緊急展開・後半
6隻のPFI船は、先島諸島で荷下ろしを済ませた輸送トラック群と避難民を乗せて、全速で本土へ向けて退避しつつあった。
連日の酷使で稼働率の下がっているC2飛行隊は、引き続き先島の島々に展開した部隊から要請される物品を、追加で那覇に空輸していた。
同じく酷使されているC130、CH47、オスプレイ、それにUH60、UH1といった、輸送機と各種ヘリコプターは低下する稼働率を気にしつつ、各島へ末端輸送を行っている。
だが、このうちオスプレイ1機が機体トラブルを起こし、海上に不時着して失われていた。
ここまでで与那国、石垣、宮古の警備隊を各2個連隊相当、奄美を1個連隊相当と支援部隊で増強すると共に、展開地域での野戦築城と物資の備蓄が進められている。
燃料と弾薬、食糧・水・医薬品も事前備蓄と合わせて、なんとか4週間継戦できるだけの量を運び込むことも出来ている。
3年前には、部隊の展開と物資の輸送に、4週間は必要とされていたのに、輸送能力が飛躍的に引き上げられたとは言え、1週間でほぼ目標量に到達したのは理由があった。
そもそも、与那国、石垣、宮古、那覇、奄美は、有事の増援受け入れと持久に備え、駐屯地の備蓄能力を強化していたし、防衛出動前から民間フェリーの定期便に便乗して、追加の物資輸送を加速しておいたのだ。
この段取りの結果、先島の各駐屯地では輸送開始前の段階で、既に3週間分に近い物資を備蓄してあった。
この結果、本土からの増援部隊と共に運ぶ物資は、1週間分と追加の誘導弾をはじめとした弾薬類で済んだのだった。それでも莫大な量だったが。
真っ先に派遣された施設部隊は、不具合を起こした一部の機材を本土に戻したものの、主力は引き続き陣地の拡張と、侵攻開始後の陣地補修への備え、そして予備兵力となるため島に留まっている。
先島諸島には、3つの島にそれぞれ隊員数で3000名から4000名の部隊が展開していた。
与那国島と宮古島には、米海兵隊も展開している。
部隊の中核となる普通科隊員(歩兵)の数で言えば、それぞれ1200名から1500名程度だが、古典的な守備側は3倍優位という理屈に従うなら、中国軍は各島に5000名規模の部隊を上陸させる必要があるはずだった。
奄美大島は、もっとも本土に近いこともあり、部隊の展開は後回しにされたが、それでも増強1個連隊相当の普通科隊員800名が展開を終えていた。
各島の指揮官は、それぞれ警備隊司令が務めている。
もともと平時の先島諸島における各警備隊の編成は、SAM(地対空ミサイル)中隊とSSM(地対艦ミサイル)中隊と場合によっては電子戦中隊を持つ、米海兵隊の沿岸連隊に似た構成の、豪華な増強普通科中隊というところだった。
有事の際は増援を受け入れる前提で、警備隊司令を一佐が務めており、本部の規模もそれなりに充実していたから、部隊の規模が急拡大したとしても指揮統制に問題はそれほど起きないはずだった。
それに現地の地勢、事情に普段から精通している者が指揮を執ることは理に適っている。
このあたりの事情は、少なくとも指揮幕僚過程をそれなりの成績で終えた者が補職される、即応機動連隊の指揮官には当たり前の話だったから、自ら手塩にかけた部隊を自分自身を含めて警備隊の指揮下に入れることに疑問は無かった。
むしろ、フォースプロバイダーとなり、駐屯地に残留する指揮官達が苦悩していた。
例えば、第43普通科連隊の連隊長などは、隷下の重迫撃砲中隊と対戦車小隊、その支援隊を与那国増強に送り出したものの、自身は九州に留まっている。
部下達のみ死地に送り出している形になっていることに、葛藤は少なからずあった。できれば自分も部下と共に与那国に馳せ参じたい。
だが、それを言うならば、留守を預かる形になった43連隊の隊員全て、いや、この時点で沖縄に輸送能力の制約から投入されなかった、全自衛隊員が同じ気持ちだった。
言うまでもなく自衛隊はその創設以来、常に存在意義に根本的な疑義を憲法からも、国民の大多数からも持たれ続けてきた。
そして、初めて本当にその真価を問われる局面が来たというのに、補欠扱いとなって指を咥えている状況は、留守役の自衛隊員に葛藤をもたらしていたのだ。
後方の警備や支援も重要な任務であると、頭では理解できてはいるが、気持ちはどうにもならない。
原発等重要施設や高射隊の護衛、あるいは人口密集地でのテロ攻撃に対する警戒に配置された、陸自部隊はまだ葛藤が少なかった。
北朝鮮がいきなり核や生物化学弾頭を撃ち込んで来た場合は、沖縄よりも危険とすら言える状況だったからだ。
自衛官達の葛藤とは別に、増援と物資の輸送は比較的順調と言えたが、各島の幹部達も南西防衛集団司令部も楽観していなかった。
たった1週間で防御態勢を劇的に整えたといっても、中国軍が航空優勢、そして海上優勢を取ってしまえば無意味だからだ。
そうなってしまえば、いくら陣地に立てこもったところで、孤立して精密な砲爆撃にさらされる。
補給も途絶えるから食糧、弾薬、燃料、人員は減る一方となって、いつかは敗北することになるはずだ。圧倒的不利どころでは無い。
それはまさしく、太平洋戦争末期の島嶼戦の再現に他ならない。
簡単に負ける気はしないが、結局は海と空の戦いで、海空自衛隊と米軍に勝ってもらわなければどうにもならないのだ。
これが侵攻も容易だが、増援も補給もある意味容易な、地続きのウクライナの戦場との違いだった。
南西防衛集団の各指揮官にとって不安要素は挙げればキリが無かったが、今は地図を睨んで陣地構築作業を監督する以外に無かった。
首相の記者会見直後はあまり進捗しなかった沖縄住民の自主避難は、急にペースが上がっていた。
当初は、半信半疑、他人の様子見、といった住民が多数だったが、実際に避難を選択する住民が増えてくると、追随する者が増えていったのだ。
さらにSNS上で、中国が本当に攻撃をする兆候を示す投稿が急速に増えるのに従い、避難希望者は加速度的に増加しつつある。
人口が全島で千人の与那国は、九州への全島避難をほぼ完了していたが、宮古、石垣、奄美はそれぞれ5万人前後もの住民がおり、その避難はまだ半数にも達していなかった。
加えて、これらの侵攻リスクが高いとされた島外以の離島からの、高齢者、女性、子供を中心とした避難希望者の移送手段が足りない。
このため、陸自のヘリコプターや、空自の救難ヘリ、多用途支援機、海自の哨戒ヘリの増援を本土から投入して、離島から沖縄本島への一時避難に充てている。
陸自のヘリコプター、オスプレイは30日からは、離島からの住民避難に専従していたといって良い状態だった。
それでも足が足りず、練習機部隊のヘリや、航空自衛隊の練習機T400まで投入されている。
そもそも、この期に及んで島民の避難が「自主避難」なのが、おかしな話だ。
だが、政府の避難計画の策定は、中国の認知戦に踊らされた野党の妨害で間に合わなかったのだった。
政府は急遽、フェリーや旅客機を集めて避難を進めてようとしていたが、絶望的に便数が不足している。
10万人規模の避難を計画も訓練も無しに、ぶっつけ本番で器用にやり遂げろというのは、そもそも無茶な話だった。(所謂ネット軍師は、好き勝手な論評を加えていた。)自衛隊の輸送部隊への避難民の便乗は、こうした状況下で発生していたのだ。
一方で中国軍の通信動向が活発化しており、逆に部隊と物資の動きは沈静化している様子が観測されている。軍事的な常識に従うならば、部隊の集結を終えて、攻撃開始が迫っていると判断されるべきだった。