亡命
東京に帰った真紀子は一人で葬儀の手配をした。
地元の葬儀社と寺と、わずかな親戚に連絡を取り、花の葬儀を執り行ったのだ。
7日法事が終わり。49日に花の骨を両親と同じ墓に収めるまでに、中国と正式な停戦となったことがニュースで流れていた。
停戦が発効すると、捕虜とお互いの国民を帰国させる手続きが本格的に始まったが、中国はあれこれと理由をつけて日本人の抑留を図った。
この時、日本は身柄を拘束した前田の亡命を認めている。中国が亡命を認めたなら、引換に多くの日本人の帰国を認めると言ってきたからだ。
国内には政府の「弱腰」を非難する向きもあったが、悪くない取引だった。
むしろ「用済」のはずの前田を、中国が重視するような態度を見せたことは日本側には意外に映った。
だが、中国は日本を裏切った者を見捨てない姿勢を示したのだ。
逆に言えば、中国は、日本を裏切る者をまだまだ必要としているということでもあり、それは中国が沖縄に対しても、日本そのものにも侵略する意思を捨てていないことの証左でもあった。
中国に渡った前田は、その後「良心的日本人」として日本の神経を逆撫でする発信を続ける。
この状況を見て、意外な人物が日本から中国への亡命を希望した。沖縄県知事だ。
彼は侵攻初日こそ弾道弾着弾の現場に姿を見せたが、それ以降は殆ど県庁から出てこなかった。
岩盤支持層の地域に、御用聞きの地元マスコミをSP代わりに引き連れて、顔を出す程度のことしかしていない。
防衛大臣に続いて総理が沖縄に訪問した時、知事と総理は会談したが、その時の彼の主張は要約するなら
「自分は悪くない。全部国が悪い」だった。
首相に随行するマスコミは、さすがにあきれ果て、政府関係者は怒りを抑えるのに必死だった。
なおかつ、彼は自分に暴行を加えた稲垣らを決して許さず、告訴すると息巻いていたのだ。
それを聞いた沖縄県民もまたあきれ果て、地元マスコミも擁護しきれなくなっていった。
そして「知事がそういうつもりなら」と、多数の県民が、知事がシェルター建設や、自衛隊や米軍の基地機能強化に反対し続けたこと、国民保護訓練すらボイコットしてきた事が、県民の犠牲を増やしたとして、告訴する動きを見せた。
自業自得とは言え、国内に居場所を自ら無くした知事は、前田の亡命交渉を見て、自らも中国に亡命することを希望したのだ。
(後の調査で、知事の動きを手引きする者が、沖縄県庁に入りこんでいたことが明らかになっている。)
結局、日本政府は「高度な政治的判断」として、二人の亡命と引き換えに、中国の在留邦人の大半を帰還させることを選択した。
前田ともども、中国に渡り、しばらくの間は中国寄りの言説を垂れ流した元知事だったが、その後数年で共に死去した。
暗殺説もあったが、単に高齢の二人の体が激変した生活環境に耐えられなかっただけだった。
彼らは、誰からも忘れ去られた孤独の中で「日本の良さ」を今更ながら痛感しながら死んで行ったのだ。
二人の亡命を日本政府が認めたのを見た、田渕を始めとした親中派活動家は「我も我も」と手を挙げた。
だが、今度は中国が受け入れを拒否した。彼らはそれほど明示的に中国へ貢献していない、というのが表向きの理由だった。
実際にはただでさえ、景気がさらに後退することが必至。しかもその状況で、これから軍備の再建に向かう中国に財政的な余裕が無かったのが本音だった。
文句を言うことばかりが一人前で、生産的な仕事をする能力も、コミュニケーション能力も低く、労働者としては使い物にならない彼らを受け入れる余裕など、中国にも無いのだ。