養子縁組
前総理は選挙後、第2次内閣を組閣し「自ら戦争は望まないが、仕掛けられたら躊躇せずに断固して戦う日本を作る。そのために無駄な仕組みを日本から排除していく。新たな戦争はもう始まっている」と宣言した。それが彼の責任の取り方だった。
前防衛大臣は内閣府特命担当大臣(沖縄復興)に任命され、必然的に沖縄に訪れる回数が飛躍的に増えている。
(元マネージャーの私設秘書は、防衛大臣時代と異なり、同行できることが増えて喜んでいた)
澤崎の取材がキャンセルになった時、代わりに教村は沖縄復興大臣の事務所に取材を申し入れた。
急な依頼だったが、沖縄で大臣と会って以来頻繁に取材をしていたから、事務所は二つ返事で引き受けている。
訪れたそこで、意外な人物が非常勤の事務員として働いているのに教村は気付いた。
八木真紀子だった。
一度教村は彼女に取材を申し入れたが「今はそっとしておいて欲しい」と断られている。
その後、相次ぐ取材申し入れや、誹謗中傷から逃れるため、真紀子は住所と電話番号を何度か変えたため、消息がつかめなくなっていたのだった。
そんな状況に加え、八木花の母親であるという事実は、彼女の再就職を難しいものにしていた。
仕事が決まらない中、総選挙後に宮古島で行われた慰霊式典に真紀子は参加した。
会場の隅で、申し訳なさそうにしていた真紀子に、沖縄復興大臣が気付いて声をかけたのだ。
私設秘書を交えて最近の様子を尋ねたが、案の定落ち着いて生活できず、仕事にも困っているらしかった。
「そういうことなら」と、私設秘書が「世間があなたのことを忘れてくれるまでの間、ウチの事務を手伝ってくれませんか?」と提案したのだった。
実際問題、「政治と金」の問題に足元をすくわれるような事態を避けるためにも、会計周りをチェックする目はいくらあっても足りないくらいだった。
次期総理も見えてきたとすら噂されるようになった沖縄復興大臣は、旧野党勢力や中国にとっては目障りな存在になっていた。
足元をすくおうと、背後に彼らが存在する怪しげな団体からの寄付の申し出も増えていて、色々と精査が必要なことが急増している状況だったのだ。
それに大臣は、元々、幼稚園や保育園を複数経営していて、こちらでも事務員が必要だったのだ。
それだけでなく、沖縄復興大臣の事務所が仲介する形で、娘を失った真紀子と、家族をすべて失った下地里奈を引き合わせ、養子縁組を行うことが計画されているらしい。
その提案を大臣と秘書から聞かされた真紀子は最初、花のせいで家族を失った子の親になるなんて、自分にはそんな資格が無いと断った。
だが、私設秘書が粘り強く提案を繰り返し、今では前向きになっているとのことだった。
実際問題、このままでは孤独な人生が待っている真紀子には、できうるなら「家族」が必要だったのだ。
それに、真紀子なら里奈を預けられる。
里奈は近所の家で預かってもらっている状態だった。
だが、政府から見舞金等の支給があり、遺族手当の法案が進んでいるにしても、金の問題以前に受け入れ先の家族には、里奈がどんなに可愛かろうとも限界があったのだ。
里奈の里親になった家庭は、宮古島の戦いでも、ひときわ大きな犠牲を出した集落の中にあって、奇跡的に家族の中に、一人の死傷者も出さずに済んでいた。
だが、皮肉なことに、その事実が所謂「サバイバーズ・ギルト」となって、里親を苦しめていたのだ。特に母親は、贖罪意識から里奈以外の子も預かり、張り切るあまりの無理がたたり、バーンアウトを起こして鬱病になりかけていのだ。
誰の目にも限界は明らかだった。
かといって、養護施設に里奈を預けようにも、堀部の聴取をきっかけに「シン・YOU・愛」に特別監査が入り、そのとんでもない運営実態が明らかになったことで、全国の児童養護施設の総点検と受け入れ一時停止がされている最中だった。
(「シン・YOU・愛」は事業停止処分が確実。就任早々厚生労働大臣の責任問題になっている)
そのような騒ぎの中、宮古市の議員との会談の中で、戦災孤児の問題が出たのだ。
その時、沖縄担当大臣の脳裏に、よく知っていて信頼できる里親候補として、真紀子が浮かんだのだった。
里奈と真紀子の縁は、こうして生まれている。
真紀子と里奈の養子縁組が成立したとしても、それはそれで真紀子と里奈が関係を一から築くことは、決して簡単な道のりではないだろう。
だが、宮古島を訪れた事務所の人間達には、それが最適な解決策であるように思えた。
教村は一連の事実を、真紀子の同意なく記事にはしないと約束した。
今はそっとしてあげた方よい。ジャーナリスト以前に人間としての判断だった。