防衛出動命令
2025年3月26日 21:55 東京
首相官邸で緊急の国家安全保障会議が開催されていた。
官房長官が、北の国営テレビの録画を流すモニターを切らせる。
それを口火に出席者が立て続けに発言した。
「事件そのものは自作自演でしょう。例によって偽旗作戦と思われます。」
「証拠はまだ無いが、電車の乗客の証言によれば、殺害された生徒に見覚えはあるが、拉致した連中には見覚えが無いとのことだ。
防犯カメラの過去の映像を確認しても、その連中は当日しか電車に乗り合わせていない。
おそらく犯人は今頃、富山の海岸あたりから北朝鮮に脱出している最中だろう。」
「たまたま乗り合わせた過激派が衝動的にやった可能性もあるのでは?」
「捕まえられるかどうか分からん犯人捜しより、北の攻撃への対処をどうするかだ。」
「北との交渉の余地は?期限は延ばせないのか?」
「限られたチャンネルで交渉を試みていますが、今のところ取りつくシマもありません」
「いずれにせよ、これは天祐です。いままで中国の意図を慎重に見極めてきましたが、これで最悪の場合でも、致命的な手遅れを避けることができます。」
「我々の過剰反応を誘って、事態のエスカレーションを狙っているのでは?中国の常套手段じゃないか?だいたいわざわざ攻撃を予告するような真似を?」
「もちろんその可能性はあります。
しかし、一週間後に北がミサイル攻撃を仕掛けてくる可能性はかつて無く高まっています。
それに乗じる、あるいは連携する形で中国が本当に台湾と沖縄に侵攻してきた場合、このままでは中国の意図通り沖縄の大部分が占領されてしまいます。」
「半年前からの中国と北の交渉はこのためだったのか?」
「北朝鮮のおかげと言ってはなんですが、沖縄への弾道弾攻撃を防ぐ名目で、とりあえず沖縄に自衛隊の増援を送り込み、不測の事態に備える名分は立ちました。」
「だとすると、わざわざ攻撃を予告してるのはやっぱり不自然だ。中国の奇襲が失敗することになるじゃないか。」
「今は総理のご決断が必要です。現状は明らかに国家存立事態です。自衛隊に直ちに防衛出動命令を出して下さい。」
「総理、ご決断を。」
「総理!」「総理!」
「簡単に言うな!!」
それまで沈黙していた総理が両手を机に叩きつけ、立ち上がって叫んだ。
議論で騒然としていた会議室が静まり返る。
一転して沈黙が訪れる中、総理は着席すると机に両肘をついて、両手で頭を抱えた。そのまましばらく苦悶する。
「私が総理になったのは学生時代に勉強した、イギリス議会のような、2大政党の交代による成熟した民主主義を日本においても実現するためだ。
支持率低迷にあえぎ、あたかも国民の目を逸らすためかのように防衛出動を命じた挙句、80年続いた平和に終止符を打った総理になるためではないのだよ。」
防衛大臣が穏やかな口調で語りかけた。
「私だって同じ気持ちです。自分が子育てで苦労したものですから、他の人には少しでも気楽に子育てができる世の中にしたい。そう思って政治家になったつもりです。
勉強や経験だと思ってお受けしましたが、防衛大臣になるつもりなんてなかったですよ。ましてこんなことになるなんて・・。
総理。ここまでの過程を半年間私は見ています。総理も我が国にも落ち度はありません。
悪いのは北朝鮮と中国です。
でも、総理がご自身でもなすべきと明白に分かっておられるご決断を、この土壇場で躊躇ってしまわれるなら、お話は別です。」
「・・・分かった。・・腹を括ろう。防衛出動命令だ!緊急記者会見と国会対応の準備を頼む。」
防衛大臣は統幕長と、統合司令に向き直り、凛とした声で命じた。
「聞いての通りです!速やかに所定の行動を開始して下さい。
敢えてお願いします。身命を賭して、日本国民の生命、財産、国土を守って下さい。
これはあなたがたにしかできないことです。今、全国民の希望を自衛隊に託します。」
敬礼して退室した統幕長と統合作戦司令は並んで歩いていた。
「タイミングとしてはギリギリだな。」
「ええ、ギリギリです。こうなったら時間との勝負だ。」
「しかし、防衛大臣の若い頃のファンだったんだが、相変わらず絵になる人だなあ。映画でも見てる気分だったぞ。」
「いやまったく。総理を食ってましたね。」
一瞬だけ現実逃避を楽しんだ二人は、市ヶ谷の部下に連絡を取り始めた。