衆院議員澤崎拓哉
教村はここ数日の取材内容を、自分の机で整理していた。
彼女は戦闘中は沖縄に居なかったものの、戦闘終結後に真っ先に沖縄に駆け付けたことがきっかけで、比較的スムーズに政府関係の取材を行うことが出来ている。
防衛大臣や、収監中の澤崎への取材もそうだった。
数日前に澤崎に面会予定だったが、急にキャンセルになった。数日遅れる形で面会したが、彼は以前より少しすっきりした表情になっていた。
何かあったか尋ねたが、彼は「ちょっとだけケジメをつけただけです」と言いながら、珍しく笑顔を浮かべたのだ。
彼は獄中で、自分の責任の取り方について考えていた。
例え死刑になっても、刑に服すだけでは、自分のせいで亡くなり、あるいは人生が歪められた人々に対して、十分な償いにはならないと考えている。
亡くなった人々の遺族に土下座して回るつもりでいたが、それでも失われた命は還ってこない。
死んだのは日本人だけでは無い。アメリカや台湾、中国の軍人や民間人も多くが亡くなった。
中国の軍人とて、李のような悪党とは異なり、その多くは純粋に祖国を信じて戦ったに過ぎない。
教村や澤崎の母が差し入れる新聞や、時間限定で使用を許されるインターネットで彼は世間の反応を見ていた。
だが、澤崎に言わせれば、日本人の危機感はこの期に及んでもまだまだ不足している。
中国の脅威と、政治の不作為を肌身で感じてきた立場としては、「こうすべきだ」と思うことが、山のようにあった。
だから澤崎は教村にこう語った。
死刑にならず、数十年後に出所して、獄中からの発信を続けても、それでも日本の危機感がまだ足りないようなら。
「その時は国政選挙に出馬して、直接自分の考えと責任について、改めて世に問います。
落選しても政治活動を行って、政治の不備を問い続けます。あくまで建設的に。
国会を空転させて喜んでいた連中とは違うやり方で。」
「それがあなたの考える責任の取り方なのですね?」
教村に問われた澤崎は、ゆっくりとうなずく。
衆院議員澤崎拓哉の誕生は意外に早かった。
3年後、日本に国家的慶事があり、澤崎に恩赦が与えられたのだ。
直後の国政選挙に澤崎は出馬。彼の行動には激しい賛否があったが、与党の比例代表枠で当選を果たす。その後は対中強硬派議員として、活動を継続していくこととなる。
教村はその足どりを、つぶさに取材していく。