12. リディアの新しい目標
ポタリポタリ。雨の雫がリディアの顔を濡らす。雨の音は聞こえない。誰かが呼んでいる。
「……ディア、リディア。ごめん、俺のせいで」
重いまぶたをゆっくり持ち上げる。オースティンの目から水がとめどなく流れている。
「どうして泣いているの?」
オースティンは何度も瞬きした後、頭を下げて腕で目をこすった。頭を上げたとき、もうオースティンの顔は乾いていた。
「リディア、気分はどう? 刺繍した後に倒れたんだ。丸一日、眠りっぱなしだった」
「初めて使った術だったので、疲れたんだと思います。そういえば、初めて黒い糸でフィオナを治したときも倒れたんでした。忘れていました」
オースティンがリディアの額に手を当て、そのまま上に滑らせ髪を撫でてくれる。
「それは、とても落ち着きます」
リディアは目を閉じ、自分の全身にくまなく糸を巡らせる。
「私は大丈夫、健康です。もう少し元気になったら、また刺繍をしてみます。今度は倒れないように少しずつ。オースティンのお母さんとウサギがとても喜んでいます。もう泣いていないです。お母さんとウサギの刺繍をたくさんします」
リディアは、オースティンの胸ポケットに入っている布絵を指さす。
「リディア、本当にありがとう。これを見て、少し思い出した。母さんの笑顔とフワフワのウサギ。母さんが作ってくれたピーナッツバターとブルーベリージャムのパン。だから俺、あのパンが好きだったのか」
「そうですね。あのパン、元々はオースティンのお父さんが好きなのです。王族にふさわしくない食べ物だから人前では食べられないけど、うまいんだよなーってお母さんに言ったのです。お母さんの思い出のパンなのですね」
オースティンはまた顔を伏せる。腕の上に顔を乗せたままだ。リディアはオースティンの肩が震えるのを見て、泣いていることが分かった。泣けるのはいいことだ。悲しいときはたくさん涙を流せばいい。そうすると、悪いものが出ていって、元気になる。
リディアはオースティンのすすり泣きを、静かに聞いていた。
王都に帰る旅はとても楽しい。なぜなら、オースティンが一緒に来てくれるからだ。オースティンとフィオナとリディア。三人で馬車に乗り、景色を見て感想を言い合ったり、オースティンの昔話を聞いたり、お腹がすいたらピーナッツブルーベリージャムパンを食べたり。
「ピーナッツブルーベリージャムパン、だんだん好きになってきました。でも、ペーターのパンケーキが食べたいです」
「もうすぐペーターの家に着くから、焼いてもらいなよ」
「そうね。そうします。ペーターのお母さんをもっと元気にする方法をみつけました。きっとパンケーキを焼いてくれます」
リディアはオースティンの頭の中と全身をくまなく調べることで、新しい治療方法を見つけたのだ。
リディアはペーターの母に再会し、早速診断を始めた。
「悪くありません。私たちがいなくなってから、きちんと食事内容を改善し、運動したのですね。満月が半月ぐらいになっていますね」
ペーター母のまん丸だった顔がややスッキリしている。顔周りと首が細くなったからだろう。
「家族全員で健康的な食事を続けたんですよ。おかげで、全員痩せました」
ペーターが胸を張る。
「お客さんたちに理由を聞かれて、食事内容を話したら、そういうの食べたいって人がたくさん出てきて。今レストランの人気メニューになってるんですよ。今日の健康食って黒板に書くと、若い女性が真っ先に注文してくれて」
「おかげで儲かっています。健康にしてくださった上に、レストランの売上まで上げていただいて。ありがとうございます」
リディアはペーター一家にお礼を言われ、どういう顔をしていいか分からず目をつぶった。
「今のまま、健康的な食事と運動を続けてください。ほんの少しだけ、新しい治療法を取り入れます。血液の中の糖分が増えたときに、膵臓という臓器を刺激するようにします。そうすると、糖分を分解する何かが出ます。それが何かまでは分かっていませんが、オースティンの体で見てから色んな人も調べたので確かです。ええ、大丈夫です、お母さんの膵臓からも出ましたね」
リディアが大きな声でまくしたてると、部屋が静かになる。リディアはそっと目を開けた。ペーター母が目を丸くしている。リディアはまた目を閉じる。
「大丈夫です、特別なことは必要ありません。食事の後に、ウサギを撫でてください。その子に糸をつなげておきます。その子がちゃんと脾臓を刺激してくれます。食べたらウサギを撫でる。それだけです。簡単です」
リディアが目を開けると、ペーター母が何度も頷いている。目から水が染み出ている。悲しかったのだろうか。ペーター母の頭の中を調べる。頭の中の嬉しいときにざわめく場所に反応が見られる。これは、うれし泣きだ。これなら要望を出しても大丈夫だろう。
「さあ、ペーター。パンケーキを焼いてください」
「はいっ、ただいま」
ペーターがピシッと背筋を伸ばした。家の中にいる全員が大笑いした。
パンケーキを堪能し、ペーターを回収し、王都に向かう。
洗濯係のカーラと縫い物係のアンナは一緒にカーラの家で待っていてくれた。ふたりは満面の笑顔でリディアに贈り物をくれる。
「柔らかい木綿のワンピースです。ウサギをたくさん刺繍しました。かわいくないですか?」
「かわいい、とてもかわいいです。ありがとう」
リディアは嬉しすぎて頭がポーッとする。落ち着いた赤地に茶色の小さなウサギがたくさん。花や葉っぱもある。リディアは今までこれほどかわいいワンピースは見たことがない。
「ウサギの抜け毛を洗って紡いで小さなカバンを作りました。モフモフですよ」
「かわいい、とてもかわいいです。ありがとう」
嬉しすぎて、同じことしか言えないリディア。フワフワでモフモフの小さな肩掛けカバン。茶色いウサギを抱えているみたい。
カーラとアンナにせがまれて、リディアは早速新しいワンピースに着替え、カバンをかけた。
「かわいい。かわいいよ、リディア」
オースティンが真っ先に褒めてくれた。フィオナ、カーラ、アンナは三人で手をつないでウサギのように跳ねている。
「尊い」
「リディア様ったらいつの間にあんな素敵な彼氏を」
「お似合いです。眼福です。この仕事につけてよかった」
褒めちぎられているリディアだが、ウサギのモフモフカバンを撫でながら無表情でつぶやき始めた。
「これは、もしかしたらいけるのでは。いけませんか? いけそうですよね。分かります。大きさが違うので難しいと思っていましたが、黒い糸をモフモフと生やしていけば解決する気がします。ウサギの抜け毛でカバンが作れるのです。黒い糸でもできるはずです。でも黒い糸は他の人には見えません。そこをどうするか。オースティンが見えなければ意味がないです。オースティンが見えて、動かせて、実在する物を触れれば成功です。これは難題です」
リディアのひとり言に慣れているフィオナとオースティンは、次に何が起こるか固唾をのんで待ちわびる。リディアがオースティンの目を見た。
「オースティンの左腕を治せるかもしれません」
そこにいた全員の視線がオースティンの左腕に注がれた。