炎上
2025年4月5日 12:30 東京
真紀子が退職し、勝部が今も働く施設は運営に支障が生じていた。
真紀子をはじめ、戦争の前後で多数スタッフが退職、あるいは疎開のために休職してしまっていたからだ。
入居者も家族が迎えに来て疎開した例もあったが、少数だった。
スタッフだけでなく、入居者の食事の材料、リネン類、消耗品の納品にも混乱が続いている。
このため、施設のサービスは必要最低限とせざるを得ず、レクリエーションは全面中止。入浴や居室清掃のサービスは一時的に回数を減らす措置が続いていた。
夜勤が忙しいことに変わりは無かったが、日勤は場合によっては楽だ。
勝部は昼休憩を摂っている。
戦争になったら、通信ケーブルが通してある地下の「とう道」や、米国との海底ケーブルが中国軍や工作員に破壊されるため、インターネットは使用できなくなるという説もあったが、今のところ問題なく使用出来ている。
勝部には気になる情報があった。
TVによれば、中国との戦争は停戦になったということだったので、ひとまず安心していた。
早速、防衛大臣が現地視察に飛んで行ったらしい。
だが沖縄本島と宮古島では、民間人にも多数の死傷者が出ているらしかった。
沖縄県知事が建設に反対、遅延させたことでシェルターが不足している上に、国民保護訓練にも非協力的な姿勢を貫いてきたところへ、ミサイル攻撃や爆撃が行われたからだ。
先島諸島に至っては、中国軍に上陸されて地上戦が激しく行われた。
地上戦が行われたのは、与那国も石垣も宮古も同じだった。だが、住民の全島避難行われた与那国と、早い段階で自衛隊が地上戦を優位に進めていた石垣は、民間人の犠牲が比較的少なかった。
宮古での戦況が他と違って比較的苦しいものになり、犠牲者が増えた原因について、一つの憶測が拡散しつつあった。
中国側の情報空間で日本の「ジャンヌ・ダルク」「聖女」と呼ばれる女学生の存在だった。
彼女は宮古島で、場所を変えながら陸上自衛隊の地対空ミサイルの写真三枚を中国のSNSにアップ。
中国軍はこの情報を元に、自衛隊の地対空ミサイルの位置を特定し、弾道ミサイルで撃破することに成功したというのだ。
この投稿を最後に彼女の音信は途絶えており、死亡説も流れていた。
中国側は、我が身を呈して中国の攻撃に協力した彼女を絶賛していた。
この情報を中国SNSのウォッチャーが発見して、一つの仮説を付け加えて拡散させていた。
この中国側の情報が正しいなら、彼女の行動の結果、陸上自衛隊の地対空ミサイルが、開戦と同時に大損害を受けた。
さらにこの結果、宮古島の戦況は厳しいものになり、民間人の犠牲が拡大することになったのではないか?
問題の女学生とは花のことらしく、既に個人情報を特定されていた。
彼女に対しては、この仮説に賛同する人間達から「売国奴」「即時処刑」と罵詈雑言が浴びせられている。
花だけでなく、母子家庭であることまでもが暴露されると、真紀子にまで非難が及んでいた。
「これだから母子家庭は」「母親にも責任とらせろ。極刑至当」等の遠慮の無い罵倒が並ぶ。
勝部にはここまで見るのが限界だった。
事情を知る者には、もはや見るに堪えない。
彼は、真紀子が必死に娘の目を覚まさせ、中国の手先連中から取り返そうとしたことを知っている。
花自身は確信犯で中国に協力していたわけでも無いことも。
だが、そうした事実を叩いている連中に提示したところで、聞く耳など持たない。
それに確信犯では無いとはいえ、花が真紀子やSNSでの忠告を無視して、中国に加担してしまったことは事実なのだ。
鎮火するのを待つしかないだろう。
勝部は真紀子にSNSを見ないように警告した。
娘を失った母が見るには、あまりに酷だった。早く止めておかないと、娘の足跡を少しでも調べようとした真紀子が、冷酷な投稿を見てしまうことは容易に想像できた。
何せ、彼女はただ待っている状態のはずだから、時間は有り余っているはずなのだ。
真紀子からは了解した旨、返信があった。
伊丹駐屯地から自衛隊機で宮古島に行けることになったらしい。