拍子抜けと苛烈さ
2025年4月2日 04:00 本州
一方、予告通りに北朝鮮も攻撃を開始した。半島から発射されたミサイルは52発で、うち正常に飛翔したものは41発だった。
それぞれ、4~5発ずつが、主に在日米軍の飛行場を目指していく。
だが、まず日本海に展開していた海上自衛隊のイージス艦2隻に、35発が迎撃された。
さらに太平洋側に展開していた米軍のイージス艦4隻の迎撃により、残り全てが破壊される。
日本本土に着弾したものは1発もない。
その後、さらに巡航ミサイルが50発程度発射されたが、緊急発進した小松第6航空団のF15改が、AAM4B中距離空対空ミサイルで全て撃破する。
それで、終わりだった。
首相官邸も防衛省も、中国の猛烈な第1撃に比べれば、散発的な北朝鮮による弾道弾と巡航ミサイル攻撃に拍子抜けしたが、第2波への警戒を続けた。
彼らは、北朝鮮側が、中国に対するひねくれた思惑と、長年継続した威嚇行為による残弾不足から、中朝首脳会談での密約より遥かに小規模な攻撃しか行うつもりが無いことに気づいていない。
北朝鮮としては、日本本土に実害が出ないのであれば、経済制裁も日米による報復も限定的なものに留まるという目論見があった上、約束は果たしたのだから、中国に見返りを要求できることに変わりは無いのだ。
北朝鮮なりの打算に基づいた行動だった。
日本に対する第一撃は、北朝鮮の思惑と中国側の衛星沈黙、日米が展開させた史上最大規模の弾道弾迎撃態勢により、那覇飛行場が大損害を受け、嘉手納飛行場も2本の滑走路が使用不能という被害をもたらしたものの、壊滅的という程では無い。
1日あれば、応急的な修復作業で復旧可能な程度だった。
中国側にとしては大威力の弾道弾攻撃により、両飛行場を月面に変えて、復旧の見込みが立たない程破壊してしまうつもりだったから、不本意な結果と言っていい。
だが、台湾ではこうはいかなかった。
彼等もPAC3を買い増しし、国産の天弓3対空ミサイルの配備を急速に進めていたものの、迎撃ミサイルの絶対量はそれでもなお、あまりに少なかったからだ。
中国からの距離が近いため北斗の誘導無しでも、それなりの精度で多数の弾道弾が着弾したこともあり、遥かに被害は深刻だった。
第1撃の500発のうち、作動不良と迎撃により約100発が失われた。
だが、残り約400発の弾道弾は、台湾各地に降り注いだのだ。
命中した400発のうち実に100発は、台北の総統府と立法院に着弾した。
中国は台湾の政府関係者を、占領後も生かしておくつもりは全く無かった。ウクライナ戦争初期に、大統領が生存していたがため、彼のリーダーシップによりウクライナ国民の抵抗の意思が固くなったことを、中国は忘れていない。
中国は台湾総統を始めとする台湾国家指導部を弾道弾の一撃によって、象徴的な政府の建物諸共に抹殺するつもりだったのだ。
同時多数の弾道弾攻撃に見舞われた台湾総統府は、衝撃派と閃光を伴い、突如として活火山の噴火に見舞われたように吹き飛んだ。
総統自身は辛くも生存していたが、瓦礫に覆われたため地下シェルターから身動きが出来なくなった。(中国側は、地下シェルターの破壊を狙って、周到に建造物を吹き飛ばした後に、ダブルタップ攻撃も行っていたから総統以下の生存は奇跡的だった。)
それでも中国側の攻撃開始直後に、台湾全軍に戦闘態勢を出すことには成功していた。
中国は台湾の行政機能も開戦と同時に麻痺させるつもりだったから、各省庁の建物にも100発が着弾した。
こうして総統は一時安否不明となり、閣僚を含む議員や官僚、そして一般市民多数が犠牲となった。
本来は、200発も政府関係の目標に指向する計画では無かったが、中央政治委員そして、他ならぬ国家主席の強い意向により、第一目標の変更が行われたのだ。
さらに50発は、衛星や、台湾国内に深く根を張った、中国シンパがもたらした情報により特定されていた、台湾軍の指揮通信中枢に着弾した。
これにより、中国側が上陸を目論む台湾南部。そこへの台湾陸軍の増援を妨害するつもりだった。
実際、台湾軍はあらゆるレベルで一時、状況把握に深刻な支障をきたしている。
残り150発は、台湾空軍の主要航空基地、花蓮、台南、水上にそれぞれ50発ずつが着弾した。
だが宇宙戦が始まった時点で、米軍から警告されていた台湾軍は、戦闘機部隊の大半を空中退避させていたのだ。
台湾軍の場合、中国との距離が近すぎて、撃たれる前に滞空しておく必要があった。
さらに弾道弾の発射が始まると、残る機体も緊急発進させたが、退避に与えられた時間が短すぎ、間に合わない機体もあった。
花蓮基地は、山をくりぬいた強固なシェルターに地中貫通弾頭が命中したが、貫通には至らなかった。だが、隣接する民間滑走路も含め、滑走路と誘導路、燃料タンクや管制設備に甚大な損害を受けた。
台南、水上両基地はより甚大な損害を受けている。
滑走路はどう考えても3日は使用できそうにない。生き残った戦闘機の中には、他の飛行場にも次々と被害が拡大する中、代替飛行を探すうち燃料切れになる機体が多数発生する事態となるはずだった。中国側の目論見通りなら。
実際には日米台の政府間の密約により、交戦の後で燃料不足に陥った台湾軍機の多数は、宮古島の下地島空港へと退避して行くことになる。