空の旅へと向かうこと
心地の良いそよ風が僕の頬を撫でて、森の方へと飛んでいく。草はもう秋なのに青々と茂っていて、きれいな草原を作り出していて、足をくすぐってくる。くすぐったいのが我慢できなくなり、パッと起き上がると、もう夕焼けの空が広がっていた。その色は今の僕には苦しくなるぐらい、きれいな茜色で、それをずっと見つめていたら、息をするのも忘れてしまいそうだ。
「よっ」
とてもきれいな風景に見とれていると、後ろから聞きなれた低音イケボが聞こえた。
「なんだよ」
そうそっけなく返すと、声の主は僕の隣に座ってきて、パンを一つ差し出してきた。
そのパンを、僕は一口かじる。少し冷めているが、程よい甘みが口の中に広がって、少しだけ幸せな気持ちになりながら咀嚼する。食べ慣れた、一番安いシンプルなパン。だけど、僕は毎回毎回これを頼んでしまう。やはり、これはシンプルながらも一番おいしいと思う。
「毎日見てる風景を改まって見てて、どうしたんだろうなって」
声の主は、僕の顔を覗き込んでくる。さらりとしたきれいな金髪、水色のメッシュ。緑っぽい海の色の瞳は、少し神秘的だ。そこに、黒い学生帽っぽい帽子、着古したTシャツ、羽織っている黒いパーカーと黒いカーゴパンツは、意外とこいつに似合っている。結構大人っぽい服装をしているのに、表情には少年のようなあどけなさが残っていて、やんちゃそうだ。っていうか、頬と鼻の頭に貼ってある絆創膏から、そんな性格がうかがえる。
それに対して、僕は白銀の髪、水色のメッシュは同じだが、目の色は空色というとても普通の容姿。みんなと少し違うのは、目が鋭くて、大人っぽい表情に見えることぐらいだろうか。服だって、こいつみたいにうまく着こなせていない。黒いハイネックのやつに、少し衿が開いていて、青色の紐で結ばれたリボンがついているTシャツを着ている。そして、体にぴったりとそった普通の黒いズボン。帽子とパーカーはこいつと一緒。だけど、あいつはパーカーを羽織っていて、僕は胸の少し下ぐらいまでチャックでとめている。そうやっておしゃれそうな着方をしていても、服に着られている気がする。こいつはそうじゃないといってくれるけど、心底そう思う。
そう考えながら、僕はルーの顔をまじまじと見てみる。
「鈍感そうなのに、人の気持ちには意外と鋭いんだよな」そう思いながら、こいつの海色の目を覗き込んでみる。そこには心配そうな色があった。
やはり、こいつは、ルイス・マーロウは僕の異変に気付いていたらしい。
「ここの風景は、今のっていうか、昔の僕にも、今の僕にも、きれいすぎて、苦しくなりそうだなって、思ってた」
馬鹿正直に答えてから、少し僕は後悔をした。こういったら、ルーはきっと、笑い出す。そういう難しそうな話になると、ルーは毎回笑ってごまかそうとする。
「今日はやけに哲学者ですな」
今日はやけにさらっと返してきた。ちょっと意外だなと思う。
そういってルーは、残りのパンをがっつき始めた。残りと言っても、少しではない。こいつ、人よりも多く食べるからな、と思いながら、彼の横に積んであるパンの山を見つめる。ちなみに、このパンの山というのは全然もってない。僕が座った時に同じくらいの高さになる高いパンの山だ。どちらかというと少食な質の僕は、これを見ると毎回毎回呆れながら、少し吐き気をもよおす。こいつの胃袋はどうなっているのだろうか。
「おまえはいつもと変わりなさそうだな。・・・・・・食の量から言って」
「俺はたとえ体調を崩しても食の太さが変わらないのが唯一の長所だからな」
皮肉を交えて言ってみると、ルーは冗談めかして言った。こいつはやはり、ポジティブすぎて、嫌味もなにも通じないらしい。そんなとこは、ルーの美点だ。
いいなぁ。素直にそう思う。僕は皮肉も、嫌味も、全部わかってしまうタイプ。だから、ルーがとっても羨ましい。
「はぁ」
日々のそんなストレスが溜まって、僕はため息をはいてしまった。
ルーの前でははかないって、心配かけない、って努力してたのに。
「どうしたんだよ、ため息なんかついて。やっぱ今日のハクはおかしいぞ」
やはり、心配をかけてしまった。少し、いや、だいぶ反省する。
でも、他人に本気で心配されたことが片手で数えられるくらいに少ない僕は、ルーの気遣いが嬉しくて、ちょっと気持ちが楽になった。
でも、少し悲しいと思う事実もあった。
今日の僕はルーの言う通り、少しおかしいらしい。思わず口を滑らしてしまった。
多分、ルーに甘えてたから、それで、気が緩んでたから、滑らしてしまったのだろうと思う。
「ちがう、僕はハクじゃなっ・・・・・・あっ」
思わず、そう言ってしまった。
僕は、ルーに本名を隠している。本名はノア・アルライトだけど、最初に、そっちを、ハクと、名乗ってしまった。そりゃそうだ。出会った時には、みんな僕のことをハクと読んでいたのだから。
「あれ、偽名名乗ってたん?」
ルーは心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。やっぱり、ルーは優しい。
「そうだよ、今はっていうか、出会ったときはそれが名前のようなものだったからね。今も、そうだけど」
このことは、いつか言うと思っていたが、さすがにこんなに急だとは思っていなかった。僕は、うっかりしているタイプではないけど、やっぱりルーにはそっちよりも本名で呼んで欲しいから。
「じゃぁ、本名はなんなん?」
「ノア、ノア・アルライト」
聞かれて、素直にそう答えてしまう。昔は警戒して、言わないか、偽名を名乗ってたのに、今日は素直にそう答えてしまう。僕は、ルーに毒されてきたみたいだ。いや、一番信頼してる、ルーだからかもしれない。
「へー、きれいな名前なのになんで偽名を使うんだ?」
さらっとそういうことを言うルーは人たらしだと思う。顔に熱がある気がする。
「当たり前だ、そっちの方が有名だからだよ」
そっけなくそう返すけど、本当は強がり。こんな名前、有名になって欲しくなかった名前。ルーが僕のことをそう呼ぶのも、その名前を言うのもいいやな、嫌いな名前。だから、本当は、使いたくない。これを使うと、もう一人の僕を思い出しそうになるからだ。
「そう苦しそうな顔すんなって、俺は『ハク』っていうカッコいい名前も、『ノア』っていうきれいな名前もどっちも好きだからよ」
そういうってフォローしてくれるルーは、いつも通り、優しい。
「じゃぁ、お前は『ハク』を、どう思うんだ?」
自分のことなのに、他人のように扱うのは、僕が二重人格だからだ。
一つ目の人格はこれ、ノア・アルライト。ザ・普通。ルーに言わせると、クールでしっかりものなツッコミ、らしい。そんなにクールでも、しっかりしてるつもりでもないが、ルーにはそう見えるらしい。絶対、ルーがしっかりしてないせいだから、相対的に僕がしっかりしてるように見えるだけだと思う。
そして、二つ目の人格がハク・アダムス。こっちは、普通じゃない。残忍非情な快楽殺人鬼。今まで殺した人間で、大きな帝国が創れるほどの数を殺している大罪人。不気味に光り輝く、白銀の髪から、この『ハク』という名前が付けられた。
僕は、そっちの人格が大嫌いだ。そもそも、こっちの僕は、平和を好み、血を見ると一気に心拍数が上がり、気分が悪くなってしまう。そんな奴が、自分の中にいるなんて、こっちの僕には恥でしかないし、自分自身が怖くなってくる。だから、僕はできるだけそっちの人格に体の主導権を渡したくない。
「うーん、ノアがなんか、怖くなったバージョン。正直怖いけど、ノアが頑張って『ハク』を抑えてくれてるから、今は安心して隣にいれる」
そう言ってニッと笑う隣の相棒は、最高に頼もしく見えた。
そして、その言葉で、今までハクを抑えてきた自分のすべてが、報われた気がした。
「ありがと」
そう小さな声で言ってから、僕もニッと笑おうとしてみる。だけど、やっぱり、最近表情筋を動かしてなかったせいか、結構ひきつってたとおもう。
笑う練習、しなきゃな。
「なんか言った?」
ルーにはどうやら、感謝の意は伝えられなかったらしい。それでも、また伝えればいいか、と思い、「何でもない」と返した。
「そ」
そう言って短く返すと、ルーはまた、26個めのパンにがっつき始めた。食べ過ぎでいつか太るんじゃないかと思う。でも、今まで全然太ってない。むしろ、ルーは結構痩せててスタイルがいいのだ。世の中は不公平だと思う。
僕はまた、風景を眺めながら、考える。
この息苦しい世界から逃げ出したい、と。飛行機でもあれば、空島とか、空中都市とかに行けるのに。
「空中都市、行ってみたいな」
小さな声で、そう言ってみる。これは賭けだ。これにルーが気づいてくれれば、僕は空中都市に行こうと努力するし、もし気づかなかったらこの思いは忘れることにする。・・・・・・僕的には前者の方がいいけど、さて、ルーは聞こえたのだろうか。
「飛行機ないから行けなくね?」
聞こえてたのか。やっぱり、ルーは僕の期待した通りに動いてくれる。たくさん一緒にいるからかな。これを言ったら、ルーは腹黒いって言うと思うから言わないけど。
「探せばいいよ」
わざとそっけなく、適当に答える。とても嬉しかったけど、こう返してしまうのは、僕が天邪鬼だからだ。直したいな。
飛行機、乗ってみたいな。ないなら造ればいいけど、それはたぶんできないし。
「そだな、明日から少し森を探索してみようぜ。パン屋のおばちゃんがこの前、ここで昔飛行機が墜落したって言ってたぞ、ご丁寧に二機も」
こいつのコミュ力はバカにできないな。一ヵ月しか、まだ滞在してないのに。
「都合、良すぎないか?」
「ま、俺らの日頃の行いがいいってことにしとこうぜ」
そう言ってルーは森に駆け出す。
このポジティブ大魔王が。
心の中で悪態をつきながらも僕はあいつについて行く。そうしないと、また何かしでかしそうだし。
それに、ルーの隣は居心地がいい。それに慣れてしまったら、もう、離れられない。・・・・・・重症だな。自分のすべてを肯定してくれて、それを当然だと考えて、居心地をたちまちよくしてしまう。あっちの僕もそうだけど、こっちの僕も相当変わっているみたいだ。
「僕は、日頃の行いなんてくそみたいなもんだけどな」
一瞬でルーに追いついた僕は、少しスピードを落とし、ルーの走るペースに合わせる。そして、軽くジャンプして、僕よりも頭一つ分は背の高いルーの耳元にささやいてから、また、元のスピードで森の中に駆け出す。
後ろから追いかけてくる、ルーの真っ赤な顔なんて、見るはずもなく。