石垣島の勝利
2025年4月4日 10:55 多良間島
多良間島の戦況は一時、膠着状態になっていた。
日中双方の戦力は拮抗していたが、自衛隊側は他の島からの支援射撃を受け取れたのに対して、中国側は計画していた支援、特に航空支援を得ることが出来なかったからだ。
弾薬の枯渇もあり、中国側の攻勢は早い段階でとん挫していた。
中国側は多良間空港の奪取を狙ったが、これに失敗。多良間村に後退して、立て籠もった。
だが、2個中隊しか居ない自衛隊側も損害もあって、空港と島そのものの占領は防いだとはいえ、安易な反撃は出来ない状況が続いていた。
そこから状況が動いたのは、4日の早朝だった。
宮古島と石垣島の中間に位置する多良間島に敵が存在すると、両島の連絡、戦力移動に支障が出ると有坂陸将は判断。奪回のために水陸機動団第2連隊が投入されたのだ。
彼等はAAV7やホバークラフトでの上陸では無く、第一ヘリ団のオスプレイと、第12ヘリコプター隊のCH47、60によって空輸された。
多良間島は、与那国と同じく全島避難が完了していたから、航空支援が遠慮無く行えた。
だが、その過程で国民の財産が、主に家屋を中心に失われる事態は避けることが出来ない。
新田原から飛来した301飛行隊のF35Aは、地上の火力誘導班の指示に従い、LJDAM、JDAMで、多良間村の中国軍部隊が立て籠もる陣地や家屋に対して爆撃を行った。
爆撃の後、水機が持ち込んだドローンにより、中迫撃砲の観測射撃が行われる。
水機のドローンはさらに爆撃も行い、多良間島の中国軍は急速に消耗していった。状況を確認した水機2連隊は、午前10時を期して本格的な掃討を開始。
それでも中国側は頑強に抵抗し、多良間島が確保された時、投降した生存者は12名だけだった。
だが、自衛隊は初めて領土に侵入した「敵」を、排除することに成功したのだ。
2025年4月4日 11:36 石垣島
その1時間後、中国側に衝撃が走った。
石垣島の上陸部隊が、独断で投降したからだ。
石垣空港は与那国空港と異なり、上陸に適した砂浜の白保海岸に面している。
このため、中国側としては3つの島のうち、投入する戦力が最も少ないとはいえ、石垣島の占領が最も成功確率が高いと見積もっていた。
与那国は上陸適地が限られており、ヘリボーン部隊と強襲上陸部隊が分断されていた。
宮古島の場合、投入される兵力は多かったが、目標が多良間島、下地島空港、宮古空港と多すぎた。
そこへいくと、石垣島の場合は石垣空港さえ確保すれば良く、しかも与那国のように戦力が地形の問題で分断されることもないからだ。
石垣島の戦況は、当初は中国側の目論見通りになった。
自衛隊は爆破処理を行ったものの、中国軍は石垣空港の占領に成功したからだ。
だが、そこから先が地獄だった。
中国側が約束通りの航空支援を得られない状況下、石垣戦闘団が石垣駐屯地を中心に、周辺の高地を巧みに利用して構築した馬蹄型の陣地群に半包囲されて、集中射撃を浴びる形になったからだ。
石垣空港がキルゾーンになっていることに気付いた中国軍だったが、かといって、支援が無いことにはどうにもならない。
数度、無理矢理な攻勢を仕掛け、周辺の陣地を沈黙させようと試みたが、失敗。かえって戦力を失っている。
中国軍上陸部隊指揮官は、優秀な人物だった。
そうであるが故に、独自の視点を持っている。
彼は急速に戦力が消耗する中、祖国への忠誠心、部下に対する責任感、自分の保身といった要素を、重迫撃砲弾と16式と155ミリ砲弾、それに105ミリ砲弾が降り注ぐ中で考えた。
その結果、勝ち目のない戦いから部下と自身を救うために、降伏を許可しない統合司令部に反抗して、独断での投降を選択したのだった。
(その際に、馬の合わなかった政治委員を射殺している。)
この結果、自衛隊としては突然訪れた石垣島の勝利によって、望外の予備兵力が手に入ることになる。
2個連隊のうち、1個は石垣島確保のために残しても、もう1個は宮古島、あるいは与那国島のどちらかに、転用することが可能になったことを意味していたのだ。
無論、多良間に続いて、未だ多数の民間人の残る石垣島での戦闘が、自衛隊の勝利によって終結したことは、日本にとっては朗報以外の何でも無い。
残る宮古島、与那国島で苦しい戦闘を継続している、自衛隊員達の士気も向上していた。
2025年4月4日 12:05 那覇市
南西方面統合任務部隊司令部は、石垣島からの報告が確認されると歓喜に包まれた(若い木村二尉など涙ぐむほどだった。)。
TVにも速報「石垣島に着上陸した中国軍部隊が降伏。自衛隊が勝利」のテロップが流れて、日本人はほぼ1世紀ぶりに手にした戦闘での勝利を歓んだ。
東京では号外が配られた程だった。
地元のローカル局が石垣島の自衛隊に、感謝を伝えようとする人々のインタビューを放送していた。
そのうちの一人、我那覇氏(43)は石垣戦闘団司令部の近くで、こう語った。
「正直、知事と新聞の言うことを信じてました。いままでだって、ずっと平和だったんだから、これからも平和だ。
自衛隊が来たら、かえってややこしいことになるだけだ。と。
でも、私が間違ってた。
中国は自衛隊の基地とかに関係なく、空港を狙って無差別攻撃してきました。
しかも、ただ攻撃するだけじゃなくて、占領するつもりで。
百歩譲って、自衛隊の増強が話をややこしくしたにしても、占領までする理由なんか、これっぽっちも無いじゃないですか?
急に不安、というか絶望を感じましたよ。
アメリカはまがりなりにも、一度占領した沖縄を返してくれました。
でも、中国は?ロシアと一緒で、沖縄の独立だなんだと妙な理屈つけて、返すつもりが無いんじゃないか?
このまま占領されたら、石垣は永久に中国のものにされるんじゃないか?
うちらの権利もへったくれも無くなるんじゃないか?ってね。
もう、本当に、なんで妻と子供だけでも、島から避難させなかったんだって、何度も後悔しました。
知事と新聞の言う事なんて、信じた俺が馬鹿だった。ネットでは警告されてましたしね。
それにここは、うちらの土地です。なのに、なんでうちらが逃げることを必死に考えなきゃいけないんだって。
それを思うと悔しくて。ウクライナの人々も、こんな気持ちだったのかって。
でも、自衛隊が島を守ってくれました。
本当に、本当に、よくやってくれたと思います。
もう、無我夢中で、一言感謝を伝えたくてですね。ここまで、やって来たんです。はい。
それから日の丸みたいな、あの旗?ああ、「自衛隊旗」というんですか。
あれを持って、自衛隊が行進してるところを見ましてね。なんというか、頼もしいやら、美しいと思うやらで。
とにかく日本の旗が、こんなにも綺麗に見えるもんかって、感激して泣いちゃいましたね。はい。」
沖縄県庁でも、職員が喜びに包まれていたのは同様だった。
だが、知事と取り巻きのマスコミ連中だけが、ニュース速報や、我那覇氏のインタビューを不満気に眺めていた。
彼等は自分達の主張が間違っていたことに、内心では気付いている。
だが、現状では「中国には勝てないから、抵抗は無意味」という主張すら、自衛隊の奮戦によって否定されつつある。