80年目の変節
教村の新聞社は80年ぶりに、その論調を大きく変えつつあった。
4月3日の社説で、先島や尖閣諸島をあきらめてでも、即時停戦を模索すべきと述べたのが、猛批判を浴びたのだ。
購買を止める層はそれほどでは無かったが、企業広告の撤退が急増し、頑迷な上層部でさえ世論の変化を受け入れざるを得なかった。
澤崎の手記の掲載、防衛大臣、後には沖縄復興大臣の同行取材、自衛隊員達へのインタビューといった、教村の取材方針が社内的にすんなり認められ、掲載されていった理由はこれだった。
教村は若い自衛隊員達のインタビュー記事をチェックする。
特に、宮古島で戦った隊員達の手記、インタビューの最後は「こんなことはこれで最後にして欲しいです」と結ばれていた。
同じだ。繰り返されていると彼女は思う。
手元に、参考として置いていた2冊の本があった。
それぞれ阪神と東北の地震で、災害派遣に出動した自衛隊の記録だ。
当時の若い隊員達の手記の多くもまた、「こんなことはこれで最後にして欲しい」と結ばれていることが多かった。
外交面では、日米台と中国は互いに自分達が勝利したと認識しており、中国に至っては平然と賠償金を要求するような有様だったから、双方の「交渉」は嚙み合っていない。
教村は外交にはあまり詳しくないが、中国は欧米資本の撤退が加速し、日米台との経済交流が断絶することで、国内景気が本格的に後退に向かうであろうことは想像できた。
そのデメリットを支払ってでも、国内の引き締めを図るために、「外患」を意図的に作りあげたというのだろうか?と思った。
日本が総選挙を行っている頃、中国は上海と北京で戦勝式典を行い、多くの人民が熱狂的に参加している。
そう、中国人は負けたなどと欠片ほども思っていない。
京村はため息をついた。中国側の認識がそうである以上、大損害を受けた軍備が回復したなら、再び侵攻があるかもしれないと思ったからだ。
嫌だなあと心の底から思う。
こちらも防衛費の増大と、緊張の持続に付き合うしか無い。平和な時代は終わったのだろうか?
中国の式典といえば、向こうの統合作戦総司令官は、政治指導部が介入する程の稚拙な指揮をしたせいで、無闇に損害を出したらしい。
そのため「勝った」にもかかわらず、国内で異例の批判を浴びているらしかった。
現に総司令官は辞職して、式典には参加せず、代理として胡中将なる人物が国家主席の表彰を受けていた。
国内の極右政党は青筋をたてて、中国への報復と賠償金の獲得を主張していた。教村は一応その主張に目を通したが、一読した後に頭痛薬を飲むハメになった。
軍事専門家達によれば、戦闘そのものは事前に予測されていたよりも遥かに短期間かつ、日米台の損害が少ない優位な状況で終結したらしい。
だからといって、万事めでたしめでたしとはいかないのは、歴史を勉強していれば分かる話だ。
その状況を起点として発生する、新たな難題に悩む日々がやってくるだけだからだ。
現に中国に進出していた企業の多くは、生産拠点を国内に回帰したり、東南アジアに移しつつあった。
右派は呑気に喜んでいたが、話はそう単純では無い。
中国は日本の資産を遠慮なく差し押さえたから、各企業は特別損失で、直近の損益がとんでもない数字にならざるを得ない。下手をすれば倒産する企業が続出する。
さらには国内に生産拠点を移そうにも、原発を止めている今の日本では、降って沸いた電力需要に対応できないのだ。
それらの企業への支援と、各地への誘致。さらには原発の再稼働と新規建設を早急かつ円滑に行わなければ、早々と日本経済は危機を迎えることになる。
その在り方を巡って国会では活発な議論が行われていた。
そして急ぐ必要があった。審議拒否など論外中の論外だった。
教村としては旧野党が幅を利かせていた、わずか半年前と比べると、こんなに国会が建設的になるとは信じがたいものがあった。
同時に今までの野党の在り方が、いかに非生産的なものだったかを思い知る。
教村は適当に休憩をとってはいたが、今日も自宅に帰るのは遅い時間になりそうだった。