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1. リディアという少女


 リディアは組んでいた手を放し、両手を顔の横に掲げる。目を閉じると、両手の指から流れ出る力がしっかりと感じられた。リディアには、指から湧き上がる蒸気のように漂う黒い糸が見える。リディアは歌うように糸に指示する。


「さあ、お入りなさい」


 黒い糸は、リディアの前に横たわっている少年の口に忍び込む。荒い息を吐く小さな喉を通り、枝分かれしている気管に進む。


「よくないものたちを食べておしまいなさい」


 魚がかかったときの釣り糸のように、糸は弾み喜びを表す。気管やその先にある肺で悪さをしているもの、医者は菌と呼ぶそれを、糸はヘビのように鎌首を持ち上げ食らう。気管と肺の隅々まで糸を巡らせ、整える。少年の息遣いが安らかになった。


「よくできました。さあ、戻っておいで」


 リディアは糸を呼び寄せる。満ち足りた糸は、リディアの手の中で愛らしい形に戻った。慈しみ、守るためにリディアは両手を組み合わせる。


 目を開き、この世界で最も大事な妹フィオナを見つめた。


「フィオナ、うまくいきました。ご両親に説明お願いします」

「さすがリディア姉さん。疲れたでしょう。後は私に任せて、椅子に座ってくつろいでて」


 フィオナが扉を開けると、待ちわびたように少年の両親が入ってくる。リディアはゆったりと椅子に座り、フィオナを見つめる。フィオナはリディアと違って、人付き合いが上手。何も心配することはない。


「息子は、ショーンは?」

「ご安心ください、ショーン様はもう大丈夫です。聖女リディア様のお力で、胸の中の悪いものは取り除かれました」

「ああ、ショーン。聖女リディア様」


 ショーンの母親はショーンの額と頬にキスをした後、リディアの前で跪く。


「聖女リディア様、ありがとうございます。なんとお礼を申し上げればよいか、本当に、ああ」


 母親はリディアの両手を取り、うやうやしく額を当てる。リディアは背中に虫が這っているような、落ち着かない気分になる。すかさずフィオナが近づき、母親の手をリディアから外し、軽く引いて立ち上がらせた。


「聖女リディア様はお疲れでございます。お礼につきましては、事前に申し上げた通りの金額をお願いいたします。もしお持ちであれば、医学書をお借りできれば聖女リディア様はお喜びでしょう」


「あなた、医学書を親戚中から取り寄せてくださらない?」

「ああ、分かった。一族に問い合わせよう。もちろん、お返しいただく必要はございません。聖女リディア様にお持ちいただければ、他の病人の助けになるでしょうから」


 実に話の分かる両親ではないか。リディアは、母親に持たれた手を念入りにハンカチで拭きながら、ひっそりと笑った。


「あと一週間はベッドの中で安静に過ごさせてください。滋養があり消化のいいスープや、果物などを食べるといいです。もし高熱が出てぶり返したら、お呼びください」


 リディアは丁寧に、気をつけるべきことを母親に伝え、屋敷を出る。

 先ほど訪れたところより、はるかに大きくて立派な建物に戻った。




「奥様は健康です。まだまだ長生きできますよ」


 リディアは日課である診察を終え、きっぱりと言った。ロザリー・カールセン伯爵夫人はいつも通り穏やかに微笑み、リディアの頬をなでる。


「リディア、あなたに出会えた幸運を毎日ありがたく思っているの。わたくしにできること、何かないかしら。あなたとフィオナが喜ぶことをしたいのよ。それがせめてものお礼だもの」


「奥様、この美しいお屋敷で生活できることが、私とフィオナにとって一番嬉しいことなのです。ですから、何もお気遣いなさらないでください。そして、できるだけ長生きしてください」


 リディアはロザリー伯爵夫人の目を見つめた。いち、に、さん。数えてからそっと視線を自分の手に落とす。


 リディアの言ったことは本音だ。人と目を合わせる、知らない人と話す、挨拶の仕方、奇異な目で見られない受け答え、身づくろいの整え方。そういうことは全て、ロザリー伯爵夫人や屋敷の使用人たちから教わった。


 リディアが知らなかった、うまく生きていくための秘訣。きっかけは失敗からだった。

 リディアにはありがちな失言をしたあのとき。それが始まりだった。


***


 粉雪が街を真っ白に包み込む、春の訪れを祈る祝日。


 ロザリー伯爵夫人は例年通り孤児院で慈善活動を行った。たくさんのお菓子、新しい服を寄付し、子どもたちの笑顔を見る。見返りを期待せず、純粋に自分の中の善なるものを見つめる日。殺伐とした貴族社会で生きるロザリー夫人にとって、わずかな心穏やかな時。


「来年もまたこうしてお祝いしましょうね」


 ロザリー伯爵夫人は子どもたちを見回しながら伝えた。従順な子どもたちの「はーい」という返事は、淡々とした声に邪魔される。


「でも、奥様は来年にはいらっしゃれないわ。だって、もうすぐお亡くなりになるもの」


 広間にいる人々の目が一斉に注がれた先には、痩せっぽちの少女。胸ボタンを首元まで全部とじた、古ぼけたワンピース。なんの変哲もない茶色の髪を、おくれ毛ひとつ見えないほどにきつく結った三つ編み。骨ばった手を、指が赤くなるほど握りしめている。そばかすの浮いた青白い顔。薄いはしばみ色の目は天井のあたりを見ているようだ。


「ご、ごめんなさい。リディア姉さんは悪気があるわけじゃないんです」


 利発そうな少女が、死を宣告した姉の前に立ち頭を下げた。


 ロザリー夫人は、鷹揚な態度を崩さない。孤児の言葉に目くじらを立てるようでは、貴婦人らしくないではありませんか。


「確かに、わたくしはあなたたち少女から見ると先行きがなさそうに見えるわね。でも、大丈夫ですよ。来年も必ずお菓子と服を持ってきますからね」


「いいえ、奥様は来年までもちません。だって、お腹の中に悪いものがいるもの。それを取り除かないと、枯れ木のようにやせ細って息を引き取られるのです」


 相変わらず遠くに視線をやりながら、抑揚のない声で告げるのだ。ロザリー夫人は、不吉な姉と、困っている妹ふたりと共に別室に行き、話を聞くことにした。なんとなく、捨て置けない気がした。祖母と母が枯れ木のようになったことを忘れた日はなかったから。


「治せるのかしら?」


 ロザリー夫人が知りたいのはただひとつ。それだけだ。


「フィオナとウサギたちと孤児院の子たちを助けてくださるなら。私はできる限り奥様を治します」

「いいでしょう」


 ダメで元々。孤児とウサギへの援助など、たいした費用ではない。どのみち慈善事業に使っているお金なのだから。


 ロザリー夫人は孤児院に例年以上の寄付をし、おかしな姉妹とウサギを屋敷に引き取った。


 その日から、リディアは不可思議な力でロザリー夫人のお腹の中をきれいにしてくれた。運命の一年はあっさり通過し、ロザリー夫人はやせ細ることなく生き続け、リディアとフィオナとウサギたちはますます元気だ。


誤字脱字報告をありがとうございます!

妹の名前がソフィアとフィオナが入り乱れておりました。

すみません…。正しくはフィオナです。修正中です。

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