緊急展開・中間状況
海上輸送による緊急展開部隊の第一便は、とりあえず部隊と物資を届けるところまでは、無事終了していた。
PFI船も、いずも型「かが」も、第一輸送隊も第一便の陸揚げ終了後、第2便の輸送のため直ちに本土へ引き返す計画だったが、ここで遅延が発生していた。
沖縄県知事は、この期に及んでも政府発表と自衛隊の動きを、日本自らが戦争の機運を煽るものとして、沖縄県民の自主避難に反対の立場をとっていた。
彼は県民に対してはデマやフェイクニュースに流されることないよう冷静な行動を呼びかけていたし、政府には自衛隊の展開と、住民の避難を直ちに中止するよう訴えていたのだ。
だが、那覇市長や各離島の首長達は知事とは全く逆の立場と行動を取っている。
彼等は可能な限り島民を沖縄本島へ、できれば本州に避難できるように手配を行っていた。
各市町村と政府の間に立つ沖縄県知事とその周辺のスタッフが、このように相反する認識のため、民間人の避難状況に混乱が生じていた。
与那国、石垣、宮古、奄美の首長達は、自衛隊の輸送艦に自家用車での避難を希望する住民を載せることが出来るよう、東京の防衛省や、南西方面統合司令部をはじめとした現地の部隊に、県を通さずに直接要請してきたのだ。
自衛隊、防衛省は難しい判断を迫られた。勿論、島民の避難は想定されている任務だった。
だが、それはあくまで台湾のみが戦場になる場合が主で、先島を含めた沖縄に先制攻撃・着上陸の可能性が高い現状とは異なる想定での話だ。
増援部隊と物資の輸送に一刻を争う状況であるし、そもそも住民を乗せている時に攻撃が始まるようなことがあったら、かえって危険ではないか?
北の宣言を信じる形で、総書記の演説から1週間後に攻撃が始まる前提の下、準備を進めているが、実際にはそれより早い可能性すらある。
だが、自治体も住民も危険は承知だった。避難の手段が限られる中、このまま島に取り残されるより良いと考える住民は多数存在したのだ。
南西方面統合司令部の有坂司令から、自治体の要請を報告された統幕は、短い時間迷った。
そして万一の場合、自衛隊が住民を戦闘に巻き込む形となる可能性があるので、最終判断は首相に上げたのだ。
官邸地下の危機管理センターの首相席に張り付いている首相は、統幕長から相談を受けた。
「万一、輸送中に中国の沖縄攻撃が始まった場合、避難中の住民が非常に危険なことは分かった。
だが、現状で避難は遅れているし、各自治体からの要望なのだろう?やりたまえ。私の責任で。」
首相が下した決定は往路の途上にあった輸送隊に伝えられた。
彼等は自衛隊の部隊・物資を卸すと、直ちに本州に引き返さずに港に留まって、待っていた避難希望者と、その自家用車を迎え入れた。
輸送船だけでなく、輸送機への搭乗希望もあり、航空自衛隊は途中から受け入れた。
乗り心地は悪いし、輸送艦と違って持ち込める荷物は限られるが、それでもと希望する県民もまた多かったのだ。
ちなみにPFI船群と、海上輸送隊、いずも型、陸空の輸送ヘリ・輸送機を総動員しても、輸送力はまだ不足している。
隊員と、装備は計画通り輸送できることは分かっていたが、彼等を沖縄、奄美、先島諸島で1か月にわたって持ちこたえさせることを思えば、各駐屯地に備蓄している物資では足りないのだ。
しかも住民の避難を支援するために、そのペースはさらに低下する。
台湾有事の展開予定地域である、これらの駐屯地では半年前から増援の受け入れ態勢と、物資の備蓄が密かに進められていたが、それでも2週間持てば良い方だ。
規模を拡大されつつあった、九州の弾薬、燃料支所から支援隊がそれぞれトラックの列を作り、増援を追いかけていたが、輸送船に積みきれない分が生じることが予想される状況だった。
この問題を解決するため、横田で調整が行われた。
この結果、佐世保の米軍第11水陸両用戦隊が協力することになり、サン・アントニオ級ドック型輸送揚陸艦、ホイットビーアイランド級ドック型揚陸艦合計4隻が、自衛隊の物資輸送を手伝うことになった。
彼等は彼等で与那国と宮古島へ派遣される海兵隊部隊の物資と車両を輸送する必要があったので、調整は多忙な仕事だった。
海上輸送第2陣で輸送される部隊は、本州の各駐屯地を出発すると高速道路を機動して、日本各地から鹿児島港、佐世保基地に30日までには集結を終え、海上輸送隊の帰りを待っていた。
装輪車両で装備を固めた即応機動連隊の戦略機動性が、計画通りに発揮されている。
かつて即応機動連隊の構想を練った後に退官した陸幕OBは、報道を見て、今のところ現役時代に懸命に考え抜いた構想通りに事態が進んでいる様子を確認し、幾分安心していた。
ここまでは良い。あとは肝心の戦闘能力次第だ。
嘉手納には、ハワイから米軍の第3沿岸連隊も到着した。
同じく、改編されたばかりのキャンプシュワブの第4沿岸連隊は、自衛隊による陣地構築を待ってから、C130輸送機とCH53ヘリ、オスプレイで与那国にNMESIS対艦ミサイル大隊と、歩兵大隊、防空大隊を空輸していた。
嘉手納に到着したばかりの第3沿岸連隊は、さらに翌日、自分のNMESIS大隊と、歩兵大隊、防空各大隊を宮古島に空輸する。
PFI船は高速を生かして、4月1日から順次第2陣の海上輸送に入り、それぞれ石垣、宮古にもう1個即応機動連隊と物資、重装備を輸送した。
重装備には宮古島に西武方面戦車隊の10式戦車残り2個中隊。西部方面特科隊の19式装輪自走155mm榴弾砲2個中隊、MLRS1個中隊、石垣への19式2個中隊が含まれていた。
第1海上輸送隊は、北海道からの輸送を終えると、水陸機動団第1連隊を輸送すべく佐世保に向かっている。
第1ヘリ団は、与那国に第12連隊から2普通科個中隊を空輸し、それが終わると小倉の第40普通科連隊を奄美に空輸した。
このうち「かが」だけは、燃料と弾薬を積んだトラックを満載して、最も遠方の与那国に向かっている。
その間、空自のC2は、本土と那覇を何往復もして、パトリオットを4個高射隊、03式もやはり4個中隊を予備弾と共に空輸していた。
さらに、沖縄本島の警備と守備を固めるため、中央即応連隊と、第一空挺団も空輸されている。
彼らは元から軽装備の部隊であり、空輸のため自前の車両と重装備の殆どを駐屯地に置いてきたから、とりあえず那覇駐屯地で待機することになっていた。
彼等の到着により余力が多少出来た15師団は、51連隊から2個中隊を小型級船舶=LCU、中型級船舶=LSVによる海上機動で多良間島に送りこんだ。
これで15師団には手許に1個中隊しか残されていない。
そして沖縄本島の沖合には、日米のイージス艦を中心とする、弾道・巡航ミサイル迎撃(BMD)グループが集結しつつあった。