搬送と弾道弾攻撃再び
弾道弾攻撃から始まる一連の攻撃で、沖縄本島と、空港を有していた離島において、民間人にも多数の死傷者が発生していた。
特に宮古と石垣では、地上戦による死傷者までもが出ている。
負傷者の病院での治療は、病院の医療従事者も避難していたため、踏みとどまっていたスタッフでは対応力に限界があった。離島は最初から医療設備が限られている。
他の病院に搬送しようにも、沖縄本島の病院では、いつ攻撃されるか分からない。
自衛隊那覇病院はつい最近老朽化し、手狭だった建物を大規模に新築し、かつ航空自衛隊管轄から陸上自衛隊管轄に移管していた。
そこへ増援として全国から方面衛生隊と、師団および旅団の後方支援衛生隊が展開しており、ありったけの野外病院を展開して大規模な戦時医療体制を整えていた。
自衛隊那覇病院では自衛隊の負傷者だけでなく、民間の負傷者も受け入れていたが、沖縄では治療中にさらなる戦闘に巻き込まれる懸念があることに変わりは無かった。
安心して治療を継続するには、自衛隊のCH47、UH60、そしてオスプレイといった長距離飛行が可能なヘリコプターで、応急治療や初期外科手術が終わった患者を、沖縄から最低でも奄美か九州の病院に送り届けて入院させるしかなかった。
輸送機で搬送する手もあったが、沖縄の空港は断続的な空襲に曝されており、あまりにも危険すぎる。
各自治体は、負傷者の本州、九州への搬送について、もはや県を通さず、直接南西方面統合任務部隊に相談・交渉してきた。
有坂陸将も自治体の要望の切実さは理解している。だが、彼は危険な決断を迫られた。
熾烈な航空戦が継続しており、患者の輸送中に自衛隊機どころか民間機であっても、戦闘に巻き込まれて撃墜されるかもしれなかったからだ。
このため、有坂陸将は航空自衛隊に対して、搬送の間接的な護衛に戦闘機を割くことを命じた。
充分な距離を保った空域で、数個フライトによるCAPや、HAVCAPを増強した。
その上で、患者輸送で本州を行き来するヘリは、少数、低空で飛行させたのだった。
だが、この作戦に投入できるヘリは限られていた。
従って、本土へ移送されたのはトリアージで優先度が高いとされた重傷者のみで、花や青池といった死亡者の遺体は、引き続き現地に留まっている。
米軍の方も、補給や負傷兵の後送を行う輸送ヘリやオスプレイの護衛に、戦闘機多数を拘束されていた。
彼等は、多数を発射した迎撃ミサイルの補充には、岩国や横田からCH53やCH47を飛ばしていた。
嘉手納も那覇も、まだグラスファイバーマットを何回も交換しながらの応急的な運用でしかない。
重量物品を満載した、C17クラスの大型輸送機が着陸できる強度まで、滑走路の復旧が進んでいるわけではなかったのだ。
従って、輸送機でまとまった数量を運べないため、ヘリを何往復もさせているのが現状だった。
この影響と、那覇への再度の弾道弾攻撃の影響で、航空自衛隊の3日午後の作戦にかなりの影響が生じる。
2025年4月3日 14:25 沖縄・日本本土
中国ロケット軍のMRBMによる弾道弾攻撃が再開される。
第1斉射の目標は、那覇と嘉手納。20発ずつが発射された。
沖縄の迎撃ミサイルは、かなり消耗していたことともあり、第1次攻撃であれだけの阻止率を見せたことが嘘のように、迎撃網を突破された。
中国ロケット軍が、衛星誘導をあきらめたことも大きかった。
那覇には二つの滑走路に1発ずつが命中。再び使用不能に陥る。
嘉手納も同様に数発が命中し、半日は使用不可能に陥った。
日本本土の民間空港や在日米軍基地への攻撃は、迎撃ミサイルがまだ多数残っていたため、期待された程の戦果を上げることは出来なかった。
岩国に命中弾は無い。横田、三沢には数発の命中弾が発生。だが、三沢の機体は、既に築城と岩国に移動済だった。
羽田には数発が命中。関空は迎撃網の対象外だったため、殆どが命中して大きな被害が生じた。
特に関空の大被害は、マスコミがすぐさま報道したことで日本中に衝撃を与えた。
横須賀への攻撃では2発が、ドックに入ったままの米イージス艦に命中し、大破させてしまっている。
ドックでは最近まで空母ワシントンが入って、飛行甲板の張替えを始めとした大規模な補修工事を行っていた。
だが、中国による攻撃が濃厚となった1週間前に、とりあえず航行可能な処置を行って、飛行甲板は工事中という戦闘力の無い状態で、ハワイへ向かって回航されていた。
中国側の潜水艦や、機動艦隊に遭遇する危険を考慮し、その航路は北に迂回したものになっており、未だハワイには到着していなかった。
だが、そのまま横須賀に留まっていれば、身動きできないままに弾道弾で破壊されてしまうところだった。