再編成
敵部隊降伏による勝利により、当面の脅威が無くなったことで、石垣島から第22即応機動連隊が宮古島に増援されることになった。
だが、その輸送は簡単な話では無い。22連隊の重装備を運ぶための船舶が無いのだ。
彼等を運ぶべき輸送船団は「いせ」を中心に、佐世保で補給を終えた艦(まだ多数が補給中あるいは補給待ちの状況だった。)、あるいは日本海でのMD任務から外れた艦に護衛されながら、沖縄本島沖に到達したばかりだった。
さらにその先の海域における海上輸送を安全に行うために、予定航路上を海上自衛隊の対潜・水上打撃グループが、哨戒機部隊と連携して対潜掃討を行っている真最中だったのだ。
このような状況だったから、22連隊が完全な状態で移動するには、まだまだ時間が必要だった。
だが、それではせっかくの22連隊が勿体ない。よって午後になってから部分的に移動が開始された。
石垣港に輸送艇2号が生き残っていたため、上空をP1、SH60Kに護衛されながら16式1両とその物品を輸送開始したが、それでも宮古島への到着には半日が必要だった。
宮古島の受けた被害を知った、石垣港に停泊中の民間フェリーの保有する会社が輸送への協力を申し出てきたのはこの時だ。だが、自衛隊側は謝絶した。
未だ民間船舶が航行するには、沖縄の海は危険すぎる。
それにこのような状況に対する法的根拠が存在するのかも不明だったのだ。
結局、16式機動戦闘車、96式装輪装甲車といった重装備は、石垣島にいったん残置されることになった。
多良間島から帰投したばかりの、オスプレイとCH47、60は、補給と休息を済ませると整備が必要な機体を選別する。
さらに第一ヘリ団、第15飛行隊の残りの機体と合流して、大規模なヘリ部隊を編成して石垣島に向かった。
彼等は沖縄で積み込んだ補給物資を石垣に卸すと、一部は負傷者を載せて、自衛隊那覇病院に加えて臨時野戦病院も増設された沖縄本島へと戻って行く。
ヘリ集団の大部分は、22連隊の2個普通科中隊と、本部管理中隊、それに重迫撃砲中隊を空輸する。
CH47は、120ミリ重迫撃砲とその要員および弾薬、高機動車、中距離多目的誘導弾、93式地対空誘導弾といった、空輸可能な重火器と機材を担当していた。UH60とオスプレイは普通科隊員を中心に搭載している。
こうして4日の15時から16時にかけて、第22即応機動連隊の第一陣が宮古島に来援したのだった。
宮古島に降着したヘリ集団は、そのまま沖縄に帰投して大車輪の1日を終えたが、一部は石垣島に引き返して残っていた1個中隊を宮古島に空輸した。
制空権が中国寄りだった2日、中国海軍の防空艦が沖合にまだ居座っていた3日の時点では、このような作戦は自殺行為だっただろう。
沖縄の有坂陸将は、22即応機動連隊を大畑一佐の指揮下に入れた。
彼は、22連隊を早速、宮古空港正面の中国軍部隊の攻撃に投入する。
第10即応機動連隊と2個連隊で一気にたたみ掛けることも可能だったが、大畑は敢えてそうしていない。
損害を受けた第10即応機動連隊は、第22即応機動連隊と交代して後方に下がって、休養と再編成に入らせたのだ。(ただし、第10即応機動連隊は、機動戦闘車中隊のみは前線に残した。)
2個連隊での攻撃はその後だ。
第22即応機動連隊の攻撃も本格的なものでは無く、中国側に弾薬の消耗を強いるものだった。
戦力をローテーションさせつつ、チャンスを作るのは、ウクライナ軍の戦い方に近い。
民間人の犠牲をこれ以上出さないために、一刻も早く宮古島における地上戦の決着をつけたい気持ちはあったが、大畑は慎重な作戦を選択したのだ。
彼の選択を有坂をはじめとした、南西方面統合任務部隊司令部は承認している。
宮古戦闘団には、沖縄周辺海域での対潜掃討が進捗し、増援と補給物資を搭載した船団が接近していることが分かっている。
あと半日もして船団が到着したなら、戦況は一挙に自衛隊優位に傾き、終息に向かうだろう。
宮古戦闘団司令部に安堵した空気が漂っていた4日の夕刻、しばらく聞いていなかった中国軍機のジェットエンジン音が、宮古島上空に鳴り響いた。