向日葵の置き土産
駅のホームで私は動けずにいた。
「大丈夫ですか?」
話しかけてきたのは、私よりずっと大人の男性だった。
体調が悪いのもあり、彼のぼんやりとした顔立ちから目鼻がよくわからない。ただ象のような大きな耳は、よくみえた。太陽に照らされて赤くなっていた。
「……痛むんです」
「怪我ですか? 僕になにかできますか?」
「大丈夫です。怪我と言っても頭の中、心の病気です。気にしないでください」
そう言って、私は目線を外した。
『学校に行っても苦しくなるだけ。今すぐ引き返せ!』
ひどい頭痛と一緒に聞こえてくる、もうひとりの自分の声。この声がしたら学校に行くのは難しい。何度も失敗してきた。
でもママには行くと言ってしまった。帰ることはできない。
「行けないのって学校だけなんですか?」
彼の一言が私を目の前に引き戻した。
「えっ、まあ、そう、ですけど」
「なら、僕と一緒に行きますか?」
「一緒に? どこへ?」
「旅行です。ひとりで行く予定だったんですけど、よければどうです? 気分転換になるかもしれません」
と柔らかく微笑まれた。
どうしようかな。優しさは感じるけど、先生やクラスの人と同じで上っ面なんじゃないか?
外見からわかるのは、先生よりも若くてクラスの人よりも年上な人であることだけ。
「……まるでナンパですね」
「たしかに。でも今ここで『がんばって学校行こうよ』って言われたくないでしょう?」
私はうなずいた。「それでも少し怖いです」
「そう、ですよね……。じゃあ僕からは絶対触らないって約束します。日帰りで帰れるようにもします」
彼の言葉に信ぴょう性はないのだが、学校にはどうしても行けそうになかったし、行きたくもなかった。
「わかりました。行きます」
「決まりですね」
男は向日葵と名乗った。
「漢字はヒマワリと同じって覚えてください」
私は笑った。彼の日焼けしていない青白い顔は、どう見てもヒマワリじゃなかった。
○
あれから2年。
私たちは毎年8月下旬になると、同じ旅館に泊まっている。
2年前のあの日は彼の傷心旅行だったそうだが、今となってはふたりの時間を過ごすために行く。
そうは言っても、お互いあまり話さないし特別なこともしない。旅館に向かう途中、近況話のしすぎで疲れてしまうせいだった。
夕飯と入浴を終えた私たちは部屋でくつろぐ。
彼は読書を、私はテレビをみる。
でも今日はテレビがつまらない。昨年やっていたバラエティー番組は終了したみたいだ。
ザッピングしながら、ちらりと彼のほうをみた。
物静かな雰囲気をまとっている。年齢を重ね、青白さに加えて疲れた顔をしていた。けれども大きな耳は変わらない。
じっとみていたら、彼の読む本が気になった。
のぞこうとすると、彼がパタッと本を閉じる。
「君が本に関心を持つなんてはじめてだね」
「なんとなく気になったから。誰の本?」
「坂口安吾だよ。彼の自伝なんだけど――」
尋ねてみたものの、本の内容にまで興味がなかった。
うとうとしながら、私は布団に横たわった。
寝落ちする前に語ってくれたなにかが硝子のように繊細で、もろくて。
これは夢なんじゃないか、と思った。
虫の音はコロコロと心地よく、秋を思わせる涼しい風が部屋に舞い込んでいた。確実に夏が終わりに向かっている。
眠気に支配された頭に話の中身まではわからないのだけど、たった一言、おやすみの声が私を安心させた。
だから目を開けたときのまぶしさには驚いた。
まだ夢の中にいる気分。
布団には私ひとり。隣の布団は、しわくちゃなままで空っぽだ。
私は起き上がり、んっと体を伸ばす。そのあと身支度を済ませ、外へ出た。向かうは食堂。
食堂に行って息をのんだ。
朝日を受けるあなたの顔が美しい。本当にヒマワリみたい。
見とれたのも束の間、少しモヤモヤする。
「起こしてくれるか、待ってくれてもいいじゃない」
「おはよう。僕もさっき起きたばっかりだよ」
「そういう問題じゃ……」
「まだ食べてないから、ね?」
「……もういい。……おはよ」
「うん、おはよう」
私は口をとがらせながら席に着く。
机の上を見渡すと、コーヒーしかない。本当に食べていないようだ。
「今年も私が選んでいいの?」
「うん」
食堂はバイキング形式になっているが、彼は食に関心がない。毎年私が食べたいものたくさん選び、食べきれなかったものを彼にあげていた。
今年も食堂内を回りながら、ときどき席に戻っては、最終的に6皿になった。
ふたりして手を合わせる。
「いただきます」
私は、みそ汁をすすったあと、焼きサケに箸を伸ばす。口の中に、ほろほろと崩れていくサケと光る米粒をいれた。
おいしい。何回来ても飽きない。家よりも学校よりも、懐かしい気分にさせてくれる味。彼といる食事は落ち着くのだ。
飲み込んでから、「ここに来るのも今年で三度目だね」とマグロの刺身を摘まんだ。
彼の「へぇ」は寝起き特有の低い声だった。「時間は早いな」
「本当にね。クリスマスとか楽しかったなぁ。今は夏の終わりしか会ってくれないけど」
「働いてるからなぁ」
そういえば、学校の先生になったと言っていた。
「わかってる、責めてない。けど変な感じ」
「どうして」
「学校嫌いの私が先生といるから」
「ああ、たしかに」
「ね、大学は、どんなところ? 楽しかった? あなたの大学は、どうだった?」
「すぐにわかるよ」
「教えてくれないの? ケチ」
「配慮だよ。楽しみを奪わないための」
現在、私は受験生。地元の私立文系を目指して勉強中だ。
……本当は彼みたいに学校の先生になりたかったけど、体調崩しがちの私には無理だ。
「じつは大学が楽しくなかったとかないよね?」
「そんなことないよ。楽しかった。ときどき戻りたくなるくらい」
「ふぅん……」
ウソではないようだ。はじめて会った日みたいに、彼は穏やかに微笑んでいた。
朝食を食べ終えた私たちは、帰り支度をする。
チェックアウトを済ませ、バスに乗って駅に向かっていると、いよいよ寂しい気持ちが込み上げてくる。
昔はふたりで電車に乗り、適当な駅で降りて寄り道をしたこともあった。
今は彼の家が北のほうにあり、私は南のほうに家がある。途中の乗り換えで先に彼が電車を降りてしまうことが確定していた。
「電車、あと10分くらいだね」
「そっか。飲み物いる?」
「ううん、私は大丈夫。あなたは?」
「大丈夫」
彼の横顔をみると、昨夜と違って目を細めていた。
暑いのかな。
彼の視線の先には、広大な森が広がっていた。温泉地と旅館を売りにしているここでは、大自然が残っている。虫の声も私の住むところより元気だ。
「ねえ、今度は冬にも泊まろうよ。ここ、冬には木々に雪がかかってきれいだってSN、S、で……。どうしたの?」
彼は目を丸くしたあと、私から視線をそらした。
「いや、なんでも」
そういう彼の表情は暗い。
「どう見ても、なんでもないって顔じゃないけど」
私が指摘すると、眉間にシワを寄せて口を引き結んだ。
なに? 言葉にしてくれないと、わからないよ。
目尻に涙がにじみ、私はうつむいた。
彼の手が握ろうとして引っ込んでいくから、「こんなときまで約束! いらない!」と私は怒気を含んだ声を発した。
彼はぎこちない動作で私の手を包み込む。
「ごめん。君を不安にさせるつもりはなかったんだ」
「……話してくれる?」
顔を上げると、赤い耳があった。
「結婚、するんだ」
「そう」
「君と会うのはやめようと思ってる」
「……そう」
「泣かないんだね」
「うん」
「それでも君が心配だ。昨日も話したけど君が寝てしまって。聞き入れたくないのかと思った。正直、今朝もう一度話すか、こっそり帰ろうか悩みもしたんだけど……」
返す言葉が浮かばない。なにを言うか、言うまいとするか悩む。
ただ、ひとつだけ断言できる。彼を苦しませたままは嫌だ。
私は彼から手を離し、
「明日、誕生日なの。18になるんだよ、私」
と、指で18を表した。
「大人の仲間入りするから、ね? わかるでしょ? 先に大人になったあなたなら」
今まで彼は完璧に演技してくれていた。
私の生きる理由となるために、だまし続けてくれた。最愛の人がいながら。
送り出そう。たとえ、この送り出しが私の本心じゃないとしても。
「幸せになってね」
私は後ろで両手を組み、精いっぱい口角をあげた。
「ああ。君にも幸せを感じて生きてほしい」
「うん、そうする。話してくれてありがとう」
そこから電車に乗るまで、彼が次の電車に乗り換えるまで、私は彼の手を握っていた。
去り際、名残惜しくも手を離す。
「これ、あげる」
彼から1冊の本を渡された。受けとると同時に彼の手が離れていった。
電車から降りた彼は、私に手を振ってくれた。私も振り返した。
電車は彼を置いて走りだす。
いっそ消えてしまおうか。彼のいない人生に、なんの価値がある?
でも、消えることはしない、できない。じゅうぶん、もらってきてしまった。
脳内の声に苦しんでいた私が生きていられるのは、彼の旅行について行くと決めた私のおかげ。
だけど。
消えたいと思えないのは、思い出があるから。
だから今なんだね。
私が踏みとどまるだろうと思ったタイミングが、今だったんだね。
ズルいよ。ずっと弱いままでいたら私のそばにいてくれた?
ううん、ウソ。感謝してる。
じゅうはっ――いや、年齢はどうでもいい。
彼との記憶が、1日早く大人になれって私に言うんだ。
彼に出会えて、なんて幸せだったろう。そう思えるようになるから、するから、今は泣かせてよ。
傷口が塞がってしまう前に。
彼の存在が思い出の箱にしまわれてしまう前に。
私が大人になる前に。
泣き続けていたら、本に涙が落ちた。表紙の文字がゆがむ。慌ててハンカチで水気を拭きとると、カバンにしまった。