苦戦
だが、後続を運ぼうとした726A型の残り3隻は、300名の増援を運ぶ途中で、更に2隻が撃沈されてしまった。
最後の1隻がなんとか100名を南側に揚陸したが、直後に01式誘導弾と、87式誘導弾をそれぞれ2基のエンジンに受けて擱座。身動きが出来なくなった所で、重迫撃砲や16式の105ミリ砲の射撃を受けて完全に破壊された。
揚陸指揮官は、罵りを漏らした。
3隻の揚陸艦にはまだ1000名の兵力と軽戦車が残っていたが、彼等を運ぶ手段が無い。もう、ヘリ数機しか残っていないのだ。
水陸両用車を呼び戻そうにも、今、橋頭保の前線を支えているのは彼等だったし、海上に出た途端に敵の対戦車ミサイルに狙い撃ちされるのが目に見えていた。
援護する艦砲も、ロケット弾も残っていない。攻撃ヘリ部隊は、派手にロケット弾と対戦車ミサイルをばら撒いたが、こちらも壊滅していた。
(こうなることは分かっていたのだ。)
揚陸指揮官は苦い思いを噛みしめる。
米海兵隊ですら、近代化された陸軍に対して、従来のような強襲上陸を行うのは危険が大きいとしていたのに、いくら質量共に強化されたとは言え、中国陸戦隊は上層部が思い描くような上陸作戦を行うには、まだまだ規模が小さいのだ。
それでも上陸を成功させるには、何日もかけた徹底的な砲爆撃が必要だったはずだ。
だが、敵の対艦ミサイルがいつ飛んできて、揚陸艦ごと葬られかねない戦況では、こうするしかなかったのも事実だった。
揚陸指揮官は、揚陸手段と攻撃力を補うために、尖閣諸島周辺に新たに進出しつつあった、新手の武装民兵を呼び寄せることにした。
彼等の漁船に残りの部隊を乗り移らせて、漁船で海岸に突っ込ませるつもりだ。
それに第2船団の戦車揚陸艦が、3隻与那国に割り当てられることになっている。
揚陸艦が対戦車ミサイルで撃沈される心配は無いから、とりあえず橋頭保を確保した今、直接浜辺に乗り込むビーチングを実行するのだ。
そうして3隻から軽戦車を投入し、増援を送りこめば、まだ戦況は打開できるはずだった。
それにしても。揚陸指揮官は思った。
(与那国だけでなく、石垣と宮古も大変なことになっているのだろうな。)
彼が想像した通り、石垣島における戦況は与那国島と大同小異と言えた。
一方で宮古島の戦況は、中国軍にとって最もマシと言えた。
理由は三つあった。
一つは、地形が平坦なため、防御側が山に陣地を構築できた与那国、石垣と異なり、陣地の防御力が落ちる場合があったこと。
もう一つは、上陸適地が比較的広範囲に広がっていたことだった。
最後の一つは、花の行為の結果、03式1個中隊が失われたことが響き、中国側の空爆とドローンの攻撃が比較的成果を上げたからだ。
しかし、当初の計画より遥かに厳しい戦いを強いられていることに変わりなく、彼等もまた最低限の橋頭保を確保しつつ、第2船団の増援と重装備の到着を心待ちにしていた。
宮古島に向かった075級に分乗していた空中強襲大隊1個は、多良間島に降着した。
数機のヘリを撃墜されたものの、320名が多良間空港を奪取しようと、空港を守備していた15師団の2個普通科中隊と交戦中だった。
さらに多良間島の北にある水納島には、武装民兵の新手100名が上陸し、無血占領していた。
この報告を受け、長征統合作戦司令部は第2船団の戦車揚陸艦のうち1隻を、水納島に向かわせた。この戦車揚陸艦には、ロシア製対空ミサイルS4001個中隊が搭載されている。
宮古島の戦局が苦しいので、いち早く米空軍の行動を妨害するために、宮古島に揚陸する重装備の予定を一部変更したのだ。
3日午前中の地上戦の戦況は、お互いにとって苦しいままだった。
与那国島では、長谷川は破壊された掩体の復旧を指揮し、吉岡はドローンと狙撃兵を警戒しながら、切断された通信線を復旧するために、塹壕の中を駆け回っている。