遭難
柳少佐達を含め、J20の制空隊70機は戦闘で撃墜された機体は1機も無かった。
だが、空中給油機が全滅するという事態を受け、柳達を含めて燃料切れに陥る機体が続出した結果、上海周辺の基地、空港に辿りつけたのは20機でしかない。
彼らの多くが、一秒でも長く任務を果たそうとしたため、燃料不足に陥った事実は皮肉な結果だ。
あと10機、空中給油機は地上に残っていたが、その発進は間に合わなかった。(F22がまだ存在するのか離脱したのか、後続がいるのか、はっきりと確認できなかったこともあった。)
柳少佐と付上佐は、共に大陸から100キロ程度離れた海域で緊急脱出に成功した。
だが、脱出した50名の戦闘機パイロットのうち、10名は脱出装置の不具合と着水時の事故で死亡していた。
脱出に成功した40名のうち、本土から飛来した救難ヘリや、海上に待機していた船舶に助け出されたのは、わずかに8名だった。
数百機もの戦闘機を洋上で運用しているにもかかわらず、中国空軍は洋上での戦闘捜索救難のノウハウと機材が、まだ圧倒的に不足していたのだ。
日米のような、高性能の機材を備えた捜索救難ヘリは、Z8KAがあったが機数は全軍で20機にもならない。
Z8KAに乗せるべき特殊部隊並みの訓練を受けた、救難員の育成も間に合っていなかった。
しかも、沖縄方面の救難ヘリは、わずかに8機でしかない。
このため、みすみす脱出に成功したパイロットの大半が行方不明となり、あるいは救助されたものの、低体温症で死亡してしまったのだ。
中国海軍は、パイロットの救助のために海警に加えて、多数の民間船舶や海上民兵も動員していたが、訓練されているわけでも、捜索救難のための機材も無い彼等の能力には当然ながら限界があった。
それでも無事に救助された8名のうちに、柳少佐と付上佐は含まれていない。
柳少佐は携帯緊急信号機のバッテリーが切れるまでに救助が間に合わず、そのまま行方不明となった。付上佐は脱出時に死亡した10名のうちの1人だった。脱出時の衝撃で気絶したまま着水し、不運にも自らのパラシュートに覆被さられてしまったのだ。
さらにパラシュートコードに体が巻き付いてしまい、パラシュートに引きずり込まれる形で上半身が水没。溺死してしまった。
前席操縦者が泳いで指揮官の元に辿りついた時には、手遅れだった。
一方、J11、J16の部隊は、燃料タンクに被弾したものを除き、燃料切れを起こした機体は無かった。
空中給油はJ20装備の部隊優先とされていたため、殆どの飛行隊が早めの帰投を選択していたからだ。
想定外の犠牲を出したJ20部隊ではあったが、304飛行隊と204飛行隊のF15を、一方的に11機撃墜している。
特に304飛行隊は、滞空していた20機のうち、AWACSの直掩の8機を除く12機中、9機を撃墜され、この中には飛行隊長が含まれていた。
304飛行隊のF15改は、EPAWSSを装備していないとはいえ、IEWSを装備した機体も5機ほどあった。
だが、EPAWSS程の即応性を持たなかったため、期待された程の妨害が出来なかったのだ。
204飛行隊の1機は、被弾して燃料漏れを起こし、かろうじて穴の開いていなかった、嘉手納のエプロンに緊急着陸した。
そこまでの判断は良かったものの、そこでミサイルの破片を踏んでしまい、メインギヤの片方がバーストした。続いて肩輪になったことで、グランドループを起こし、グラスエリアに突っ込んだところで、さらにノーズギアを折って機首を大破した。パイロットは無事だった。
キル・レシオ11体0は、空中戦史上に特筆すべき偉大な記録と言えたが、同時に、燃料切れで一挙に最新鋭機を50機喪失し、パイロットが40名も遭難するのもまた、航空史上に残る悲劇だった。