幼馴染彼女が寝取られたので、フィクションのふりをして実体験を小説化したら大成功した件
「和泉さん。これから、みんなで一緒に飲みに行きませんか?」
そう誘ってきたのは、同僚の依藤奈緒だ。
先日、社内のあるプロジェクトの一つが一段落したので、きっとその打ち上げも兼ねて飲みに行こうとしているのだろう。
しかし、あいにく今日は都合がつかず参加することができない。
「あー、ごめん。これから、ちょっと用事があって……」
「あっ……もしかして、彼女さんですか? 例の幼馴染の」
ハッと思い出したように、彼女はパンッと手を叩く。
「うん、まあね。今日は、久々にデートなんだ」
「そういえば……彼女さん、多忙だって言ってましたよね」
「というわけで、今日は先に帰るよ。本当にごめんね」
「いえいえ、気にしないでください。デート、楽しんできてくださいね!」
そう言うと、依藤さんは大きく手を振って見送ってくれた。
俺──和泉光には、同い年の美人な彼女がいる。
彼女の名は、浅倉風夏。俺の恋人であり、幼馴染でもある。
初めての出会いは、幼稚園の時だった。彼女は昔から人懐っこく、引っ込み思案でなかなか友達ができなかった俺に気さくに話しかけてくれた。
今でも、その時の光景がまるで昨日の出来事のように鮮明に思い浮かぶ。
家が近かったこともあり、俺と風夏が仲良くなるのにそう時間はかからなかった。
俺は、成長するにつれてどんどん彼女に惹かれていった。
高校生になった俺は、駄目元で風夏に告白してみた。
そしたら、風夏は「もちろん、喜んで。実は、私もずっと前から光くんのことが好きだったの」と快く承諾してくれた。
なんでも、今まで告白されても断り続けていたのは俺のことが好きだったからだそうだ。
風夏は、俺にとって初恋の相手だ。まさか、彼女と付き合える日が来るなんて夢にも思わなかった。
それから、十年が経ち──今、俺は風夏にプロポーズをしようと計画している。
──やっぱり、今日プロポーズしようかなぁ。
本当は、一ヶ月後の彼女の誕生日に合わせてプロポーズをする予定だった。
でも、毎日そわそわしてどうにも落ち着かない。
それに、風夏は多忙だから誕生日当日に会えるとは限らないし……。
──よし、決めた。今日にしよう。
そう決心すると、俺は一旦家に指輪を取りに帰り、軽やかな足取りで待ち合わせ場所へと向かったのだった。
一時間後。
「……遅いな。風夏、どうしたんだろう?」
風夏にLINEメッセージを送ってみたものの、一向に既読が付く気配がない。
──もしかしたら、急に予定が入って来れなくなったのかな。
風夏は超多忙だ。というのも、彼女は今をときめく売れっ子作家だからだ。
六年前──大学在学中にある大きな賞を取って作家デビューしてからは、息つく暇もなく執筆に励んでいる。
もしかしたら、担当編集と急な打ち合わせが入ったのかもしれない。
「まあ、仕事なら仕方ないよな……」
残念に思いつつも、俺は帰路につく。
なんだか、最近ますます風夏が遠くに行ってしまったような気がして寂しい。
彼女の活躍を嬉しく思う反面、小説に彼女を取られたような気分になり、なんとも言えない複雑な気持ちになる。
「さてと……ウジウジしていても仕方がないし、こっちはこっちで趣味を満喫しますか」
帰宅し、シャワーを浴びて一息ついた俺は、キンキンに冷えた缶ビール片手にスマホを弄る。
そして、いつも通り自身のSNSアカウントをチェックした。
『今回の新作短編もすごく良かったです! やっぱり、ジョン・ドゥさんが書かれる話は面白いですね。夢中になって読んでしまいました。ちゃんとした感想はDMで直接送らせていただいたので、後で確認してもらえると嬉しいです』
一人のフォロワーから、そんなリプが来ていた。
そう、何を隠そう、俺自身も物書きの端くれなのだ。十年ほど前──高校生の頃から、『ジョン・ドゥ』名義でファンタジー小説を執筆している。
といっても、風夏のように執筆を生業にしているわけではないのであくまでも趣味の範囲なのだが。
『ウィステリアさん、いつも感想ありがとうございます。後で確認しますね』
そう返事をすると、俺は缶ビールをグイッとあおった。
このウィステリアというフォロワーは、かれこれ二年くらい前から俺のファンで居続けてくれている。
無名の俺なんかの作品を読んでくれるだけでも有り難いのに、そのうえ、毎回感想までくれるのだ。
ずっと昔──風夏にも、自分の小説を見せたことがある。
でも、彼女が書いているのはいわゆる一般小説なので、俺が書いている話は正直読んでもよくわからないと言っていた。
小説を見せるたびに「私、ちょっとラノベ系とかには疎くて……」と首を傾げられてしまったので、社会人になってからは一切自分の小説を見せていない。
──まあ、俺の小説なんて所詮下手の横好きだしなぁ……。今思えば、見せることすらおこがましかったのかもしれない。
『最近、ちょっと自信喪失気味かも。身近にすごい人がいるせいか、劣等感が半端ない。その人に比べたら、自分なんて……と思ってしまう』
気づけば、自身のアカウントでそう呟き、心情を吐露していた。
「あ、やべ。このアカウントではあんまりネガティブなことは言わないようにしていたのに。……急いで消そう」
そう思い、ツイートを削除しようとする。
すると──
『私は、そうは思いませんよ。ジョンさんは、もっと自分に自信を持つべきです!』
ウィステリアからのリプだった。
『すみません、ネガティブなことを呟いてしまって』
『あ、いえ。こちらこそ、すみませんでした。差し出がましいですよね……』
『そんなことないですよ。むしろ、励ましてもらえて嬉しかったです』
気まずい空気を払拭するように、俺はそう答えた。
──うわああ、やっちまった……! できれば、貴重なファンの前では弱い部分を見せたくなかったのになぁ……。
後悔していると、先程のツイートに更にリプが付く。
今度は誰だろう? そう思いつつ、確認してみる。
『そのまま消えろよ。いつも、ゴミみたいな小説上げやがって』
蓋を開けてみればアンチだったので、テンションがだだ下がりする。
しかも、こいつ……いつも俺が新作を上げるたびに絡んでくる奴じゃないか。
「はぁ……ブロック、ブロックっと。まあ、どうせまたアカウントを作り直して絡んでくるんだろうけど」
小さくため息をつくと、俺はアプリを閉じたのだった。
翌日の昼休み。
社員食堂で一人で昼食をとっていると、不意にスマホが震えた。
気になって確認してみると、風夏から「見て」というメッセージが届いていた。
「風夏……?」
やっぱり、昨日は急な打ち合わせが入ったせいで来れなかったのか? そう思い、アプリを開いて確認してみる。
「なんだこれ? 動画……?」
どうやら、風夏は動画を送ってきたようだ。
怪訝に思いつつも、俺は動画を再生してみる。
再生が始まった瞬間、俺は目を疑った。
そこに映っていたのは、風夏と──
──誰だ? この男……?
マスクを付けた、見知らぬ男だった。
カメラは顔のアップの状態から徐々に引いていき──やがて、全裸の二人が映し出された。
「は……?」
頭が真っ白になった。
マスク姿の男の上に、嬉しそうに自分から跨がる風夏。その光景を、これ見よがしに撮影する男。
「彼氏くん、今どんな気持ち?」とか「今から君の彼女を寝取りまーす」とか、そんなテンプレのような煽り文句がイヤホンから聞こえてきた気がしたが、呆然としすぎて言葉がちゃんと耳に入ってこない。
でも──
──ああ、そうか。風夏は、俺を裏切ったのか。
どこか冷静に、そう悟っている自分がいた。
同時に、風夏との思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
告白をした時に涙を流しながら喜んでくれた風夏、付き合いたての頃は手を繋ぐことすら恥ずかしがってできなかった風夏、毎日欠かさず「大好きだよ」とメッセージを送ってくれた風夏──その全てがまるで初めから存在しなかった幻影のように思えて、ひどい虚無感に襲われる。
「は、はは……ははは……」
思わず、乾いた笑いが漏れてしまう。完全に自嘲だった。
その様は、周りから見たらさぞかし不気味だっただろう。
「和泉さん……? どうしたんですか?」
尋常ではない空気を察知したのだろうか。通りかかった依藤さんが、心配して声をかけてくれた。
彼女は、普段から何かと俺のことを気にかけてくれている。
「ああ、ごめん。なんでもないよ」
「……本当ですか?」
「いや、それがさ……凄く面白い動画を見てしまって。笑いが堪えきれなかったんだよ」
「そ、そうなんですね……それなら、いいんですけど……」
腑に落ちない、といった様子ながらも依藤さんは一緒にいた女性社員とともに別の席に座った。
面白い動画、か。そうだな。ある意味、面白いかもしれない。こんな経験、普通はできないだろうし。
仕事が終わると、俺は事実の確認をするために風夏の家を訪ねることにした。
彼女は黒だ。それは、もうわかっている。でも、万が一あの男に脅されて仕方なくやっていたとしたら……?
その可能性も捨てきれないので、直接本人に聞こうと思ったのだ。
風夏が住んでいるマンションに到着し、インターホンを鳴らしてオートロックを解除してもらう。
会うのを拒絶されるかと思いきや、意外にも彼女は素直に要求に応じてくれた。
「……それで、なんなんだよ? あの動画は」
部屋に通されるなり、俺はすぐにそう問い質した。
すると、風夏は張り裂けんばかりに口の端を吊り上げて、
「見ての通りだけど? 私、体も心もあの人のものになったの」
そう言ってのける。ああ、やっぱり……と一縷の望みが絶たれた。
でも、違う。俺が一番聞きたかったのは、そういうことじゃない。
「じゃなくて!! なんで、わざわざあんな動画送ってきたんだよ!?」
百歩譲って、風夏がコソコソ隠れて浮気をしていたならまだわかる。
けれど、自分が寝取られる姿をわざわざ動画に収めて彼氏に見せつけてくるというのは一体どういう心理なのか。それが一番知りたかった。
「んー……強いて言うなら、楽しいから? あと、好奇心かな」
風夏は、あっけらかんとした態度でそう返してきた。
「……?」
「一番信頼している相手からああいう風に裏切られたら、光くんどんな顔するんだろう? って。それが気になって、仕方がなかったから」
「つまり、娯楽の一環で俺を絶望の淵に突き落としたかったと……?」
「うーん……まあ、一応そうなるかなぁ」
にわかには信じ難かった。今、目の前にいる女は本当に俺が知っている風夏なのだろうか。
「でも、全部、光くんが鈍感なのが悪いんだよ? 私、光くんと付き合う前から色んな人と関係を持っていたのに……光くん、全然気づかないんだもん」
「どういうことだ……?」
「それなのに……ずーっと、私のことを恋人に尽くす一途な清楚系彼女だと信じ込んでいて。なんかもう、純粋すぎてやきもきしちゃった。同級生からの告白を断り続けていたのだって、悪評が立たないようにわざと他校の人を選んでいたからだったのに」
「なっ……」
「──でも、これで何度私を寝取られても気づかない鈍感で純情な光くんもようやく夢から覚められたね」
俺の顔を覗き込みながら、風夏が満面の笑みでそう言った。
血色の良い赤い唇と、肩からこぼれ落ちる長い黒髪が妙に艶やかで──それがより一層、悪女っぽさを引き立てていた。
「それじゃあ……なんで、俺にこだわっていたんだ!? そんなに沢山相手がいたんなら、もっと早く放流すれば良かっただろ!?」
「誰よりも、コントロールしやすかったから。一番、真面目だし私のことを盲目的に信じてくれていたしね。だから、出世するのを待っていたんだけど……」
「……は?」
「一向に出世しそうになかったし、そうこうしているうちに私のほうが人気作家になって年収が高くなっちゃったし。……ぶっちゃけ、必要なくなったのよ。だから、最後に楽しませてもらおうかなって思ってあの動画を送ったってわけ」
楽しげに種明かしをする風夏の笑顔は、どこか嗜虐的だった。
「光くんも、これを機に自分を見つめ直したほうがいいよ? あんな気持ち悪い小説ばかり書いていないでさ」
「──っ!」
そう言われた途端、自分の中で何かが音を立てて崩れた。
「……気持ち悪いだって?」
「うん。ずっと前から、そう思ってたの。なんで、あんなつまらない小説を一生懸命書いているんだろうって。どうせ、読んでいる人なんてほとんどいないんでしょ?」
つまらない、気持ち悪い──あの小説を貶すということは、ウィステリアをはじめとした俺の大切な読者を貶すことと同義だ。
ごく僅かだけれど、それでも自分の小説を気に入ってくれている人たちは確かに存在する。その人たちを貶める発言だけは、絶対に許せない。
「あの小説を読んでいる人も、きっと光くんと同類なんだろうなぁー。ま、これからも底辺同士仲良くやっていればいいんじゃない?」
「お前……俺のことを貶すだけならまだしも、俺の読者まで馬鹿にするのか!?」
怒号を上げ、手を振りかぶり──風夏の頬を平手打ちしようとした。
けれど、すんでのところで思い留まる。
「どうぞ、叩くならご自由に。……でも、わかっているよね? もし、ちょっとでも怪我をさせたら不利なのはそっちだよ?」
言って、風夏は今にも通報せんばかりにスマホを見せつけてくる。
「お前……よく、こんな非道な真似ができるな」
「え? 私の何が悪いの? 悪いのは、むしろ私の心を繋ぎ止められなかった光くんのほうだよ? 捨てられたくなかったら、もっと頑張れば良かったのに」
きょとん、とした表情で風夏はそう言い放った。
「……」
言葉を失った俺は、風夏をキッと睨みつけると、逃げるように部屋を立ち去った。
二ヶ月後。
結果的に、俺は会社を退職した。精神的ショックが大きすぎて、とてもじゃないけれどいつも通り業務をこなすことなんてできない。
家族や友人、そして仲のいい元同僚からの連絡は全部無視した。いや、反応することができなかったと言ったほうが正しいか。
暮らしぶりは最悪だった。食欲が全然ないので、食事はほぼ一日一回。冷凍食品やカップ麺を一週間分くらい買いだめして、なくなったらまた買いに行く──それの繰り返しだ。
当然、掃除をしたりゴミ捨てに行く気力も湧かないから、どんどん部屋も汚れていく。
このままでは駄目だと思い、自身を鼓舞するが、どうにもこうにも体が動いてくれない。毎日寝てばかりいるし、もはや廃人と化している。
そんなある日。ふと、頭に自分の小説のことがよぎった。
──そういえば……あのアカウント、放置したままだったな。
俺は上体を起こすと、テーブルに手を伸ばし、やっとのことでスマホを取った。
今まで何をするにも億劫で仕方がなかったが、ふと自分の小説の更新を楽しみに待ってくれている読者のことが気になったのだ。
みんな、もう自分のことなんか忘れているかもしれない──そう思いつつも、自分のアカウントを確認してみた。
「あれ……DMが来てる。誰からだろう?」
そう呟きながら、DMを見てみる。
『最近、全然ツイートしていないみたいですけど……大丈夫ですか?』
ウィステリアからのDMだった。
やっぱり、この人は優しい。そう実感するのと同時に、罪悪感に襲われた。
『すみません、ちょっとリアルがバタバタしていまして……暫く、新作を投稿できないかもしれません。お待たせしてしまって申し訳ないです。せっかく、楽しみに待っていてくださっているのに』
慌ててそう返信する。まさか、心配してもらえているなんて思わなかった。
『あ! ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったんです。リアルが忙しかったんですね。あの、どうか無理だけはしないでくださいね。一番大事なのは、ジョンさんの体なんですから』
すぐに、ウィステリアから返信が来た。
間を置かずに、ウィステリアは『それと……』と付け加えて次のメッセージを送ってくる。
『もし何か悩んでいるなら、相談に乗りますよ。私でよければ、ですが……』
そう言われ、俺は戸惑う。
風夏との間に起こったことは、きっと今後も誰にも相談できないだろう。
それもそのはず。幼馴染だけあって、共通の友人や知人が多いからだ。
みんな、俺たちのことを仲睦まじいカップルだと思っている。
プロポーズを応援してくれていた友人たちに、どう説明すればいいのか。彼らをがっかりさせたくない。
──家族には、もっと言えないよな……。
大きく嘆息する。
案外、ウィステリアのような顔の見えないネットの知り合いに相談したほうが気が楽になるのかもしれないけど……。
『いえ、大丈夫です。落ち着いたら、また小説を投稿しますから。楽しみに待っていてくださいね』
一瞬、ウィステリアに胸中を打ち明けようかとも考えた。……が、やっぱりやめておく。
こんな重い話をされたら、きっと向こうも反応に困るだろうし。
『わかりました。待っていますね。あの……私、何があってもジョンさんのファンで居続けますから』
『え……?』
『たとえリアルに居場所がなくなったとしても、ジョンさんにはジョンさんの帰りを待っているフォロワーがいます。もちろん、私もその一人です』
『ウィステリアさん……』
『私、ジョンさんが書かれるお話が大好きです。ジョンさんの一番のファンであると、胸を張って言えます。だから……あまり、自分を卑下しないでくださいね』
『はい……。ありがとう、ウィステリアさん』
ウィステリアとのやり取りを終えた俺は、ここに来て初めて泣いた。
風夏にボロクソに貶された時、まるで「お前には存在価値がない」と人格を全否定されたように感じた。
でも、その一方でウィステリアのように自分を認めてくれる人もいるのだ。
──風夏に言われたことなんか、気にする必要なかったんだ。
あんなクソ女、こっちから願い下げだ。
むしろ、若いうちに縁を切ることができて良かったじゃないか。
悩んでいた時間がもったいない。その時間を執筆のために当てていたら、一体どれだけの作品を生み出せたのだろう?
──ん? ちょっと待てよ……この経験をもとに、小説を書けばいいんじゃないか?
ふと、そんな考えが脳裏をよぎる。
どうして、今まで思いつかなかったんだろう?
少し脚色を加えれば、作品として十分に成り立つはずだ。
……よし、そうと決まったら早速執筆に取り掛からなければ。
それからの俺は、何かに取り憑かれたように小説を書き殴った。寝る間も惜しんで書き続けた。
その間も、ウィステリアは俺を励まし続けてくれた。「新作、楽しみにしています」と──その言葉だけで、いくらでも頑張れる気がした。
リアルのことは、一切知らない。でも、何故かいつもそばにいて応援してくれているような……そんな錯覚に陥る時さえあった。
一ヶ月後。小説を書き上げた俺は、それを小説投稿サイトに掲載した。
少しだけ、反応が怖くもあった。ファンタジー小説を好んで書いていた俺にとって、今作は初の現代ものだ。
今まで、自分の小説を読んでくれていた読者たちに受け入れてもらえるか不安だったのだ。
『凄く良かったですよ、ジョンさん!』
一番初めに感想をくれたのは、ウィステリアだった。
今作は、自分を裏切った元恋人への復讐に燃える男の半生を描いたダークな物語だ。どちらかと言えば、明るいファンタジー作品を好むウィステリアの趣味とは正反対だと思ったのだが……。
──何はともあれ、ウィステリアから好評ならそれで満足だ。
そう思っていた。だが、事態は思わぬ方向へ動き出した。
なんと、書き上げた小説がサイト内で人気になったのだ。
そんな中、読者からこんな質問が来た。
『主人公の心理描写がリアルで、物凄く感情移入してしまいました。もしかして、実体験をもとに書いた話だったりするのでしょうか?』
質問に対して、俺はこう返した。
『いえ、フィクションです。こんなひどい女、リアルにいるわけないじゃないですかw』
すると、その読者は「確かに……それもそうですねw」と納得していた。
……いや、実在するんだけどな。とはいえ、わざわざ言う必要もないので表向きはフィクションということにしておいた。
その後、小説の人気は鰻登りに上がり──信じられないことに、書籍化が決まった。
それからは、トントン拍子に話が進んだ。出版した本はヒットし、レビューも好評。映画化の話も出ている。
「いやぁ……まさか、実体験を小説化したらこんなに売れるとはなぁ」
感慨深い気持ちで、自分が書いた本を手に取る。
すると、不意にインターホンが鳴った。
──こんな夜中に誰だろう? もしかしたら、隣人からの苦情か? 騒音には気をつけていたつもりなのだが……。
怪訝に思いつつも、俺はドアを開けた。
「風夏……?」
何故、こいつがここに……? 引越し先は教えていないはずなのに。共通の友人から無理やり聞き出したのだろうか?
それ以前に、ここオートロックだぞ。もしかして、マンションの住人と一緒に入ってきたのか……?
でも──
──ちょうどいい機会だから、嫌味の一つでも言ってやるか。
「光くん、久しぶり」
「これはこれは、浅倉先生じゃないですか。今頃、何の用ですか? 俺みたいな底辺の家をわざわざ訪ねてくるなんて」
今、住んでいるのは高級マンションだが、嫌味を込めてそう言ってやる。
すると、風夏は媚びるような態度で腕に抱きついてきた。
「実はね、私……あれから反省したの」
「はい……?」
「私、完全に調子に乗ってた。ちょっとチヤホヤされたからって、いい気になってた。ほら、人間誰でも過ちはあるでしょ? 私の場合、それがちょっと行き過ぎていただけっていうか……。とにかく、本当にごめんなさいっ!」
「……」
一体、何を言っているんだ? こいつは。
「……つまり、何が言いたいんでしょうか?」
「もう一度やり直そう、光くん! 光くんも、本当は私のことがずっと忘れられなかったんでしょ? 私、わかってるんだから」
うるうると目を潤ませながら、風夏は詰め寄ってくる。
「はぁ?」
唖然とした。厚顔無恥とはまさにこのことだ。
稼ぎ出した途端、手のひらを返すように擦り寄ってくるんだな。散々、上から目線でこき下ろしてきたくせに、虫が良すぎるだろ。
「新しい彼氏はどうしたんだよ?」
「もちろん、別れたよ? 光くんが一番大事だって気づいたから……」
昔は可愛くて仕方がなかったこの上目遣いも、今はただ不快でしかない。
「……帰れ」
「え?」
「散々、コケにしたくせに今更何なんだよ!? 帰れよ! 二度と俺の前に現れるな!!」
ゴミを見るような目つきでそう吐き捨てると、ドアを勢いよく閉じて彼女を締め出した。
「な、何よ!? せっかく、下手に出て謝ってやったっていうのに! ていうか、私をモデルにしたお陰で本が売れたんでしょ!? それなら、印税よこしなさいよ!!」
何やら意味不明な主張をしながら、風夏はドアをドンドン叩いてくる。
「私、もうアラサーだよ!? あの人とも別れちゃったし、これからどうすればいいのよ!!」
はぁ? 知るかよ、そんなこと。
「ねえ、お願い! やり直そうよ! 光くんがいなくなって、初めて存在の大きさに気づいたの! 光くん以上に優しくて気配り上手で愛情を注いでくれる人なんて、今後もう二度と現れないよっ……!」
……通報しよう。そう思い、スマホを手に取った瞬間。ついに諦めたのか、音はぴたりと止んだ。
それから、一ヶ月後。
何気なくSNSのタイムラインを眺めていると、あるニュースタイトルが目に飛び込んできた。
『人気美人作家さん、彼氏に送ったNTRビデオレターが流出し拡散されてしまうwwwww』
そのフォロワーは、まとめサイトの宣伝ツイートをリツイートしていたようだった。
どうにも気になって仕方がない俺は、吸い寄せられるようにリンクをタップし、そのまとめサイトの記事に飛んだ。
「こ、これは……」
記事内にある、見覚えのある動画──それはあの日、風夏が俺に送ってきた動画だった。
所々、モザイク加工されているものの、同じ動画とみて間違いない。
記事を読んでみると、どうやら流出した原因は間男にあることがわかった。
「どういうことだ……?」
首を傾げつつも、記事を読み進める。
なんでも、間男は社内でスマホを落としてしまったそうだ。
いくら探してもスマホが見つからず、諦めて帰ろうとした時。いつの間にか、自分の机の上にスマホが置いてあったらしい。
その際、間男は「誰かが拾って戻してくれたのかな?」と大して気に留めなかったそうだ。だが、その後まもなく例の動画が拡散されてしまい、彼はそこで初めて事の重大さに気づく。
元の動画は、海外のとあるアダルト動画サイトに投稿されていたそうだ。
日本人もよく利用するサイトなので、誰かが見つけてそれをSNSに転載したのだろう。
動画が拡散されていく中で、動画内に映っている女性が浅倉風夏であることが判明し──ついには、まとめサイトにまで取り上げられてしまった。
ちなみに、間男のスマホを拾って動画を流出させた人物は特定されていないそうだ。
間男の同僚曰く、彼は日常的にパワハラやセクハラをしており複数人から恨みを買っていたそうだから、被害者の中の誰かが犯人ではないかと社内では噂されているそうだが……。
いずれにせよ、スマホのロック解除のパスワードも自分自身の誕生日……と物凄く安直なものだったらしいし、自業自得以外の何物でもないだろう。
「おっ、間男のSNSアカウントも特定されているのか」
呟くと、俺はそのアカウントに飛んでみる。
「って……こいつ、いつも俺に絡んで来ていたアンチじゃねーか!」
例によってアカウント自体は作り直していたが、何故かいつも名前とアイコンが同じだったのですぐわかった。
特定班の情報によると、間男は元々風夏のファンだったそうだ。
恐らく、DMなどで何回か個人的なやり取りを重ねた後、二人で会うようになったのだろう。
──なるほど……つまり、間男は俺の存在を知っていたのか。だから、敵視していたんだな。
ふと、風夏がどうなっているのか気になり、俺は彼女のアカウントに飛んでみる。
リプ欄を覗いてみると、予想通り大炎上していた。
『純愛小説を書いているくせに、自分は浮気していたんですね! 見た目は清楚系だったから、すっかり騙されていました!』
『あんな動画を彼氏さんに送りつけるなんて……彼氏さんが可哀想だとは思わないんですか? 鬼畜ですね!』
『気持ち悪すぎて、もうあなたの書いた小説が読めません。全巻捨てます』
『これからは、純愛じゃなくて寝取られや浮気をテーマに書いたほうがいいんじゃないですか?』
ざっと見たところ、擁護しているユーザーは一人もいない。
純粋なファン達も阿鼻叫喚だし、もはや収拾がつかない状況になっていた。
その騒動から一ヶ月後──沈黙を貫いていた風夏が、ついに謝罪文とともに作家業の休業を発表した。
まあ……表向きは「休業」と言っているが、実質的には引退だろう。
間男は、噂によると会社を解雇されたそうだ。一応、今回の騒動が直接的な原因ではないらしいが、以前から彼が行っていたパワハラやセクハラが問題視されていたようなのでそもそも時間の問題だったのかもしれない。
何はともあれ、風夏と間男の破滅を無事見届けることができたので満足だ。
そんなことを考えながら、きりがいいところまで執筆を終えると──俺は、久しぶりに外出することにした。
──いい天気だなぁ。絶好の散歩日和だ。
雲ひとつない青空を仰いだ後、俺は視線を前方に向ける。
そのまま街路樹が並ぶ通りを歩いていると、ふと見覚えのある女性がこちらに向かって歩いてくることに気づいた。
可憐で今風ながらも、品のある顔立ち。さらさらとした栗色のボブヘアが、そよ風になびいている。
──あれ? もしかして、あの人は……。
依藤奈緒──俺の元同僚だ。いや、でも……何故、彼女がこんな所に?
俺は、依藤さんにろくに挨拶もしないまま逃げるように会社を辞めてしまった。
あれだけ気にかけてもらっていたのに、恩を仇で返すような真似をして……当然ながら、彼女に合わせる顔なんてない。
気づかないふりをして、通り過ぎたほうがいいのか? それとも、挨拶くらいはしたほうがいいのか?
迷っている間にも、彼女との距離はどんどん縮まっていく。
「あ、和泉さん……」
「え? あれ!? 依藤さん!?」
結果的に、相手に声をかけさせる形になってしまった。
少し、白々しかったかもしれないが……無視をするわけにもいかないので、とりあえず今気づいたふりをしておく。
「お久ぶりです、和泉さん」
「お、お久ぶり……えーと……なんで、こんな所に?」
「あ、いえ……その……」
もじもじとしながら、依藤さんは事情を説明してきた。
「部長から、引越し先を聞いたんです。和泉さん、会社を辞める時ひどく落ち込んでいたでしょう? だから、私、ずっと心配で……それで、思い切って新居を訪ねてみようと思ったんです」
「え?」
「あ……ごめんなさい。でも、迷惑でしたよね。私、昔からこうなんです。本当にお節介で……」
そう言って、依藤さんは眉を八の字にした。
「そ、そんなことないよ! むしろ、謝らなきゃいけないのは俺のほうで……ろくに挨拶もしないまま、会社を辞めてしまって本当に申し訳ない!」
誠意が伝わるように、深く頭を下げる。
そんな俺を見て、依藤さんはおろおろしながら「そんな! とんでもないです。頭を上げてください」と言ってくれた。
「それに、私……和泉さんに言わないといけないことがあって。今日は、それを伝える目的もあってここに来たんです」
「ん? どういうこと?」
尋ねると、依藤さんは言いづらそうに話を切り出した。
「──実は、ウィステリアの正体は私なんです」
「!?」
一瞬、思考が停止した。
ウィステリアって……あのウィステリア? 俺のフォロワーで、小説の読者でもあるウィステリアのことなのか?
思いあぐねていると、依藤さんは更に話を続ける。
「きっかけは、手帳を拾ったことでした」
「手帳……?」
手帳と言われ、びくっとしてしまう。
もしかして、俺が普段から持ち歩いている『ネタ帳』のことか……?
「あの日の昼休み──私は給湯室でコーヒーを入れていました。その時、ふと床に黒い手帳が落ちていることに気づいたんです」
黒い手帳……うわあああ! やっぱり、ネタ帳のことか!
恥ずかしさのあまり、悶絶しそうになる。
「悪いと思いつつも、私は中身を見てしまいました。もし、名前が書いてあったら、その人の机の上にそっと戻しておこうと思って。でも、名前は書いてなくて──その代わり、設定やプロットみたいなものが書いてありました。私自身、学生時代に少しだけお話を書いていた時期があったので、すぐに気づきました。『ああ、この手帳の持ち主は小説とか漫画を書いているんだな』って」
「もしかして、その後、すぐに俺が給湯室に戻ってきたから元に戻したとか……?」
当時の記憶を掘り起こしつつ、そう尋ねる。
すると、依藤さんはゆっくりと頷いた。
「はい。誰かの足音が聞こえたので、私は慌てて手帳を元の位置に戻しました。私が給湯室を出た後、入れ違いで和泉さんが給湯室に入っていくのが見えました。だから、もしかしたらあの手帳は和泉さんのものかもしれないって思って……」
「そ、そうだったのか……」
思い出して、顔から火が出そうになった。
「その日の夜。どうしても気になって仕方がなかったので、手帳で見たキーワードを頼りに検索してみたんです。そしたら、和泉さんの小説が引っかかって……最初の数行で世界観に引き込まれた私は、寝る間も惜しんで小説を読み耽りました。そして──気づいたら、私は和泉さんの作品のファンになっていたんです」
「だから、ウィステリアとしてアカウントを作って俺を応援してくれていたのか……」
「はい。でも……」
依藤さんは心なしか頬を淡紅色に染めると、言葉を続ける。
「そのうち、和泉さん自身にも惹かれるようになって──」
「え?」
「あ、えっと……人間的に惹かれたって意味です! 決して、変な意味ではないですよ!?」
必死に否定する依藤さんを見て、俺は思わずフフッと吹き出してしまう。
「な、何がおかしいんですか!?」
「ごめん、ごめん。別に何もおかしくないよ」
「と、とにかくですね……私、ずっと心配していたんです! だから、事情はよくわからなかったけど、ウィステリアとして励ますしかなくて。でも、その後、執筆意欲が戻ったみたいで、こうして成功してくれて……本当に安心しました」
「依藤さん……」
思えば、心を病んだ自分をずっと支えてくれていたのは彼女だった。
彼女の存在がなければ、俺はあのまま再起不能になっていたかもしれない。
いや、よく考えたら、もっと前から支えてくれていたんだ。それこそ、全然小説の人気がなかった頃から。
──ああ、そうか……俺は、ずっと前から彼女のことを……。
「ずっと、正体を隠していてごめんなさい。……あ、お時間を取らせてしまってすみません。どこかに行かれる予定だったんですよね。今日は、和泉さんの元気な顔を見られてよかったです。それじゃあ、私はこれで……」
そう言うと、依藤さんは俺が進もうとしている方向とは逆の方向に歩いて行こうとする。
「待って、依藤さん! 俺も、君に伝えたいことがあるんだ!」
立ち去ろうとする依藤さんを呼び止めると、俺は夢中で言葉を紡ぎ出す。
それと同時に、依藤さんが振り返った。
「俺は、ずっと前から君のことが──」
その瞬間。俺の言葉に被さるように、少し離れた所からビーッとけたたましい車のクラクションが鳴った。
もしかしたら、今の音のせいでうまく彼女に伝わらなかったかもしれない。
そう思い、視線を前方に戻すと──
「い……今言ったこと、本当ですか? 和泉さん……」
そこには、まるで熟れた林檎のように頬を真っ赤に染める依藤さんがいた。
どうやら、心配しなくてもちゃんと伝わっていたようだ。
俺は口をパクパクさせながら慌てふためいている依藤さんのそばまで歩いていくと、にっこり微笑みながら「本当だよ」と返してあげた。