閾値
(だが、それにしても・・・。)
ヘリの中で張は思う。
(日本の政治家は意外に早く、中国本土への攻撃を決断してきたな。
もっとためらうものだと予想していたが。
自分ですら意外だったのだから、日本の政治家を舐め切っている中央軍事員会のお歴々にとっては、いじめられっ子に殴られたような不快感だろうな。
日本の政治家は「話し合い」を求めることも、いつものように「慎重に事態を見極める」こともしなかった。自分が北京に呼び出されて、八つ当たりされるわけだ。)
張は戦争のエスカレートを招きかねない、米軍による中国本土の航空基地への攻撃が、あっさりと実行されたことについて考えていた。
それに対する中国側の報復攻撃の対象は当然、今は抑制している沖縄以外の日本本土ということになる。
それ故、米軍といえど、さすがに日本に対して何の相談も無く攻撃を実行すれば、日米関係に悪影響が生じるはずだ。
だが、だからと言って米側が相談したところで、日本政府はいつものように迅速な決断ができないか、慎重な態度を示して時間を無駄にする。・・・そのはずだった。
だが、実際には即座に実行された敵の中国本土への反撃によって、中国側の航空作戦が大きく狂わされる展開になっている。
日本自身の「反撃能力」の整備は未だ途上にあったものの、米軍による中国本土の軍事施設に対する反撃に、日本政府はあっさりと同意したらしかった。
つまり、弱腰のはずの日本政府は、日本本土への更なる報復攻撃への覚悟をも固めていたことになる。
張は知らなかったが、彼の疑問に対する回答は、実は1週間前には出ていた。
自衛隊に対する緊急展開が決定された時、中国の侵攻が現実になった場合の日本と世界経済および、
国民生活に及ぶ影響についてのレポートが、国家安全保障会議メンバーに提出されていた。
経済産業省が主導して作成したものだった。
そのレポートによれば、戦争の規模、期間、展開のケースによって、影響の度合いは様々だった。
共通しているのは、事態が長期化すればするほど、当然ながら世界規模のサプライチェーン、日本の輸出入への影響も長期かつ、深刻化するという結論が出ていたことだった。
当然ながら事態の長期化に比例して、日本の経済活動と国民生活に対する影響も、長期かつ深刻なものになっていくだろうと予測されていた。
レポートの概略と数字を眺めた出席者達は青ざめた。そしてその内容は、与党の重鎮達にも伝わったのだ。
事態の抑止、平和的解決に失敗した時点で、首相の引責辞任、内閣総辞職という事態は避けられないだろう。
だが彼等は、さらにこのレポートの、最悪パターンのシナリオが現実となった場合を想像したのだ。(その後での総選挙で果たして我々は勝てるだろうか?)
口に出しはしなかったが与党の政治家達は、要は自分の議席の心配をしていたのだ。
首相の巻き添えは御免こうむる。
そのためには、本当に戦争になった場合には、一刻も早く国民が納得する形で終わらせる必要がある。
しかし、初動で中途半端な対応をしてしまえば、早期解決の可能性は遠のいていくだろう。
つまり一言で言うなら、自衛隊と米軍に「自分の議席を守るため、さっさと勝ってくれ」ということだった。
このため、米軍が「ダークイーグル」や各種トマホークを持ち込んで、日本本土から中国本土への反撃案の説明と同意を求めてきた時、日本の側の主な政治家の回答は既に決まっていたのだ。
彼らの決断が万一裏目に出て、被害が拡大した場合の責任は、首相と防衛大臣に押し付ければ良い。
上海の司令部に戻った張は、指揮所のモニター見回した。
モニターの一部が、CNNのニュースを映している。アメリカは衛星を利用したサービスから中国を次々と締め出していたが、ニュースの視聴は放置していた。
中国側にとっては都合の悪い情報だらけで、人民の視聴は厳禁になっていたが、軍もその内容をモニターしている。
ちょうど沖縄に入っていたクルーが撮影した映像を流していた。
一瞬だけ、張はその内容に目をやる。
破壊されたマンションと、民間人も混じっての救助活動。誤爆されたシェルターと、路上に並べられた犠牲者。悲嘆にくれる遺族。
それで充分だった。
(まずいな。報道が速い。こんなものをこの調子で流されては本当にまずい。
これを見た日本人は、事態を「他人事」とは考えなくなってしまうだろう。連中の意識が閾値を超えて、結束と戦意が生まれてしまうじゃないか。
一度連中の戦意に火が付くと厄介だ。
かつて米軍がやったように、無差別攻撃と飢餓作戦を遠慮なく行いでもしない限り、屈服させられない。そしてそんな方法は・・わが国には核兵器の使用しか無い。)