伸ばしていく。
「いました。それでは調べてみましょう」
台所で作業をしている料理人ペーター。全世界が尊敬すべきパンケーキ係。ペーターは頑強で健やかな二十代の男性。今までの診察で問題があったことはない。リディアはまずは料理人の命である手から調べることにした。
「軽いヤケド、切り傷、手のひらにタコ。でも、問題はなさそうです」
では、腕だろうか。手首から肩までを念入りに糸を這わせる。
「少し筋肉が固いけれど、違和感はありません。炎症もないです」
料理人に多い腱鞘炎は、ペーターには見られなかった。肩から背中、腰、足のつま先まで特筆すべきことはない。
「では、内臓でしょうか? まだ若いのに、おかしいです」
料理人だから試食でたくさん食べなくてはならないだろう。もしかしたら胃が荒れているかもしれない。リディアは糸をペーターの口の中に侵入させる。
「呼吸が荒いです。先に肺を診てみましょう」
重い息を何度も吐くペーターだが、肺はパンケーキのようにフワフワで良好だ。胃は少し荒れているけれど、治療が必要なほどではない。
「ペーター、健康ではないですか」
とてもいいことだ。だけどパンケーキのザラツキの謎は残されたままだ。
リディアは目を開き、フォークとナイフを持ち上げ、冷めてしまったパンケーキを手早く胃に収めた。ザラついているからって残すほど、リディアは強欲ではない。孤児院で慎ましく育ったのだ。おいしければもちろん、多少のアラがあっても残さず食べつくす。それがリディアの信条だ。
健康なペーターが、どうして不完全なパンケーキを作ったのだろう。リディアは考え込む。
「リディア姉さん、眉間にシワが寄ってるけど。どうしたの?」
「フィオナ、おはよう。大事件なのです。いつもは完璧なパンケーキが、今日はちょっとザラッと舌に残るところがありました。ペーターが病気なんじゃないかと思って診断したのですが、健康そのものです。どういうことなのでしょう、フィオナ」
リディアは妹であるフィオナに絶大なる信頼を置いている。リディアは難しい本が苦も無く読めて、病気も治せるが、他人の感情の機微に疎い。フィオナは空気を読むのが得意で、色んな人の複雑な心の動きも察するのがうまい。機転の利くフィオナに、リディアはいつも助けられているのだ。いつだって質問に的確に答えてくれるフィオナ。リディアは期待を込めた目でフィオナを見つめた。
「それとなく観察しておくわ」
「ありがとう。さすがフィオナ」
リディアは悩み事を丸投げできたので、軽やかに立ち上がった。
「医学書を読みます」
リディアは晴れやかな気持ちで私室に向かった。
***
姉のリディアから何かと頼りにされているフィオナではあるが。寝起きは頭が働かないという弱点がある。
「ペーターか」
姉と違って朝は食欲がないので、紅茶にミルクをたっぷり入れ、そこにクッキーをひたしてちょっとずつかじる。
「ペーターねえ」
姉が感嘆するパンケーキを毎日作れる料理人。姉に砂時計という優れモノをくれた人。
「ペーターがジャガイモを茹でるときに砂時計を使ってたんだった。それを見たリディア姉さんが感激してたっけ」
姉は優秀だけど、少し変わっているところもある。
「髪をとかすのが終わらなくて、困り果ててたっけ」
ブラシで百回とかすと決めている姉。数えている途中で、ニワトリが鳴いたりすると混乱して、また最初から数え直して、いつまでも終わらないなんてことがあった。
「フィオナ、百になりません」
フィオナが紅茶を飲み終わっても、朝ごはんを食べに来ない姉の様子を見にいったら、涙目になっていた。
今では流れるように身支度を整えられるようになっている。部屋の色んなところに砂時計を設置し、時間を測っているのだ。
鏡台の前に座り、ブラシを手に持ち、砂時計をひっくり返す。砂が落ちるまで髪をとかす。砂が落ちきったら、ブラシを置き、また砂時計を逆にする。砂を見ながら、三つ編みを結う。こざっぱりしたワンピースに着替え、ボタンを留め、靴下を履き、編み上げブーツを履く。これらも砂時計を見ながらすると、気持ちがいいらしい。
きちんきちんと、順番に片づけていくのが好きな姉には、砂時計が合っていたのだろう。それ以来、姉は一糸乱れぬ身だしなみを保って満足そうにしている。
砂時計をくれたペーターに何か問題があるなら、それは解決しなければならない。砂時計で姉の日々に秩序をもたらせ、パンケーキで姉に笑顔をもたらすペーター。その恩に報いなければ。病気なら姉に任せるところだけど、そうじゃないならフィオナの出番だろう。
フィオナは調査を開始した。といっても、簡単なものだ。台所に行き、ペーターに話しかける。
「ペーター、何かあったの?」
パン生地をこねていたペーターは急に話しかけられて驚いたのか、ビクッとして振り向いた。
「フィオナさん、どうしました? お腹がすきましたか?」
「ううん、お腹はすいてないの。あのね、リディア姉さんがね、ペーターのことを心配してるの。何かあった?」
途端にペーターの視線が動く。フィオナはペーターが話しやすいよう、何気ない様子で辛抱強く待った。ペーターはしばらく言葉に詰まっていたが、何度も唾をのみこみ、ついに口を開く。
「実は──」
フィオナは十三歳にして、既に大人顔負けの処世術を持っている。とびきりの頭脳を持つけれど、人づき合いに無頓着で世慣れていない姉を、幼いころから支えてきたからだ。
問題は発見した時点で、半分解決したようなものだと、フィオナは知っている。年若いフィオナひとりで完全に物事を改善する必要がないことも。フィオナは誰に話を持っていけば事がうまく運ぶかをすぐに判断した。
これに関しては、カールソン伯爵家の参謀に委ねるのが最善であると。
***
ロザリー夫人は、執事のエドガーの報告を聞き、要点を確認した。
「ペーターの母親が病気で、パンケーキの味にムラが出て、リディアが心配している。そういうこと?」
「左様でございます」
エドガーは慇懃に頷く。
「ペーターの母親はどこにいるの?」
「奥様の夏の別荘がある領地でございます」
ロザリー夫人はすぐに解決策を思いつく。
「それなら、馬車で三日ぐらいね。ペーターに里帰りさせるときに、リディアも連れて行かせて、病気を治してもらえばいいじゃない」
「はい、それでよろしいかと。ただ、護衛の問題が」
「腕利きを何名かつければいいでしょう」
普通なら、平民に護衛をつけるなんてあり得ないが、リディアは大切な命の恩人。
「二点問題が。リディア様の力のウワサが少しずつ広まっております。強欲な貴族に力押しで誘拐される恐れがございます」
「それはダメよ。あの子は今まで苦労してきたのだもの。恐ろしい思いはさせたくありません。では、何があっても大丈夫なぐらいの護衛をつけましょう」
屋敷の護衛と冒険者ギルドに依頼すればいいかしら。ロザリー夫人はギルド長の顔を思い浮かべる。
「奥様、そうしますとリディア様がカールソン伯爵家にとってそれほど重要人物だと世間に知らしめることになり、却って危険かと」
「それもそうね。それで、何か案はあって?」
その通りだ。ここに宝がいる、しかも平民の。声高にそんなことを吹聴したら、あっさり誘拐されてしまうだろう。
「ございます。奥様の慈善家としての名声を更に高める案ではないかと愚考いたします」
「さすがね」
ロザリー夫人は、全幅の信頼を寄せる執事エドガーに微笑んだ。